福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」の意味

2013-02-04 | 法話
 歎異抄第六章「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
 親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこときはめたる荒涼のことなり。
 つくべき縁あればともなひ、はなるべきべき縁あればはなるることあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。
 自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。」
(専修念仏の輩のなかでも、自分の弟子だ、ひとの弟子だという言い争いがあると聞くが、もってのほかのことです。
 親鸞は、一人の弟子とて持ってはいません。何故ならば、わがはからいの力でひとに念仏を申させているというのなら、自分の弟子でもありましょうが、決してそうではなく阿弥陀如来のおはたらきで念仏申している人を、わが弟子などということは、全くとんでもないことです。
 つくべき縁があれば伴い、離れるべき縁があれば離れることもあるものであるのに、師に背き、他の人に従って念仏するようでは往生できないのである、などということは間違っても言ってはならないことです。如来からいただいた信心を、まるで自分が与えたものででもあるかのように、取り返そうとでもいうのでありましょうか。かえすがえすも、あってはならないことです。
 如来の願力のもよおしにかなったならば、自ずから仏恩をも知り、また師の恩をも知るはずのものです。)
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