地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の8/9
八、清水寺、将軍地蔵の事
延鎮法師(平安前期の法相宗の僧で京都清水寺の開祖。一説に弘仁12(821)年没。報恩の高弟で師の没後,子島寺を継いだ。宝亀9(778)年京都の乙輪(音羽)山に移り,延暦17(798)年坂上田村麻呂がその地に開いた清水寺の開祖となった)は報恩法師(七一八頃〜七九五)は、吉野山を中心に五十年近く山林修行。特に観音の陀羅尼を持誦し、その験力を認められ、孝謙天皇や桓武天皇の御病を加持したとされる。大和子嶋寺を創建し内供奉十禅師)の門徒なり。坂将軍田村と親友たりしが将軍、勅をうけて奥州の逆賊高丸を追伐しに向玉ふとき、延鎮に語り玉はく、我今度皇の詔を承りて夷賊を征せんとして下向す。若し法力を假らずんばいかでか命を辱めざることを得んや。公意を加へとあれ玉へとあれば、延鎮子細にや及ぶべきとて諾申されし。已に駿河の國清見関にやどる将軍の師を出だされて向玉ふ由を聞きて奥州へ退きぬ(奥州の逆賊高丸が駿河国の清見関を目指して攻め上がり、坂将軍田村の出陣を聞いた高丸は奥州へと退いた)兎角して両軍鉾を交るに夷族の兵強くして官軍矢ことごとく尽きぬ。如何ともすべきことなきところに小比丘及び小男子の矢を拾て将軍に與ふ。将軍奇異の思いをなし玉ふ。已にして将軍みずから高丸を射て斃玉ひぬ。首を帝城に献じ万歳を唱て将軍先ず延鎮に参りて師の護念によりて已に逆賊を誅す、知らず師いかなる法をか修するや。延鎮答ての玉はく、我が法中に勝軍地蔵勝敵毘沙門と云あり(此の修法は不明)。我れ二尊の像を造りて供修するのみと云々。将軍即ち二人矢を拾たまふ事を談ず。乃ち殿に入りて尊像を拝見し玉へば矢の疵刀の瘢、尊体に被らしむ。そのうへ泥土を脚に塗り玉へり。(以上ほとんど元亨釈書の記述通り。)将軍大に驚き帝に奏聞し奉りければ御感ありて敬信甚だしくありけれるとなん寺の寺の縁起等は元亨釈書の寺像志に在り。略し侍る。