福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・19

2017-05-30 | 霊魂論
しかして十界三千諸法互に総・別(総体と個別)となる。即ち別は総に趣くの功あり、総は別を摂するの用あり、一即一切、一切即一円融自在なるを諸法実相となす、なほこの義を詳かにするものは山家(天台宗山家派)所立の理具の三千、事造の三千に各総別ある説(真理の三千世界、現実の三千世界それぞれが総合世界と個別世界を持つ)である。

即ち山家において理事(真理と現象)に各々総別(総体と個別)あることを明かすは、これ,真如縁起説に同ずる山外の説,に簡別せんがためである。山外(天台宗山外派)の義によれば能具能造の総は、唯真如の理にして、別は十界の衆生の色心萬差の法である(天台宗山外派は華厳の影響を受け真如が縁に触れて三千世界という万象を作り出すとする)。かかる理総事別の一重の説にては、別なる三千の諸法は全く生滅の妄法となり、総たる真如の理に還元する摂相帰性の教となり、三千の當體を動ぜず、法性本学の妙法なる深意顕はれず。

然るに(山家派は)三千の法は法爾として互具互融し、一を挙ぐれば一切はその一に融じきたり、互に能具能造の惣の義あると共に、所造所具の別の義あり、此の妙趣を顕さんとして、理事各々惣別あることを説くものである。

要するに山家には理具の三千、事造の三千不二一如の故に、理具三千の上に、一を挙ぐるは惣、その一に融じ来り、一切は別、事造三千の上にも、一をくぐれば惣、その一に趣く一切は別なり、但し理具の三千、事造の三千、六千の法を立するにあらず、ただ一の三千の法の上に理具の三千と事造の三千とを成ず。

即ち十界三千の法、宛然並び立つ差相が事造の三千なり、その羅列せる森羅の三千の法、各々自性無性にして、相融ずるを理具の三千といふ。例へば一室に千燈を點じ、その千燈各々差別せるところが事の三千、千燈はただ一光に相融ずるところが理の三千である

即ち起信論等の心性縁起も教説に依れば真如の理性は非色非心の真心にして、十界衆生の色心の諸法は、この無相の真心より生起すと説くも、色心法爾の実相を談ずる天台よりいへば、事造三千の諸法の奥に無性の理性あり、それを理具法性と云ふにあらず、依正色心の現前の事法が自然無性體一互融なるを理具の三千と云ふ。

かく事造の三千の全体即理具の三千にして、事全理、理全事、その法體を究むれば、事理共に、本有常住の色心の一法である。この本有常住の色心の一法を體に約して理具の三千といひ、事用に約して、事造の三千と云ふ。事理は法爾本有の色心の一法の體用なれば、體用同時にして事理相即す。

此の體用(本体と作用)同時、事理(現象と真理)相即の妙體を諸法実相といひ妙法等と称す。
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