9月6日午前10時50分。この日二番目の参詣所に来ました。
根津神社(根津権現)(東京都文京区根津1-28-9) 御祭神 須佐之男命
大山咋命 誉田別命 相殿 大国主命 菅原道真公
由来では、1900余年の昔、景行天皇在位の時、日本武尊が、千駄木駒込の地に、創祀したと伝えられる古社で、文明年間には、太田道灌が、社殿を奉建したと言われています。宝永2年、五代将軍綱吉は、兄の綱重の子である綱豊(六代将軍家宣)を養嗣子に定めた時、氏神であった根津神社に、屋敷地を献納し、世に、天下普請といわれる大造営が行われました。翌、1706年完成
した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の七棟の結構が、全て、現存されています。明治維新には、明治天皇御東幸では、勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められるなど、古来御神威高い名社です。(由緒書きがきより)
この地も、本郷通りと不忍通りに挟まれ、日本医科大学と、東京大学に挟まれた文教地区にあり、閑静な所です。さすが、徳川家が誇る神社境内7000坪の敷地は、徳川綱重が、屋敷の庭としてつつじ3000株、その種類数十種と言われ、春の季節は、文字通り、百花繚乱、花々が、咲き競う楽園浄土になると言います。「つつじヶ岡」とも呼ばれています。
神社といえば山車、神輿のお祭りです。六代将軍家宣は、幕制で持って、根津神社の祭礼を定め、正徳4年(1714年)、江戸全町から山車を出し、天下祭と言われる壮大な祭礼を催したと言います。現存する大神輿3基は、家宣が奉納したものです。同じ格式による山王祭と神田祭と合わせ、江戸の三大祭りと言われています。町中、熱気に溢れ、勇壮で、見事なものです。
世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神(うぶずな)として創建されただけあって、この日は、一組の赤子を抱いた黒いスーツ姿の若夫婦と、介添え役か、同じ黒スーツ着用した、老夫婦が、お参りをしていました。広い境内に、緑滴る木々が並び、落ち着いた空気が流れていました。
神社の掲示板には、こんな知らせが掲げられていました。
「うれしい知らせがあつたとき、気分が落ち込んでしまったとき、何かを決意したとき、
ふと、神様に手を合わせたくなることがあります。そんなとき、心静かに手を合わせられる場所が身近にあれば、日々の暮らしは、もつと穏やかなものになるでしょう。
御神札(おふだ)をまつることで、神様をより近くにお迎えすることが出来ます。お部屋の中に、自分だけの「祈りの場」がある暮らし、始めてみませんか。」
ここでは、講員めいめいが、黙読で、般若心経秘鍵をお唱えします。この東京十社の参拝で、私には、神社の存在が、グーンと身近なものになり、神仏一体の拝礼が寺院だけに限らず、神社のよろずの神にも、祈りの息吹が通じることに、有り難い気持ちになります。いまや、寺院・神社を問わず、「般若心経」、「光明真言」など、佛教で学んだ「お経」を、お唱えしています。ありがたいことです。
根津神社の最後は、本居宣長の「生命の言葉」で締めましょう。
「たなつもの(注) 百(もも)の木草も 天照らす 日の大神(おおかみ)の めぐみ得てこそ」
(注、「たなつもの」とは種(たね)からとれる穀物のこと)
根津神社(根津権現)(東京都文京区根津1-28-9) 御祭神 須佐之男命
大山咋命 誉田別命 相殿 大国主命 菅原道真公
由来では、1900余年の昔、景行天皇在位の時、日本武尊が、千駄木駒込の地に、創祀したと伝えられる古社で、文明年間には、太田道灌が、社殿を奉建したと言われています。宝永2年、五代将軍綱吉は、兄の綱重の子である綱豊(六代将軍家宣)を養嗣子に定めた時、氏神であった根津神社に、屋敷地を献納し、世に、天下普請といわれる大造営が行われました。翌、1706年完成
した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の七棟の結構が、全て、現存されています。明治維新には、明治天皇御東幸では、勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められるなど、古来御神威高い名社です。(由緒書きがきより)
この地も、本郷通りと不忍通りに挟まれ、日本医科大学と、東京大学に挟まれた文教地区にあり、閑静な所です。さすが、徳川家が誇る神社境内7000坪の敷地は、徳川綱重が、屋敷の庭としてつつじ3000株、その種類数十種と言われ、春の季節は、文字通り、百花繚乱、花々が、咲き競う楽園浄土になると言います。「つつじヶ岡」とも呼ばれています。
神社といえば山車、神輿のお祭りです。六代将軍家宣は、幕制で持って、根津神社の祭礼を定め、正徳4年(1714年)、江戸全町から山車を出し、天下祭と言われる壮大な祭礼を催したと言います。現存する大神輿3基は、家宣が奉納したものです。同じ格式による山王祭と神田祭と合わせ、江戸の三大祭りと言われています。町中、熱気に溢れ、勇壮で、見事なものです。
世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神(うぶずな)として創建されただけあって、この日は、一組の赤子を抱いた黒いスーツ姿の若夫婦と、介添え役か、同じ黒スーツ着用した、老夫婦が、お参りをしていました。広い境内に、緑滴る木々が並び、落ち着いた空気が流れていました。
神社の掲示板には、こんな知らせが掲げられていました。
「うれしい知らせがあつたとき、気分が落ち込んでしまったとき、何かを決意したとき、
ふと、神様に手を合わせたくなることがあります。そんなとき、心静かに手を合わせられる場所が身近にあれば、日々の暮らしは、もつと穏やかなものになるでしょう。
御神札(おふだ)をまつることで、神様をより近くにお迎えすることが出来ます。お部屋の中に、自分だけの「祈りの場」がある暮らし、始めてみませんか。」
ここでは、講員めいめいが、黙読で、般若心経秘鍵をお唱えします。この東京十社の参拝で、私には、神社の存在が、グーンと身近なものになり、神仏一体の拝礼が寺院だけに限らず、神社のよろずの神にも、祈りの息吹が通じることに、有り難い気持ちになります。いまや、寺院・神社を問わず、「般若心経」、「光明真言」など、佛教で学んだ「お経」を、お唱えしています。ありがたいことです。
根津神社の最後は、本居宣長の「生命の言葉」で締めましょう。
「たなつもの(注) 百(もも)の木草も 天照らす 日の大神(おおかみ)の めぐみ得てこそ」
(注、「たなつもの」とは種(たね)からとれる穀物のこと)