(左経記・寛仁四年1020閏十二月)「二十九日・・南蛮賊徒、薩摩國に到り人民を虜掠の由。即参左府由事由、次参関白殿、府解を覧ぜしむ。次為御使参御寺由此れ由、改元の後慥に追討すべき、大宰府に官符を賜うべし。」
(南蛮人が襲来したという大宰府の解状を丹波奉親は、左大臣藤原顕光や関白藤原頼通、前摂政藤原道長に見せた。道長は、翌年必ず南蛮を追討するように太政官符を大宰府に下すように命じた)。
(左経記・寛仁四年1020閏十二月)「二十九日・・南蛮賊徒、薩摩國に到り人民を虜掠の由。即参左府由事由、次参関白殿、府解を覧ぜしむ。次為御使参御寺由此れ由、改元の後慥に追討すべき、大宰府に官符を賜うべし。」
(南蛮人が襲来したという大宰府の解状を丹波奉親は、左大臣藤原顕光や関白藤原頼通、前摂政藤原道長に見せた。道長は、翌年必ず南蛮を追討するように太政官符を大宰府に下すように命じた)。