福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の江戸33観音東京10社参拝記を作ってくださいました、3/4

2015-09-15 | 開催報告/巡礼記録
ここ(根津神社)から、さらに歩いて、最後の巡拝寺に向います。午前11時50分。傳通院に着きました。


その前に、懸案の佛教に関する自問自答を書いておきます。くどいでしょうが、ご勘弁ください。


佛教は、「修行」することに尽きると理解しました。修行を務め、励むこと事から、人生の価値、生きる喜びを感得することであると思います。そして「修行」は、日々実践することで、人間を向上させることでもあると思いました。その「修行」とは、朝に、仏前で、お経をとなえること。朝夕、先祖・両親の霊に祈りを捧げることも大切です。これも、勤行、「修行」でしょう。しかし、佛教を極めるための「修行」は、もっと、厳しく、精神集中を自分に課し、悟ることが出来できようが、出来まいが、死ぬまで、日々、時々、そのために、読経・座禅・巡拝行などを、確実に励行する決意で臨まなければ、仏様の「智慧」が得られないように思いました。


そこで思い出すのは、2500年前、お釈迦様がお唱えになった三宝。仏・法・僧。なかでも、「僧」は、大切で、僧侶のことだけでなく、法を信ずる僧侶予備軍の出家グループ(「僧伽(サンガ)」というそうです)が大切です。そして、この「僧伽」には、2500年前も、今も変わらない、社会の格差に苦しみや生きることに失望した人が、自殺を試みる前、最後の生きる拠りどころとして参加した人が多いことを知りました。人生を悲観し、もう死ぬことしかない人たちが、生きるところとして、「僧伽」があり、そこでは、もう世間で働くことはせず、托鉢に頼み、人から、食べ残しを分けてもらい、あとは、終日毎日、死ぬまで、「修行」を続ける集団ということです。

いわゆる、世間並みの社会生活を放擲し、仏道に一意専念すると言う、強烈で厳格で、素晴らしいい一途な生き方こそ、憧憬に値する生き方と思いました。そこで、思い出すのは、 今朝方、鉄道自殺した人が、もし、「佛教」を知っていたら?(福聚講は「祈ればかならず助かる」ことを弘めるためにつくられました。

残念なことに、現代日本には、お釈迦様が作られた「僧伽」のような集団はありませんが、「世間が盛んに弄んでいる価値」を180度、転換、放擲して、「世間的幸福」を棄てあらたに、「自分の幸福」をもち、自分の存在に自信を持つ。そして、佛教に徹底的に専念する。生きる智慧を習得できるように、死ぬまで、努力をする、「自分の生き方」を出来るようになれば?と思いをはせたものです。生活費や金銭問題は、究極の場合は、どう解決すればいいのでしょうか?難しい問題です。人それぞれ、各人各様の自殺する理由、生きるための方法手段があるはずです。極端な場合、いわゆる金も私財もないのであったら最後の手段として国の機関から、生活保護などの支援もあるのではないでしょうか。とにかく、先ず、生きることす。


そして、想像することは、果たして、今日、日本には、数多の寺社がありますが、もし、自殺を決意した人が、寺社に、血相を変えて、助けを求めて駆け込んだとしたら、きちんと相談に乗ってくれるところや、寺社関係者が居るだろうかと言う、”疑念”が、脳裏を掠めるのです。法話を語り、何事もなければ普通の寺社関係者も、ひとたび、自殺を決意した人に、訴えられれば、周章狼狽して、正面から向き合う人(宗教者]がどれだけいるだろう?とつい思ってしまいます・・・・高原講元様から、いかなる俗僧でも、きちんと崇めなさいと言われているので、これ以上及言しないでおきますが。


以上は、人とごとではなく、自分のことでもあります。決して、客観的な他人事の話ではないことを甚だ僭越ですが申し述べておきます。相済みません。


第十二番札所 無量山 傳通院壽経寺(東京都文京区小石川3-14-6) 本尊 阿弥陀如来 札所本尊 無量聖観世音菩薩 宗派 浄土宗


傳通院は、由緒正しいなかなか賑やかな寺院です。傳通院を開山した、了譽聖冏(りょうよしょうげい)上人は、大名僧ですし、徳川家康の生母・お大の方や、千姫の墓所もあり、歴代徳川将軍家の菩提寺でもありました。流石に、格式高い堂々とした、本堂が控え建っていて、ただただ、感心するばかりです。


傳通院は、応永22年(1415年)、浄土宗第七祖である了譽聖冏上人が、江戸・小石川極楽水に、小さな草庵で、無量山寿経寺という寺名で開創されました。小庵ながらも、修行や宗学研究、著作や講義を行ったと言われています。200年後の慶長7年(1602年)8月29日、徳川家康の生母である、お大の方[法名傳通院殿]が、伏見城で逝去したため、この壽経寺で、葬儀と埋葬を行うため、寺宇を、現在地に移し、菩提寺として、増上寺の中興上人である源譽存応上人が兼務して無量山傳通院壽経寺とし、お大の方の法名も、「傳通院殿」から、「傳通院」と呼ばれるようになりました。慶長13年[1608年]傳通院殿七回忌の法要を務め、この年、正譽廓山上人を中興開山として、増上寺から所化300人を移し、学寮を創設して、関東18檀林の一つとして、学僧の修行勉学の場となり僧侶養成の重責を担つていたといいます。天和8年(1622年)以来、傳通院は、増上寺の次席となり、徳川家の菩提所になりました。享保6年[1721年]、同10年[1725年]、明治43年(1910年)と三度の火災に遭い、さらに、昭和25年5月、第二次世界大戦での東京大空襲では、境内建物、寶物は、全て焼失してしまいました。これより先、明治2年[1869年]には、明治天皇の勅願所になったのですが、廃仏毀釈の大打撃を受けました。こうした、受難にもめけず、復興に取り組み、昭和63年[1988年]本堂を再建、以後、年を追って、各種建築を行い、今日に至りました。


傳通院を開山した了譽聖冏(りょうよしょうげい)上人[1341年~1420年]に付いて、少し、ご紹介しておきます。


了譽聖冏上人は、常陸国久慈郡巌瀬[現在の那珂郡郡大宮町上岩瀬]の城主,白石志摩守宗義の子で、5才の時、父親が戦いで非業の死を遂げ、三年後、父の菩提を弔うために、瓜連常福寺・了実上人につき、出家し名を聖冏と改めました.上人は、修行・勉学に励み、佛教全般・神道・和歌にも通じ、残した著作は、百巻を超えると言います。那珂でも、「選択伝溝弘決疑鈔直牒」十巻は、応永3年(1396年)に、起こった{佐竹氏の乱}を避け阿弥陀山(不軽山)の洞窟に身を隠し、干し柿を食べて飢えを凌ぎ、洞穴の水滴を硯に受けて撰述したと言う。


聖冏上人当時の浄土宗は、「寓宗」「附庸宗」と呼ばれ、未だ独立した宗とは認められては居ませんでした。それを嘆いた聖冏上人は,伝法を確立して、現在の浄土宗の基礎を築いたのでした。晩年、弟子の聖聡上人[増上寺を開山]の要請により小石川に草庵を結んで移り住み、念仏教化をおこないました。応永27年(1420年)9月27日、80歳で往生されたといいます。


上人には、「三日月」の相があつたと言う言い伝えから「繊月禅師」とも言われ,同寺の境内にある「繊月会館」の名称は、同上人の遺徳を現代に顕彰するために命名したそうです。


つぎに、於大の方(おだいのかた)[1528年~1602年)です。

徳川家康の生母。お大の方ともいいます。

三河(愛知県)刈屋城主・水野忠政の娘として生れる。天文10年(1541年)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年、竹千代[後の、家康]を出産。父・水野忠政死後に、刈屋城を継いだ兄・信元は、織田家に付いた。今川氏の保護を受けていた松平広忠は、今川家を、慮つて、お大を離縁して、刈屋に返したのです。後に、家康が、織田家の人質になってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと言います。家康も、生母の至情を忘れることなく天下統一の後には、再婚しているお大にも拘わらず、全く実家の者としてお大を迎え入れました。お大は、慶長7年[1602年]75歳で、伏見城で亡く なりました。


流石に、傳通院のある、町は、江戸時代には、徳川将軍家のご料地でもあり、大名屋敷も多くあつたせいか、お寺の境内の広さもさることながら、周囲の町並みも、閑静で落ち着いています。近くには東京ドームがありますが、かなり距離があるので気になりません。中央大学のビルの校舎がみえるくらいです。


門入口に、近藤勇の新撰組の前身になつた、浪士隊の結成跡、処静院跡の石柱があります。傳通院の塔頭の一つで、傳通院前の福聚院北側あった処静院に立っていたそうです。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えています。「不許葷酒入門内」としっかり刻まれています。文久3年(1863年)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織、「浪士隊」の結成大会が、処静院でおこなわれました。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁らが、中心に総勢250人が結集。その後、浪士隊を離れて新撰組と名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司らが、平隊員として加わっていました。一行は、文久3年2月8日、京都に出発したのです。明治と年号が改まる、5年前のことでした。[同寺パンフレット参照]


御詠歌  「ありがたや まことの道を ふむ人は じひのあみだが すくうとうとさ」

こうした江戸末期から、明治維新にかけて、多くの史跡、文化財、史実、伝説、逸話など、
におめにかかれるのも、この、昭和新撰江戸三十三観音の醍醐味と言えます。こうして、午後12時20分、無事終了しました。帰りの途中に、立派な茶色レンガの7階建てビルがありました。?ビルの正面には、青銅色の胸像と、並んで、右腕に親指を一本立てて握った、同じ青銅色の彫刻が一本。銘版に「浪越校長・黄金の腕」とあります。さらに、「おせば生命の泉湧く」。そうです、懐かしいマッサージで一世を風靡した浪越徳治郎氏でした。日本指圧専門学校と治療センタービルも作っていたのでした。



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