「懺悔道としての哲学」その5・・・
仏とは自己の働きを通して他を救う事に他ならない(最近、この言葉が身について考えられるようになりました。「衆生無辺誓願度」です。すべてがうまくいかないときはこの言葉をとなえるとうまくいきます。運勢好転の呪文は「衆生無辺誓願度」です。)「・・・無力にして一人前の働きの出来ぬ吾々をあたかも有力なもの、一人前のものの如くに働かしめる、そこに不思議な事がおこる。・・・無力の者を有力なものの如くに働かしめる原理はもはや理性的なものではない。それは仏であり、愛あるいは慈悲であり、絶対の大悲といわれるものである。・・・具体的にいえば絶対が衆生をすくい取るその仕事にこの私が参加し、用だてられることであり、それ以外に私のなすべきことはない。仏とは自己の働きを通して他を救う事に他ならない。・・・他の衆生の為に自己を捨てて役立てることが同時に私の救いであり・・・仏國土は西方浄土として何処かにある世界ではなくそれは絶対の境地として一切の相対が互いに因縁的に結ばれていることを悟らしめる所以のものであり、畢竟相対が絶対だということに他ならない。」(続
仏とは自己の働きを通して他を救う事に他ならない(最近、この言葉が身について考えられるようになりました。「衆生無辺誓願度」です。すべてがうまくいかないときはこの言葉をとなえるとうまくいきます。運勢好転の呪文は「衆生無辺誓願度」です。)「・・・無力にして一人前の働きの出来ぬ吾々をあたかも有力なもの、一人前のものの如くに働かしめる、そこに不思議な事がおこる。・・・無力の者を有力なものの如くに働かしめる原理はもはや理性的なものではない。それは仏であり、愛あるいは慈悲であり、絶対の大悲といわれるものである。・・・具体的にいえば絶対が衆生をすくい取るその仕事にこの私が参加し、用だてられることであり、それ以外に私のなすべきことはない。仏とは自己の働きを通して他を救う事に他ならない。・・・他の衆生の為に自己を捨てて役立てることが同時に私の救いであり・・・仏國土は西方浄土として何処かにある世界ではなくそれは絶対の境地として一切の相対が互いに因縁的に結ばれていることを悟らしめる所以のものであり、畢竟相対が絶対だということに他ならない。」(続