福聚講護国寺参拝記録 2019-9-24
待ちに待った初秋の季節が訪れてきました。この夏は、大変な猛暑に見舞われて、閉口しました。それだけに、この秋は、爽やかで、開放的な気持ちになります。東京・文京の大本山護国寺にも、静かな秋の気配が漂っています。福聚講(高原耕曻講元)は、9月21日(土)午後3時、定例の護国寺参拝行を行いました。
高層ビルや冷たく、人の心を閉ざしているような、頑丈な鉄の塊のマンション群でおおわれている都心の一角に、ほっと、安堵の息がつける、広大な境内を持つ、護国寺の秋の気配は、又格別です。境内の松の木は、緑が一層、濃さが増し、やがて来る冬の陣に備えているようです。もう、午後ともなれば人出も少なくなり、山門脇の休憩所にはベンチに座っている人もまばらでした。この日は、講元によると2時頃は小さな子を連れた若い夫婦が何組も一言地蔵様を参詣していたということですが、夕方には参詣者は数えることが出来るぐらいに減っていました。しかもほとんどの人が黒っぽい衣装でした。お彼岸なのでお墓参りを兼ねていたのかもしれません。妙に、お寺の気配にマッチしていて、今までざわついていた心が落ち着き澄んでくるような感覚に捉われました。
この日、本堂では私たちが、勤行を始めたころから参詣客の気配がなくなりました。高原講元様の拍子木をうつ音も,一段と大きく、堂内に響き渡っていました。般若心経、観音経と讀誦を続けるのですが、普段より、講員の皆さんの声も大きく聞こえました。頼もしい限りです。御詠歌は時期に合わせて「彼岸会和讃」を選び、お唱えさせて頂きました、
この福聚講の護国寺参拝は、もう、どの位続いているでしょうか、本堂に他の参詣の人がいるいないにかかわらず周囲に遠慮なく大きな声で、読経三昧に入れることは大変有り難いことです。須弥壇の奥におられる如意輪観世音様のお耳にもきっと届いていることでしょう。本当に有り難いことです。私たち講員の信仰が、如意輪観世音様に、聞き入れられるところまで、来たということでしょうか。感謝でいっぱいです。
天下に名だたる大本山・護国寺で、福聚講の勤行を勤め上げることが出来るのは、高原講元様の長年の献身的なご努力とこれに応える講員の皆さんの精進、そして何といっても、私たちの活動を、優しく見守って頂いている護国寺様のお陰に尽きる、と思います。これは、もう、ある種の「奇跡」を頂いているということでしょうか。
しかもこの日は、お彼岸で弘法大師様の日と重なると日とあって、講元からは「このような日にお参りできるのは、御本尊様・御大師様から特別のご縁を頂いている証です」という励ましがありました。
仏教は、「修行」である、生活の一即一切はすべて「修行」と思います。護国寺に通うのも修行だし、御詠歌の稽古に励むのも修行です
修行というと堅苦しいことと思われがちですが、行住坐臥これ仏法です。
お勤めが終わるとフアッシオン雑誌からぬき出てきたような、お嬢さん達が、異口同音に、9月23日に、高野山にお参りすることに意気込みをかたっています。早朝の新幹線で大阪に行き、高野山に参詣すると、こともなげに話し合っています。奥の院の御大師様にを拝めることが嬉しいと大変期待しているようです。嗚呼、私もあの女性たちの年齢ぐらいだったら・・・と、若さからくる行動力に感心するのみです。
この日、奉詠した、御詠歌「彼岸会和讃」を、ご紹介いたします。「通釈」も添えてみます。
「彼岸会和讃」
此方(こなた)は生死の暗き里
彼方(彼方)は涅槃の聖(きよき)国
間(あい)にみなぎる煩悩の
流れぞ深く越えがたき
({通釈}
私たちの住む世界(此岸)は、生き死にを繰り返えす迷いの世界で、
仏さまの世界(ひがん)は永遠の安らぎに満ちた世界である。
此岸から彼岸に至るには、欲望に満ちた激流を渡らなければならないが、
それはとても大変なことである。)
彼方の岸に到るには
布施(めぐみ)、持戒(いましめ)、忍辱(たえしのび)、精進(はげみ)、精進【はげみ】、智慧(ちえ】の徳、積みてし漕がん法(のり)の船
(「通訳」
仏さまの世界に至るためには、六波羅蜜の実践、①施しをする(布施)②決まりを守る(持戒)、③我慢する(忍辱)④努力する’精進)⑤心を穏やかに保つ(禅定)⑥正しいものの見方をする(智慧)が大切である。この六波羅蜜という船によって、彼岸へと漕ぎ出すことができる。)
暑さ寒さも彼岸まで、
よろず程よく偏らぬ
調和(なごみ)相中道(すがたちゅうどう)の
理にふさわしき季節なる
(『通訳』
春秋のお彼岸の頃は、暑くも寒くもない。ほどよい季節である、それは、いずれにも偏らない中道の教えに通じる。)
教え妙なる彼岸会を
こょなき修養週間と
日頃の懈怠をかえりみて
勤めはげまん六度行
(「通釈」
このように尊いお彼岸の時期を、心を修める時給と捉え、日々の自分を振り返り、六波羅蜜の実践に勤めよう。 )
祖先(みおや)をまつり身を修め
菩提栽の種を培いて
浄土の光り現実に
いただく今日のとうとさよ
(「通釈」
ご先祖様を供養し、自分自身を磨き高めていく努力をすることで、何時しか、仏さまの慈悲の光に包まれて、生かされているいのちの有難さを知ることが出来る。)
(「通釈」は、真言宗智山派宗務庁・密厳流詠歌和讃解説書―平成31年発行によりました。)
秋たけなわの日本は、国中の小さな町や村にも、笛や太鼓の音が囃すお祭りがもよされています。日頃は、神主のいないお宮でも、祭礼が催される、頃には、戻ってきて、神殿に、鎮座されています。そして、日本列島には、15万余の寺社が、存在していると言われています。嬉しく、有り難いことです。一年中、毎日どこかで、お祀りを催しています。日本列島は、まさに、神仏が鎮座されておられる、有り難い国です。この様子は、高原講元様の毎日のブログでもおしえていただいます。
一方、日本列島は、天災の国でもあります。台風、地震、津波、など、毎年、確実にするやってきます。そして、必ず、甚大な、被害を、もたらしてゆきます。
それに加え、最近は、人災による災害も出てきました。原子力発電は、そのさいたるものです。これまで、日本は、科学、産業面でも、世界に誇る大国でした。が、バブル崩壊後は、衰退・急落・衰弱・縮小の一途をたどつているようにしか見えません。これでいいのでしょうか?
斯くなる上は、一人でも、真人間として生きぬかねばならぬ、と意気込んでみるのですが・・・
待ちに待った初秋の季節が訪れてきました。この夏は、大変な猛暑に見舞われて、閉口しました。それだけに、この秋は、爽やかで、開放的な気持ちになります。東京・文京の大本山護国寺にも、静かな秋の気配が漂っています。福聚講(高原耕曻講元)は、9月21日(土)午後3時、定例の護国寺参拝行を行いました。
高層ビルや冷たく、人の心を閉ざしているような、頑丈な鉄の塊のマンション群でおおわれている都心の一角に、ほっと、安堵の息がつける、広大な境内を持つ、護国寺の秋の気配は、又格別です。境内の松の木は、緑が一層、濃さが増し、やがて来る冬の陣に備えているようです。もう、午後ともなれば人出も少なくなり、山門脇の休憩所にはベンチに座っている人もまばらでした。この日は、講元によると2時頃は小さな子を連れた若い夫婦が何組も一言地蔵様を参詣していたということですが、夕方には参詣者は数えることが出来るぐらいに減っていました。しかもほとんどの人が黒っぽい衣装でした。お彼岸なのでお墓参りを兼ねていたのかもしれません。妙に、お寺の気配にマッチしていて、今までざわついていた心が落ち着き澄んでくるような感覚に捉われました。
この日、本堂では私たちが、勤行を始めたころから参詣客の気配がなくなりました。高原講元様の拍子木をうつ音も,一段と大きく、堂内に響き渡っていました。般若心経、観音経と讀誦を続けるのですが、普段より、講員の皆さんの声も大きく聞こえました。頼もしい限りです。御詠歌は時期に合わせて「彼岸会和讃」を選び、お唱えさせて頂きました、
この福聚講の護国寺参拝は、もう、どの位続いているでしょうか、本堂に他の参詣の人がいるいないにかかわらず周囲に遠慮なく大きな声で、読経三昧に入れることは大変有り難いことです。須弥壇の奥におられる如意輪観世音様のお耳にもきっと届いていることでしょう。本当に有り難いことです。私たち講員の信仰が、如意輪観世音様に、聞き入れられるところまで、来たということでしょうか。感謝でいっぱいです。
天下に名だたる大本山・護国寺で、福聚講の勤行を勤め上げることが出来るのは、高原講元様の長年の献身的なご努力とこれに応える講員の皆さんの精進、そして何といっても、私たちの活動を、優しく見守って頂いている護国寺様のお陰に尽きる、と思います。これは、もう、ある種の「奇跡」を頂いているということでしょうか。
しかもこの日は、お彼岸で弘法大師様の日と重なると日とあって、講元からは「このような日にお参りできるのは、御本尊様・御大師様から特別のご縁を頂いている証です」という励ましがありました。
仏教は、「修行」である、生活の一即一切はすべて「修行」と思います。護国寺に通うのも修行だし、御詠歌の稽古に励むのも修行です
修行というと堅苦しいことと思われがちですが、行住坐臥これ仏法です。
お勤めが終わるとフアッシオン雑誌からぬき出てきたような、お嬢さん達が、異口同音に、9月23日に、高野山にお参りすることに意気込みをかたっています。早朝の新幹線で大阪に行き、高野山に参詣すると、こともなげに話し合っています。奥の院の御大師様にを拝めることが嬉しいと大変期待しているようです。嗚呼、私もあの女性たちの年齢ぐらいだったら・・・と、若さからくる行動力に感心するのみです。
この日、奉詠した、御詠歌「彼岸会和讃」を、ご紹介いたします。「通釈」も添えてみます。
「彼岸会和讃」
此方(こなた)は生死の暗き里
彼方(彼方)は涅槃の聖(きよき)国
間(あい)にみなぎる煩悩の
流れぞ深く越えがたき
({通釈}
私たちの住む世界(此岸)は、生き死にを繰り返えす迷いの世界で、
仏さまの世界(ひがん)は永遠の安らぎに満ちた世界である。
此岸から彼岸に至るには、欲望に満ちた激流を渡らなければならないが、
それはとても大変なことである。)
彼方の岸に到るには
布施(めぐみ)、持戒(いましめ)、忍辱(たえしのび)、精進(はげみ)、精進【はげみ】、智慧(ちえ】の徳、積みてし漕がん法(のり)の船
(「通訳」
仏さまの世界に至るためには、六波羅蜜の実践、①施しをする(布施)②決まりを守る(持戒)、③我慢する(忍辱)④努力する’精進)⑤心を穏やかに保つ(禅定)⑥正しいものの見方をする(智慧)が大切である。この六波羅蜜という船によって、彼岸へと漕ぎ出すことができる。)
暑さ寒さも彼岸まで、
よろず程よく偏らぬ
調和(なごみ)相中道(すがたちゅうどう)の
理にふさわしき季節なる
(『通訳』
春秋のお彼岸の頃は、暑くも寒くもない。ほどよい季節である、それは、いずれにも偏らない中道の教えに通じる。)
教え妙なる彼岸会を
こょなき修養週間と
日頃の懈怠をかえりみて
勤めはげまん六度行
(「通釈」
このように尊いお彼岸の時期を、心を修める時給と捉え、日々の自分を振り返り、六波羅蜜の実践に勤めよう。 )
祖先(みおや)をまつり身を修め
菩提栽の種を培いて
浄土の光り現実に
いただく今日のとうとさよ
(「通釈」
ご先祖様を供養し、自分自身を磨き高めていく努力をすることで、何時しか、仏さまの慈悲の光に包まれて、生かされているいのちの有難さを知ることが出来る。)
(「通釈」は、真言宗智山派宗務庁・密厳流詠歌和讃解説書―平成31年発行によりました。)
秋たけなわの日本は、国中の小さな町や村にも、笛や太鼓の音が囃すお祭りがもよされています。日頃は、神主のいないお宮でも、祭礼が催される、頃には、戻ってきて、神殿に、鎮座されています。そして、日本列島には、15万余の寺社が、存在していると言われています。嬉しく、有り難いことです。一年中、毎日どこかで、お祀りを催しています。日本列島は、まさに、神仏が鎮座されておられる、有り難い国です。この様子は、高原講元様の毎日のブログでもおしえていただいます。
一方、日本列島は、天災の国でもあります。台風、地震、津波、など、毎年、確実にするやってきます。そして、必ず、甚大な、被害を、もたらしてゆきます。
それに加え、最近は、人災による災害も出てきました。原子力発電は、そのさいたるものです。これまで、日本は、科学、産業面でも、世界に誇る大国でした。が、バブル崩壊後は、衰退・急落・衰弱・縮小の一途をたどつているようにしか見えません。これでいいのでしょうか?
斯くなる上は、一人でも、真人間として生きぬかねばならぬ、と意気込んでみるのですが・・・