福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

関東三番野毛山不動尊、四番真福寺、五番金蔵寺について

2011-03-07 | 関東三十六不動について
・関東第三番成田山横浜別院の由来


「真言宗 智山派 成田山横浜別院 延命院、野毛山不動尊
御本尊:理源大師の不動尊。徳川家累代の秘蔵仏であったが、元禄年間、成田山中興開祖・照範上人が、徳川家より祈願を懇嘱され、数百年の祈願をうけてきた理源大師聖宝作の不動尊をご本尊として賜ったもの。明治3年の横浜開港の頃、易断で名高い高島嘉右衛門の協力により、世界平和、万民豊楽を祈願して大本山成田山新勝寺(千葉県成田市)の横浜別院として建立された。
明治9年(1876年)現在地に移り、その後成田山横浜別院延命院と称す。寺号の延命院は、かつて七代目市川団十郎が天保の改革時に江戸払いを言い渡され、しばらく居住した成田山末寺延命院の寺号を移したものである。」
寺の方の話では「野毛山利生記」に霊験の数々が紹介されているというが、なかでも
江戸時代山門を造営中の大工の転落を「成田山の板」が身代わりとなり守ったということがありそれ以来「身代わりお守り」の霊験を受け毎年お礼参りに来る人は多いということです。


・関東第四番真福寺の由来


「高野山真言宗 大聖山 真福寺 和田不動尊
御本尊:大聖不動明王
三浦一族の傑物で源頼朝の重臣を務めた和田義盛は平家追討を悲願としていたが、或る夜の夢に不動尊が現れ「我を勧請祈願すれば必ず悲願成就せん」との夢告得た。早速義盛は堂を建立し、夢に出た不動尊の姿を刻ませ、御本尊として安置した。
この当山の本尊・不動明王のご尊像は全国でも稀な、利剣を前に突き出して向けている御姿である。正面に拝すると、お不動様の目が眼光も鋭く爛々と輝いている。和田義盛の激しい気性が乗り移ったとも云われ、それだけに真剣に祈りをささげればきっと願いを叶えて下さる仏様である。
胎内からは病気平癒、身体健全の霊験を記した文書が発見されており、特に眼病をお救い下さると伝えられている。
治眼の霊験は現代でも続いている。
不運にも帯状泡疹が眼に入り光を失った妹を按じて、わらをもすがる思いで当山を訪れた方が御本尊のお守りを頂き帰ると、翌朝に突然眼が開いたという霊験を、現住職は目の当たりにしている 」(真福寺のホームページ等から)


・関東第五番金蔵寺の由来


「天台宗 清林山 佛乗院 金蔵寺 日吉不動尊
御本尊:大聖不動明王(秘仏)、天台宗第五代座主・智証大師作と伝えられる。横浜七福神の一つで寿老人も祀られている。

平安時代の貞観年間(859年~876年)に清和天皇の勅願により智証大師が創建したと伝えられる。

江戸時代には寛永寺の末寺として栄え、敷地面積は2万坪。徳川家康・秀忠父子により梵鐘が寄進され現存している。

大正十二年(1923)の関東大震災で堂の倒壊などの被害にあったが、当山第三十三世である大見は自ら勧進を行い、浄財・寄進を集めて本堂を再建した。
現在も三百坪を越える境内に350年前の庫裏を始め、大書院、観音堂、水天堂などの大伽藍が林立する近隣には稀な大寺院。
第三十四世大亮も先住の遺志を継ぎ、本堂修築や弁天堂の新築を施すなど、境内の整備に努めている。
大梵鐘やキリシタン灯籠などの文化財をはじめ、歴史ある建築物、日吉の生んだ第三十三代横綱・武蔵山武「遺愛の松」など見るべきものの多く残る古刹である。
境内には桜、百日紅、銀木犀などの樹々があり四季を通じて楽しめる「隠れ花どころ」となっている。

本堂内陣にひっそり灯り続けているのは、伝教大師最燈が灯した不滅の法燈の分燈。
伝教大師が比叡山を開いた折りに灯した一筋の補の炎が、決して絶やされることなく受け継がれている。
本堂背後の丘や丘の中腹にある横穴にも不動明王を安置している。」(当山ぶろぐ等による)
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