第五番同國飯泉(現在も第5番は飯泉山勝福寺(飯泉観音))
相州足柄下郡(門前に柑水の流れ有り)飯泉山勝福寺。本尊十一面観世音は、赤栴檀の御衣木を以て毘首羯磨の作る所なり。三國傳来の尊像にして、當地安置の願主は太政大臣弓削道鑑法師なり。又本尊日本へ渡たるは、唐の揚州大明寺の鑑真和尚、天平勝寶六甲午(755年)の正月、始めて我日本え来朝して孝謙天皇え献上せり。佛經佛像等将来せし、是その中の随一なり。天皇特に此の尊を叡信あり、王城に安置して天下万民豊楽を祈り玉ふ。此の故に再帝位に即、称徳天皇と号し奉る。天皇崩御の後、道教下野の國え謫せらる。時に在世の天恩を報ぜん為、天皇より賜る尊像を守奉り、普く世間に結縁して皆共成佛の功徳を以て、御菩提の資糧に充てまく欲し、杳々東海の驛路を經て有縁の霊地を尋ねける。爰に當國足柄郡千代の里に至り笈佛遽に重くなり押居らるる如にして、一歩も進ことを得ず。道教怪しみ思ふには、尊像有縁の地にもやと。心の内に祈請して、南無大悲観世音、此の地に因縁ましまさば、我等衆生の疑念を哀れみ、希有の示現を垂玉へと。至上に念じ奉るに,錠を鎖せし笈なる尊像竝木の梢に飛移り光明を放て立せ玉ふ。道鏡直に霊應に預かり求道の信心倍深く、作禮持念丹精を抽たり。此事誰告るともなく、聞うちにその村の老若集まり、手手に木の竹のと持寄りて、頻りに艸堂を締(むすん)で,件の尊像を安置し奉る。これ當山の濫觴なり。千代村は今の堂地より半里余西なり。予戌の夏巡礼の時、其の村の長を尋て旧跡の事実を知る。尒しより数十の星霜を經て、人皇五十三代淳和帝の天長七年庚戌(830年)の春、本尊の霊告に依て今の所へ御堂の轉地ありとぞ。
巡禮詠歌「せめてはと 捧ぐるあとの 槽櫪(そうれき・馬小屋)に 有餘(かず)の寶を涌す飯泉」此の歌の因縁は、天長七年庚戌の夏、大悲者の告げに依て、千代村より堂地を轉じて、此の地に伽藍を經営ありし時、近きわたりに農家の貧者あり、常に薪を採り疲馬に駄して市に販ぎ、漸く旦暮の炊煙を立る。然れども志淳仆にして、又三寶に歸す。今、大悲堂建立につき諸人の金材を喜捨するを見て、或は随喜し、或は羨て、我畜所の疲馬を三貫文に賣。其の錢を観音奉加所え納、我等が當来を助玉へと、夫婦もろとも専心に哀愍納受を祈るにぞ、斯て翌朝に至り、厩の掃除に行たるに、槽櫪の中に錢三貫文あり。夫婦驚き怪みて急ぎ彼の奉加所に往き見るに、奉納錢はその侭あり。扨は大悲の我等が貧苦を憐て授け賜し物ならんと、三貫文にて馬も買戻し、益信心を起しければ、程なく家富栄て財寶は泉の湧くが如く、國中第一の長者となりぬ。見る人聞者貴み羨しとぞ。
阿闍世王受決經に曰く、王乃し勅して百斛の油膏を具へて宮門より祇洹精舎に至る。時に貧窮の老母あり、常に至心有りて、佛を供養せんと欲す。而れども、資財無し。王の此の功徳を作すを見て、乃し更に感激して乞を行じて両錢を得たり。以て麻油家に至て膏を買ふ。膏主の曰く、母人は大貧窮にして両錢を得たり、何ぞ食を買て自ら以て連継(いのちをつなぐ)せず、此の膏を用ること為すや。母の曰く、我聞く、佛は百劫に一たびも値ふべきこと難し、我幸に佛世に逢ふ。而れども供養することなし。今日、王の功徳を作すこと巍巍として無量なることを見て、我が意を激起す。實に貧愚なりと雖も、故(さら)に一燈を然して、後世の根本と為ん者也。是に於いて膏主其の至意を知り、両錢膏を與へば、二合を得べきに特に三合を益し凢て五合を得たり。母則ち往て佛前に當ぬて之を然す。心に此の膏を計るに半夕にも足らず。乃し自ら誓て言く、若し我後世得道して佛の如くならば、膏當に通夕光明消へざるべしと。禮を作して去る。王の所然の燈、或は消え、或は盡く。人有りて侍すと雖も
恒に周匝せず。老母の所然の一燈、光明特に朗にして殊に諸燈に勝れたり。通夕不滅。膏又不盡。明朝に至りて母復た来たり前(すすんで)頭面作禮す。叉手して却ずき住す。佛、目連に告ぐ、天今已に暁ぬ。應に諸燈を滅すべしと。目連、教を承て次を以て諸燈を滅す。皆已滅しぬ、唯此の母の一燈、三たび滅すに不滅、便ち袈裟を擧げて以て之を扇ぐに益々明らかなり。乃し威神を以て、随藍風(たけきかぜ)を引て燈を吹くに老母の燈更に盛猛なり。乃し上梵天を照らし傍ら三千世界を照らし、悉く其の光を見る。佛、目連に告はく、止ね止ね、此れ當来の佛の光明功徳なり。汝が威神の毀滅すべき所に非ず。此の母、宿命に百八十億の佛を供養し、已って前佛に随って決を受く。務るに經法を以て、人民を教授し開化す。未だ檀を修するに暇あらず、故に今貧窮にして財寶あることなし。却後三十劫功徳成満して當に作佛を得べし。號して須彌燈火如来と曰ん。
栴檀此には與樂と云ふ。白檀は能く熱病を自し、赤檀は能く風腫を厺る、皆病を除き身安きの藥なるを以ての故に與樂と云ふ事、苑七慈恩三蔵出傳に云。称刺耶山(まりやさん)の中に栴檀香樹有り。樹は白楊に属す。其の質涼冷なり。蛇多く之に附く。冬に至って方に蟄すればもって、檀を別也。正法念經に云、此の州に山あり、名けて高山と曰く、此の山峯の状、牛の牛頭の如し。此の峯の中に於て、栴檀樹を生ず。故に、牛頭と名く。大論に云、摩梨山を除いては栴檀を出す山なし(「大智度論・大智度初品總説如是我聞釋論第三卷第二」「如伊蘭中 牛頭栴檀如苦種中 甘善美果 設能信者 是人則信 外經書中 自出好語 諸好實語 皆從佛出 如栴檀香 出摩梨山 除摩梨山 無出栴檀」)。白檀は熱病を治し、赤檀は風腫を厺る、法華に云、又海此岸栴檀之香を雨らす。此の香六銖は値直娑婆世界なり(「妙法蓮華經・藥王菩薩本事品第二十三」)。補注に云、妙高山の内海の此岸也。即ち南岸也。倫註云、六銖とは、二十四銖を両と云ひ、六銖と言ふは即ち一両の中の四分が一也。直談云、天竺の摩利山の香木也。彼の山の形、牛の頭に似たれば、牛頭栴檀と云。此の木涼質なれば群蛇多く栖は、故に輙く得難き者、閻浮最上の香木を纔に六銖を焼くは、
三千界に薫す。六銖は一銭半目也。愚云、十一面陀羅尼經の造像の文、及び餘の經軌の所説多くは白栴檀也。和俗の稱する所は赤檀也。白木蒼木等の意乎。
佛菩薩の像に天竺毘首羯磨の作と云あり。毘首羯磨此には種種工巧を飜ず。故に天竺毘首羯磨の作と云は、天竺の佛工の作と云こと也。而るに世俗は之を知らず西域の佛師のと思へり。誤を糺すべきなり。もと帝釈の臣工巧の天を毘首羯磨と名く。之に依りて天竺の細工人、毎に此の天を祭る(谷響集)。起世因本經に曰く、時に帝釈天王、瓔珞を得んと欲して即ち毘首羯磨天を念ずれば、彼の天子、即便ち衆寶の瓔珞を化作して、天王に奉上す。若し三十三天の諸の眷属等瓔珞を須むれば、毘首羯磨亦皆化出して之を供給す。
河州弓削氏道鏡法師は、東大寺義淵和尚の徒にして、玄賓僧都の族なり。梵學あり、召して禁裏の内道場に入れて、如意輪観音供を修せしむ。孝謙帝密かに其の人品叡覧あり、勅して大臣に准じて、常に禁掖に侍せしめ、天寵深し(日本准大臣の始)。天平寶字八年(764年)秋九月大臣禅師と号す。此は淡路廃帝の御宇なり。翌る天平神護元年孝謙帝再び即位あり。道鏡倍恩寵を蒙り、同年十一月太政大臣に任ぜらる。同じく二年法皇位の尊号を賜り、出入警蹕乗與に准ず。景雲三年(769年)正月三日西宮前段に居て、百僚の朝賀を受く。道鏡此の寵遇に傲り、天位を望の謀略あり。太宰の主神阿曽麻呂道鏡に阿諛ふて、其年の七月八幡の託宣を矯り、道鏡帝位に登ば、天下倍泰平ならんと奏す。道鏡偽り喜び帝も位を譲らんと思玉ふ。是に於いて帝の夢に神使来り勅使を請玉ふ。帝驚覚めて和気清麻呂を宇佐え遣し奉幣して神託を伺奉るに、八幡太神神託して曰く、我國は神武以来皇胤の外へ天祚を移し継ぐことなし。早く邪徒を整さずんば必ず國家の乱れならん、と。清麿神託骨随に銘じ急ぎ都に還り具に奉達す。是の故に道鏡陰謀形れて、寶亀元年(770年)の八月稱徳帝崩御の後、下野の國へ謫せらる。同く三年四月彼の地にて病死せしと。元亨釈書、八幡本紀、類聚国史、水鏡等に出。