福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・18

2017-05-29 | 霊魂論
前叙の如く三千円具の甚深なる実相観に依り、一切世界は常寂光の法身の境界にして、一切の衆生各々法界の主となる妙旨顕はる。しかしてかかる甚深なる実相観は、これ(摩訶止観を説いた天台大師)智者大師の創唱ともいひ得らるべきものである。

即ち一念三千の説は摩訶止観の(巻第五の上)観不思議境の説段に開演せられたる法門である。「夫れ一心に十法界を具す。一法界又十法界を具して百法界なり。一界に三十種世間を具し。百法界は即ち三千種世間を具し。此三千は一念の心にあり。若し心なくば已みなん。介爾(けに)にも心あれば即ち三千を具す。亦た一心は前にあり一切法は後にありとは言わず。亦た一切の法は前に在り一心は後にありとは言わず。(中略)若し一心より一切の法を生ぜば、此れ則ち縱なり。若し心が一時に一切の法を含まば、此れ即ち横なり。縱もた亦不可なり。横も亦た不可なり。ただ心は是れ一切法、一切法は是れ心なるなり。ゆえに縱にあらず横にあらず、一にあらず、異にあらず、玄妙深絶にして識の識る所にあらず。言の言うところにあらず。ゆえに稱して不思議の境となす。意は此にあるなり。 云云

即ち一念心に三千を具すとは、一心に十法界を具す、この一心に具するところの十法界の、一界ごとにまた十法界を具すれば百法界なり、此の百法界各々に相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(原因)・縁(条件)・果(結果)・報(縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(以上「相」から「報」にいたるまでの9つの存在の有様が究極的に平等であること)の十如を配すれば相乗して千如となる、この千如是に衆生世間(いのちある者・衆生)、國土世間(衆生を容れる山河大地等環境)、五陰世間(衆生を構成している色・受・想・行・識)の三種世間を具すれば三千世間となる。此の三千に一切法を摂し尽くし、而も此の三千の諸法全く行者の一念心なりと観ずるを、一念三千の法門とす(一瞬の心の動きにも法界のすべてがあるとする)。

しかして妙行には近要に約し、己心を観境とするが故に、一念三千の釈あるも、妙解に約して広くいえば十界の色心塵々法々皆同一性の三千を具せざるはなし、此の理を明かすものは、かの三千総別の説である。別とは三千の法一一これは佛、これは衆生、これは色、これは心等と各々一層に約して名をたつる位なり。しかして佛も三千法界中の佛、衆生も三千法界中の衆生、色、声、香、味等乃至塵々法々皆三千法性中の所立なるが故に一法を挙ぐれば自余の一切法は、その一法に融じきたりて一に摂せらる。例へば一華を挙ぐれば、十界三千の諸法一華のうちに融じ来りて、十界三千唯一の華の境界となり、一輪の華を以て法界を摂し、一華これ法界の主となる。

かく一切が一に融じきたり、一をもって一切を摂するを「総」といひ、一切法一に趣き、しかも各々その自体を失わざるを「別」といふ。




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