福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,仏教のおしえのなかでは、「福を求めるな」とされるのはなぜか?

2018-09-13 | Q&A
Q,抜苦与楽は仏の大慈悲であるのに仏教のおしえのなかでは、「福を求めるな」とされるのはなぜか?
A,仏教では「福を求める欲心を棄てよ、欲を棄てれば逆に福は自然に集まってくる」ということを教えている。

夢中問答集(無窓疎石)より・・・1
今生の福報
「問、抜苦与楽は仏の大慈大悲なるに、仏教の中に人の福を求めるを制するはなぜか?」
「答、世間に福を求める人、商人、農作、工芸、奉公等さまざまあれどもその求めるところは福である。しかし生涯ただ身心を労するばかりでその志の如く求め得たる福もなし。たまたま求め得て一旦のたのしみありといえども或いは火に焼かれ、水に流され、或いは盗賊に取られ、官人に奪われる。たとひ一期のあいだにかかる難に遭はざる者も報命尽きる時その福身にしたがふことなし。福おおければ罪も亦多きがゆえに、来生に必ず悪道に入る。・・今生に貧人となれることは前世の慳貪の業の報ひなり。かようの理をば知らずして或いは世を渡る計のつたなさきゆえに貧しき人ありと思へり。もし前世の福因なくばたとひ世を渡る様をさまざまに習ひてそのごとくにふるまふとも、福分のまさることあるべからず。・・しかればすなわち福を求むる欲心をだに捨つれば福分は自然に満足すべし。これゆえ仏教に人の福を求めることを制するなり。福を求めずして貧しかれとにはあらず。雑宝蔵経に、天竺の須達長者、老後の福報おとろへて、ただ夫婦二人のみになりにけり。財宝は無けれども、さすがに空倉はあまたありけり。もしやとて倉の内を探すほどに栴檀にてさしたる,斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命を継ぎなむとうれしく思へり。・・(その後に舎利弗・目連・迦葉・如来、至り玉へて4升すべて供養し奉る)。その後、長者空き倉をみるに倉ごとに米・銭・絹布・金銀等の種々の財宝もとの如く面々の倉に満ちみてり。・・かかる福分の再び来たれることは、四升のかわりに仏の与え給へるにはあらず、ただこれ須達夫妻ともに無欲清浄なる心中より来たれり。末代なりとももし人かように無欲ならば、無限の福徳やがて満足すべし。・・須達が心を学ばずしてただ彼が如く楽を得んとおもひて欲情のままに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあらず、来世は必ず餓鬼道に入るべし。

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