Q、仏教を勉強しているのですが仏教で説かれている考え方は毎日の仕事の世界ではむしろ邪魔になり、周囲とレベルが合わなくなりその結果うまく世渡りができなくなります。どうすべきでしょうか?
A、結論はダブル・スタンダードでいいということです。都合のいい時に都合よくどちらかの原理(俗世の原理と仏教原理)に切り替えて使えばいいのです。俗世の価値観、エコノミックアニマルの価値観も毎日のビジネスの戦場では捨てることはできません。よほど今後伝道者として生きる覚悟でもない限り徹底した仏教(あるいはキリスト教)原理のみでビジネスの世界を生き抜くのは容易ではありません。私自身も僧侶でありつつ俗世にまみれて生きてきましたがどうしても俗世の中では俗世の原理、(たとえば自分の所属する組織の発展の為に他組織と争う事、組織の中で出世競争をすること等)に随って行動しなければ生きていけません。いちいち心経の「色即是空」などといっていては修羅場では誰も相手にしてくれません。
しかし俗世はいつも思ったようにいくとは限りません。ほとんどの人がトータルすると失意の時の方が圧倒的に多いわけです。そういうときこそお経の文句を思い出して、次のステップに供えるのです。また神社仏閣にお参りして気分転換を図ればいいのです。また大仕事の前には神社仏閣に祈願をこめればいいのです。要はいざというときの命綱(信仰)さえもっていればあとはその場その場に合わせればいいということです。
白隠禅師の公案に、「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)、両掌相打って音声あり、隻手に何の音声かある(両手を打ち合わせると音がするが、では片手の音を聞いてみよ)」というのがあります。これを聞いた門前の餅屋のお婆さんが、「白隠の隻手の声を聞くよりも両手を打って商いをせよ」と一首詠みました。お婆さんは白隠の弟子でしたから、「隻手の音声」の公案の答えのつもりだったかもしれません、「『隻手の音声』などという公案の答えを悠長に考えている暇があったら、両手を叩いて商売をしたほうがよほどよい」と詠んだわけです。それに対してさらに、白隠は「商いが両手叩いてなるならば隻手の音は聞くにおよばず」と返しています。この解釈はいろいろできますが「ビジネスがうまくいっているならことさら『隻手の音声』などというこ難しいことに頭をつっこまなくてもいいよ」とでもいっているのでしょうか。さらにいえば「ビジネスで行き詰まったときにはこの『隻手の音声』でも思い出してみたらどうか」ともいっているのでしょう。
また法然上人も信徒からの「飲酒はダメでしょうか?」との質問に「世間に合わせていいよ」とおっしゃったり、念仏も「唱えやすいようにして唱えればいいんだよ」おしゃっています。
ビジネスマンも一宗一派の開祖にでもなるつもりならばともかくそうでなければダブルスタンダードで使い分けていけばいいと思います。ただ根っこは仏教に置いておくことはもちろんですが。
A、結論はダブル・スタンダードでいいということです。都合のいい時に都合よくどちらかの原理(俗世の原理と仏教原理)に切り替えて使えばいいのです。俗世の価値観、エコノミックアニマルの価値観も毎日のビジネスの戦場では捨てることはできません。よほど今後伝道者として生きる覚悟でもない限り徹底した仏教(あるいはキリスト教)原理のみでビジネスの世界を生き抜くのは容易ではありません。私自身も僧侶でありつつ俗世にまみれて生きてきましたがどうしても俗世の中では俗世の原理、(たとえば自分の所属する組織の発展の為に他組織と争う事、組織の中で出世競争をすること等)に随って行動しなければ生きていけません。いちいち心経の「色即是空」などといっていては修羅場では誰も相手にしてくれません。
しかし俗世はいつも思ったようにいくとは限りません。ほとんどの人がトータルすると失意の時の方が圧倒的に多いわけです。そういうときこそお経の文句を思い出して、次のステップに供えるのです。また神社仏閣にお参りして気分転換を図ればいいのです。また大仕事の前には神社仏閣に祈願をこめればいいのです。要はいざというときの命綱(信仰)さえもっていればあとはその場その場に合わせればいいということです。
白隠禅師の公案に、「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)、両掌相打って音声あり、隻手に何の音声かある(両手を打ち合わせると音がするが、では片手の音を聞いてみよ)」というのがあります。これを聞いた門前の餅屋のお婆さんが、「白隠の隻手の声を聞くよりも両手を打って商いをせよ」と一首詠みました。お婆さんは白隠の弟子でしたから、「隻手の音声」の公案の答えのつもりだったかもしれません、「『隻手の音声』などという公案の答えを悠長に考えている暇があったら、両手を叩いて商売をしたほうがよほどよい」と詠んだわけです。それに対してさらに、白隠は「商いが両手叩いてなるならば隻手の音は聞くにおよばず」と返しています。この解釈はいろいろできますが「ビジネスがうまくいっているならことさら『隻手の音声』などというこ難しいことに頭をつっこまなくてもいいよ」とでもいっているのでしょうか。さらにいえば「ビジネスで行き詰まったときにはこの『隻手の音声』でも思い出してみたらどうか」ともいっているのでしょう。
また法然上人も信徒からの「飲酒はダメでしょうか?」との質問に「世間に合わせていいよ」とおっしゃったり、念仏も「唱えやすいようにして唱えればいいんだよ」おしゃっています。
ビジネスマンも一宗一派の開祖にでもなるつもりならばともかくそうでなければダブルスタンダードで使い分けていけばいいと思います。ただ根っこは仏教に置いておくことはもちろんですが。