福聚講

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坂東観音霊場記(亮盛)・・・18/31

2023-08-18 | 先祖供養

 

坂東観音霊場記巻之七

第廿番下野益子西明寺(現在も第20番は獨鈷山西明寺(益子観音))

東野州芳賀郡益子邨獨股山西明寺は人王四十五世聖武皇帝統馭天平十三年辛巳年(741)行基大士の開基也。本尊十一面の像は勅に依りて、同じく大士の彫刻。此の尊像、胸の間蔵所は熊埜権現の神筆也。

聖武帝の國母、四十二代文武帝の后妃、贈太政大臣藤原不比等の女也。熊埜権現御信仰にて毎歳の春御社参あり。即ち彼の證誠殿に於て國家の泰平を祈玉ふ。一夜鶏鳴の頃に至って、寶殿の扉自ら開け、威厳不測の神体を顕し、親り國母に対して宣はく、母公は天下の為に心を盡す。我豈國家に依怙無らんや。今帝(聖武)厚く三寶に歸すれば、天下此の盛事に風化すべし。維(これ)優曇花の咲く時にして、黎民快楽の春に逢ん。我手親(てずから)本地の像を模す。是を以て母公の信を報ずと。十一面の畫像を賜ふ。宲に未曾有の感得、國母深信の致す所なり。斯て玉城へ皈御玉ひ、倍々神慮を感じ奉り、畫像を内殿に安置して、恒に四海静謐を祈玉ふ。尒後、國母薨御に臨み、聖武帝へ遺嘱し玉はく、我此の大悲の像に皈

依して、久しく國家の安全を祈る。冀(こいねが)はくは、我閉眼の後、普く世間に結縁して、苦海に沈む者の為に弘誓の航を浮かべ玉と。

彼神筆の畫像を以て手自(てずから)聖武帝へ渡され、神亀五年(728)九月十八日寶算五十九歳にして秋天の雲に隠れ玉ふ。帝即ち母公の遺命に任せ頻に行基大士に勅して十一面の木像を造り件の畫像を其の胎中に納、豊前の京都郡に安置し玉ふ。此れ當山大悲像の来由なり。尒後大士志願に付て、熊埜へ社参し玉へば、即ち権現、神司の託して行基大士に告玉ふは、東國に志あり、其の行化の前に於いて、必ず大悲の霊場を興し、邊鄙愚昧の者の為に、二世の大利を貽(のこす)べし。大士元より徧路の志願なれば、神勅幸に東國に趣き、徧く諸州を遊化して、當國芳賀郡の里に入り、野人眉を顰めて岐に挙り、樵夫の山に私語を聞けば、近頃、益子の山には何國よりか数万の烏集り、遥に見れば雲の如しと。大士是を聞て大に喜び、烏は熊野の神使なれば、必ず彼處に子細あらんと。前の神託を憶合せて、益子の山に登り玉へば、恰も栴檀の林に入るが如く、香気山に充て薫馥たり。その霊鳥の群る林の下に果たして十一面大悲の像、光明を放って立せ玉ふ。是元孝養の御勅願にて、豊前州へ安置の像なり。爰に於いて行基大士、熊埜権現の神慮を感じ、無刹不現の大悲を仰ぎ、終夜尊像の前に座して、誦經禅観し玉ふに、件の烏一羽もなく、其の夜の中に散り失ける。乃し大士、一宇を構へ、来現の靈像を安置して芳賀山益子寺と号す。是此靈場の開基なり。

行基大士の開基より数十回の星霜を經て、既に延暦年中に至り、弘法大師此地に遊化して、幽寂たる禅境を愛して、錫を大悲堂に掛玉ふ。然るに大師の徳行孤ならずして、道俗競来りて密門に入。貴賤渇仰して法水に浴す。時に法相宗の僧徒等、挙て大師の徳を妬み、徒に悪意を挟みける。或時、歎て岩窟へ押入。数日の間、飲食を防ぐ。(今の入定が洞是也)。然るに大師岩崛に在して、安詳として修行し玉ふ。時に諸の神使来て、種々の珍膳を薦め、天童常に給仕して、花を採り水を汲みける。(法華に天の諸童子、以て給仕を為すと。)(妙法蓮華經卷第五・安樂行品第十四に「我滅度後 求佛道者 欲得安隱 演説斯經 應當親近  如是四法 讀是經者 常無憂惱 又無病痛 顏色鮮白 不生貧窮 卑賤醜陋 衆生樂見 如慕賢聖  天諸童子 以爲給使 刀杖不加毒不能害」)僧徒等尚も瞋を含み石を執りて洞中に投るに、打石返て其人に向ふ。(金剛密迹諸眷属、毎日毎夜常守護、一切冥道恒加護、修行佛子無障難等の偈を信ずべし。)。大師所持の獨股を投れば倏ち生身の龍形を顕し、雲を起し雨を降らす。或は山鳴谷震て彼等迷惑して度を失ふ。時に釣召の法を作し玉へば、獨股の本形に復して、大師の掌に飛返る。是に於て相徒等悪執解けて、終に悔謝して密門に入る。此の故に獨股の山に蔵めて永く霊場の鎮護と成す。仍って大師の遺跡相續して、千歳獨股山と稱する也。瑜祇経に云、金剛手菩薩、右手を以て五峰金剛を採り、虚空に投れば、寂然一體にして、手中に還住す云々)(金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經卷上序品第一に「爾時普賢金剛手等十六大菩薩。從定而起遍照虚空。金剛自性成辦清淨光明。同聲以偈讃曰

    大日金剛峯 微細住自然

    光明常遍照 不壞清淨業

説此讃已。時金剛手菩薩。以右手五峯金剛。擲於虚空。寂然一體還住手中」)

巡禮詠歌「尋子くる 人に恵みの益子山 終の住(すみか)へ 引接(みちびき)の寺」此の歌は土人の傳へ曰、相模守平時頼公、(鎌倉第六代崇尊新王の執権、入道して最明寺道崇と号す也。)天下の為に心を尽くして専ら政道を正せども、尚亦仁心の餘り民の安否を知ん為、密に鎌倉を立出て諸州を潜行し玉へり。既にこの地に詣でて本尊の因由を聞召し、頻りに渇仰の信を起こして、此の道歌を詠じ玉ふ。尚鎌倉へ帰御の後、伽藍を御造建あり。是の故に益子寺を改めて西明寺と称するとぞ。所謂終の住の句は、未来世を指詞にして、善處所悪趣の二道あり、今言う終の住は、大悲者の引接あんれば、西方の浄土なるべし。人は電光朝露の命、芭蕉泡沫の身なれば、現世は假の客舎の如く、未来は永き本居なれば、是を終の住家と云。或物語に云、昔空海法師、四國徧歴し玉ふ時、寒気も最強き比なれば、讃岐の屛風ヶ浦に歸き、老母の安否を訪玉ふ。御老母は限なく喜び、長の旅路を行られて、さぞ衣類も破つらんと、兼て用意の小袖を出し、空海師に進せける。然所へ一人の乞食来たり、只単の菰を被りて、甚だ苦寒たる躰なれば、空海師、是を見に忍びず、彼の老母の給る小袖を與ふ。御老母は是を見て、如何に空海法師、𦾔に換て施さずやと、事の彼我を呵り玉へば、空海師の御答に、旅の路 かずかず物の 持れねば 便りに附て 先へこそやれ、と。一首の和歌を詠玉ふ。此我終の住居へ好幸の便宜なれば、有合物に任せつつ、兼ねて送置との教化なり。是則三寶に供養し、貧者孤獨に施す物は、皆我後世の用意と成。然るに富者は尚慳貪にして、施行供養を費と思ひ、只日夜に財の溢を喜び、愛する我身も財物も、終に減る期を知らず。大集經に云、妻子珍寶及び王位、命終の時に臨て隨者なし。唯戒及び施不放逸、」今世、後世の伴侶と為る。(大方等大集經卷第十六虚空藏菩薩品第八之三「汝當善順觀己身 諸陰如幻不堅固 四大其猶如毒蛇 六情無實如空聚  妻子珍寶及王位 臨命終時無隨者  唯戒及施不放逸 今世後世爲伴侶」)。凡そ世間の財寶は、五人の寄合物なれば、我一人の有に非ず。必ず執着を為ざれと、經論の中に説き玉ふ。其の五人と云は、一は國王の為に聚斂

られ、二には盗賊の為に奪はれ、三には水難に失ひ、四には火に亡び、五には悪性の子に費さる。智度論に云く、富貴にして樂むと雖も、一切無常、五家の共にする所と。又云、世財は五家の共にする所者、若しは王、若しは賊、若しは火、若しは水、若しは不愛の子に用られ乃至蔵埋亦失と。又云、檀施は失火に物を出すがごとし。(此の一句七字意味深長なる哉)乃至、身命無常にして須臾も保叵きを知らず、而して更に聚歛し守護し愛著して死に至る。忽然として逝没、形土木とに同流し、財委物と倶に棄つ。大日経奥の疏に云、我今此の世間所愛の財の五家と共にする所、諸の過患多きを捨て、無上の法寶の正法の財に貿(かへ)て、遍く衆生に施す、云々。(大毘盧遮那成佛經疏卷第八入漫荼羅具縁品第二之餘に「我今捨此世間所愛之財。五家所共多諸過患。用貨無上法寶正法之財。遍施衆生常無窮盡。」)。

或が云、唐の西明寺は即ち十六大寺の随一にして、本尊観世音菩薩は、釈迦如来悲母の為に造玉ふ。十一面大悲の銅像なり。今此益子寺の本尊十一面大悲の像は聖武帝母公の為に、勅して行基大士に彫ましむ。天竺日本土地隔ども、其の事の似たるを以て、即ち西明寺と号すとぞ。摂州兎原郡摩耶山忉利天上寺は、法道仙人の開基なり。又は佛母山とも云。彼の寺の縁起に曰、當寺の十一面大悲の像は、如来四十二歳の時、閻浮檀金を以て造り、御母摩耶夫人の為に忉利天宮に送り玉ふ。如来入涅槃の後に、摩耶夫人より阿那律に與ふ。尒後十余歳を經て、毛音毛頭と云者、遠く唐土に賷来り、西明寺道宣律師に授く。即ち唐の西明寺の本尊と成す。法道仙人日本へ渡る時、律師此の像を法道に與ふ。仙人持して日本に来り、諸州を經て此の峯に遊び、手親ら尺六の像を彫み、将来の銅像を中に安ず。今の本尊是也。和三才圖に見たり。

 

 

 

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