「吾妻鏡」
「建久三年(1192)十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り。午以後霽に屬す。
早旦、 熊谷次郎直實 与 久下權守直光、 御前に於て一决を遂ぐ。是、武藏國熊谷と久下の境相論の事也。直實武勇に於て者、一人當千之名を馳せると雖も、對决に至りて者、再往知十之才に不足。頗に御不審を貽すに依て、將軍家、度々尋問令め給ふ事有り。時に直實申して云はく。『此の事、 梶原平三景時、直光を引級する之間、兼日に道理之由を申し入れる歟。
仍て今、直實頻に下問に預る者也。御成敗之處、直光 定めて眉を開く可し。其の上者、理運の文書要無し。左右に不能』と稱し、縡未だ終ずに、調度文書等を巻き、御壷の中に投げ入れ座を起つ。
猶、忿怒に不堪、西の侍に於て、自ら刀を取り髻を除い、詞を吐て云はく。
『殿の御侍べ登りては』と云々。
則ち南門を走り出で、私宅に歸るに及不逐電す。將軍家殊に驚か令め給ふ。
或説に、西を指し駕を馳せる。若しや京都之方へ赴く歟と云々。
則ち雜色等於相摸、伊豆の所々并びに筥根、走湯山等へ馳せ遣はす。
直實の前途を遮て、遁世之儀を止める可し之由、御家人及び衆徒等之中于仰せ遣は被ると云々。直光者、直實の姨母が夫也。其の好に就き、直實、先年 直光の代官と爲し、京都大番に勤仕令める之時、武藏國の傍輩等同じ役を勤め在洛す。此の間、各、人之代官を以て、直實に對し無礼を現す。直實其の欝憤を散らさん爲、新中納言(知盛)に屬し多年を送り畢。
白地に關東へ下向之折節、石橋合戰有り。
平家の方人と爲し、源家を射ると雖も、其の後又、源家に仕へ、度々の戰塲に於て勳功を抽んずと云々。
而して直光を弃て、新黄門(知盛)の家人に列する之條、宿意之基、と爲し、日來境の違乱に及ぶと云々。」
(建久三年(1192)十一月小二十五日甲午。白い雲が飛んでいたが、昼頃から晴れ。
朝早くから、熊谷次郎直実と久下権守直光が御前で対決。これは、武蔵国熊谷と久下との境界の訴訟。熊谷直実は、武勇は一人で千人にも当たることで有名だが、こと裁判については、言葉のやり取りに充分な力がない。将軍頼朝から何度も質問があった。
そんな時、直実が言うのには、「このことについて、担当の梶原平三景時が、直光をえこひいきをして、いるので今、直実は質問攻めにあっている。裁決は、直光がきっと有利になってしまうだろう。証拠の文書も必要ないし、どうしようもない。」とまだ終わっていないのに、証拠の文書を坪庭に投げて、席を立った。
なおも、怒りは収まらず、西の溜まり場「侍所」で、自分で刀を抜いて髷の髻を切ってしまい、「殿の侍に出世したけれど」といった。直ぐに門を出て、自宅へも帰らず行方をくらました。将軍頼朝は、驚いた。ある者が言うのには、「西へ向かって馬を飛ばしていたんで、もしかしたら京都へ行くつもりかもしれません。」と。すぐに雑用を相模や伊豆のあちこちと箱根神社や伊豆山神社へ走らせ直実の前へ行って、世捨てを止めさせるようにと、御家人や坊さん達に伝えさた。
直光は、直実のおばの連れ合い。その縁戚の関係で、直実は以前に直光の代理として、京都朝廷警備の「大番役」を勤めていた時に、武蔵国の同輩達が同様の役で京都にいたがその時に、代官だと馬鹿にして、直実に対して無礼な態度をとった。直実は、その鬱憤を晴らそうと、新中納言平知盛の家来となり何年か過ごした。にわかに関東へ帰る時に、石橋山の合戦があり、平家に属して、源氏に敵対したが、その後は源氏に仕え、何度も戰塲で手柄を立てた。
そう云う理由で、直光から離れて平知盛の家来になったのが、恨み合いの元となり、年中縄張り争いをするようになったのである。)
この後、直実は伊豆走湯山の専光房に上京を諫止されますが翌年には法然のもとに行き、少年敦盛の首を取って罪の意識に悩む直実は「後生」について、真剣にたずねたところ法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応え、その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、号泣したという。直実は後に多くの寺を開基し頼朝にも説法する高僧になっています。