風薫る若葉の新緑が映える待望の季節が到来しました。生きるもののいのちが湧き踊る時期でもあります。この時季を迎え、福聚講(高原耕昇講元)では、5月10日(日)、今年度初めての江戸三十三観音霊場・東京十社の巡拝行を始め、この日、第一回の巡拝を行いました。巡礼行の日程は、無理のない行程で組まれていて、毎月、定例的に巡拝行を行い、来年春、4月に、第十二回目の巡拝で、寺社・神社共に結願する予定になっています。
巡拝の記録に先立って、解かる範囲で、「江戸三十三観音霊場」と、「東京十社」の概要を、ご紹介しておきます。西国・坂東・秩父の観音霊場は、仏縁のない人でも知れ渡っている霊場ですが、「江戸三十三観音霊場」と、「東京十社」にいたっては、知る人は、少ないのではないかと思うからです。杞憂であれば言うことはありませんが。
「江戸三十三観音霊場」は、東京都内にある、三十三個所の観音札所で、別名、江戸三十三個所ともいいます。江戸時代には、西国・坂東などの観音霊場の巡礼が盛んになり、全国各地で、これらの観音霊場を模した霊場が続々と作られていったといいます。特に、江戸時代では、西の西国に対抗する江戸の人たちの粋な気風が、江戸にも霊場を、という願望は、起きるべくして、起たはずです。秩父霊場巡拝では、上流・花柳の各界の、特に、女子の巡礼が盛んになりましたが、「江戸霊場」も、衣装流行や、風俗開放を謳歌することを、巡礼の様式に仮託して、巡礼が盛んになったとも言われています。当時は、神仏習合であつたため、神社では、神輿や山車など、神を讃える祭りも盛んで、江戸人の旺盛な生活賛歌の一環として、成立していたと想像しています。
起源は、古く「江戸三十三観音霊場」は、安永18年(1641年)説、元禄11年(1703年)説など、いろいろ取り沙汰されている様ですが、良く判らないようです。しかし、明治時代に創建された寺院や、昭和に開創された寺が含まれていて、平成になって、入れ替わった札所があつたりしています。そして、昭和51年(1976年)、昭和新撰江戸三十三観音霊場として、生まれ変わり、今日に至ったといいます。この間、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈の受難を受けてきましたが、先達の人たちの熱心な信仰に支えられて、いま、なお、伝えられていることに、先祖敬拝の念、ひとしおです。
「東京十社」は明治維新が成立した東京で、明治天皇は、明治元年(1868年)10月、氷川神社の例大祭を、新たに勅祭に定め、それまで、関西の神社が勅祭社でしたが、東京の神社准勅祭社として、東京の鎮護と市民の安寧を祈る神社としました。しかし、明治3年(1870年)9月には、この制度は、廃止され准勅祭社の制度はなくなり、府社や郷社となりました。しかし、第二次大戦後は、政府による社格もなくなりました。昭和50年(1975年)昭和天皇即位50年を奉祝して、関係神社が、協議を行い、准勅祭社から、府中町六所宮と、埼玉・鷲宮の鷲宮神社をはずして、東京23区内の10社を巡る「東京十社巡り」が企画され、定められたといいます。(ウイキペヂア参照)
5月10日(日)午前10時、東京・浅草観音・浅草寺雷門の、大提灯下に、集合しました。男性、高原講元様以下、7人、(女性)1人の計8人。
青空の広がる、絶好な巡拝行日和です。観光パワースポットだけあって、雷門から仲見世商店街は、人の波で、歩くこともままなりません。どうやら、外国人観光客、それも、台湾・中国・韓国など、アシア系の人が、圧倒的に多かったようです。
江戸三十三観音霊場第一番札所 金龍山・浅草寺。本尊 聖観世音菩薩。宗派聖観音宗(総本山) 東京都台東区浅草2-3-1
浅草観音様は、知らない人はない位の、信仰・観光・祭礼・下町風情など、有名な所で、今更、説明する必要はないほどですが、報告の体裁を整えるため寸言しておきます。
その昔、浅草は、東京湾の入り江の一漁村でしたが、飛鳥時代・推古天皇36年(628年)3月、早朝、檜前浜成(ひのくま・はまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、江戸浦(隅田川)で、漁労中、一体の聖観世音菩薩を救い上げ、自宅に安置、御本尊として礼拝供養に生涯を捧げたといいます。
大化元年(645年)勝海上人が、観音堂を建立、このご本尊を秘仏と定め、今日まで、伝法の掟と定められています。平安初期には、自覚大師円仁(794年~864年)・浅草寺中興開山・比叡山第三世天台座主が、来山、お前立ちの聖観世音菩薩を謹刻したといいます。
鎌倉時代には、将軍の篤い帰依を受け、江戸時代には、徳川家康により、江戸幕府の祈願所に定められるなど、同寺の境内伽藍は、時と共に増え、荘厳さを増して江戸文化の中心として、多勢の参詣客を集め、全国的に有名になりました。現在でも、年間、3000万人以上の参詣者が訪れ、民衆信仰のメッカになっています。
この日、初めに訪れた本堂は、大勢の人だかりと、加持祈祷を受ける参詣者が順番待ちでいるため、影向堂(ようこうどう)にゆき、8体の「影向衆」と言われる仏様の御前で、般若心経・観音経をお唱えしました。ここで、後朱印をいただきます。ここのあと、本堂に戻り、ご本尊に、拝礼をします。引切り無しのお加持を受ける参詣者がいましたが、白の笈摺、輪袈裟姿一行は、私たちだけでしたので、お坊さんが、気を利かせて、祭壇前の敷き毛氈に案内され、ご祈祷させていただきました。
久々の、高原講元様、講員の諸先輩講員の皆さんと一緒の巡拝行であるのと、観音霊場参拝でもあるので、いやが上でも、緊張が高まります。初めての巡拝行ではないので、今回は、前回の秩父巡拝の時より、「進歩」「成長」があるだろうか?私の信仰心に、深まりが出てきているだろうか?などなど、自問自答し、自省しながら、ご本尊に向き合います。浅草寺は、大勢の参詣客でにぎわい、つい喧騒に心を奪われ、内省が深まりません。でも、ほかの寺院では、味わえない、仏に会いまみえに来た沢山の人たちと、共になる、確実に、仏を求める一念で、詣でている人たちと、同じ心で、今、只今、ここに居るという実感は、掴めました。在宅では、経験できないことです。
余談ですが、御馴染みの「雷門」は、天慶5年(942年)創されたそうです。が、慶応元年(1895年)大火を受けて焼失。昭和35年(1949年)95年ぶりに、松下電器産業創始者の松下幸之助氏の寄進で再建したと言います。
この逸話で思い出すのですが、私が、50年前、新聞社に勤めていた時、どうしても、彫刻家になりたくて、当時、日展無審査の、岩手県・水沢市(現奥州市)出身の小野寺玉峰という彫刻家に弟子入りしたことがありました。この、小野寺氏が、当時の水沢市長に依頼され、後藤新平の銅像を制作することになりました。後藤氏は、水沢市の出身です。水沢市は、斎藤実・山崎為徳らの、日本を背負う人材を輩出しているのです。後藤新平の立像は、高さ3メートル大の像で、ボーイスカウトの姿で、ボーイスカウトの少年に話しかけている像です。この像の仕草のモデルを、私が、勤めたりしました。立像が完成し、制作費を捻出するため、寄付を集めることにしたのです。寄付者の一人、当時、自民党副総裁だった、水沢市選出の椎名悦三郎氏に、単身、寄付集めに行き、お願いしたところ、「良し。判った。実にいいことだ」と一つ返事で、10万円を戴きました。私の月給が、8000円の時でした。心意気や良し。
これらのことを思うとき、今の政治家や経済人といわれる人で、こうした篤実な人は居るのでしょうか?みんな、己の有利なことや打算だらけの行動で、テレビの前で、深深と謝罪の頭を下げるだけの人たちを、いやと言うほど見せ付けられています。情けないことです。
ところで、先述の後藤新平の銅像は、今、東北新幹線「江刺水沢」の駅前広場に、立てられています。
浅草寺の御詠歌です「深き罪(とが) 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身ならば」
浅草寺のお参りを終え、江戸三十三観音霊場第二番札所に、向かうため、浅草のロック街を抜け、下町風情を満喫しながら、歩きます。このあたりから、神田までの町内は、「神田祭」で何処の通りや横丁にも、祭囃子や神輿の威勢のよい掛け声が、さんざめいき路地ごとに御神輿に遇いました。神田明神では、9,10の両日が、神輿の渡御のピークで、遠くから歓声や喧騒が聞こえてきました。こういうめでたい日が巡礼行の初日にかさなっているというのも大変有難い神仏のご縁を感じます。
つい70年前までは、町の風情も木造の縁側のある民家や長屋が、密集していたであろうこの界隈は、いまや、鉄筋、総ガラス張り、堅牢なコンクリートの高層ビルが、狭い道路を挟んで林立しています。その、高層ビルの狭間を、神輿が練り歩くのですが、"練り歩く“ことも出来ないようです。担ぎ手は、少なく、中老年が多く。法被姿で、内輪を仰いで、騒ぐ子供は居ません。勿論、いなせな若衆、別嬪さんの姿も見えません。変わり果てた、祭り神輿の光景です
午前11時、霊場第二番札所 江北山 清水寺(せいすいじ)。本尊 千手観世音菩薩 宗派 天台宗。東京都台東区松ヶ谷2-25-10
高層ビルの谷間に、ひっそりと佇む小ぶりの寺院。平成7年から、2年に亘る大普請の行い、平成9年11月、地上2階、地下1階の、鉄筋コンクリートの近代的な堂宇になったと言います。ここも、周囲が、高層マンション群の中にあるため、寺院があることを忘れ、見過ごしかねません。霊場巡礼行であるため、この寺を訪ねればならないのですが、普通では、檀家か関係者以外の人たちは、滅多に来ないであろうと思われるお寺であります。正直、そんな、地味な霊場でありました。
縁起は、古く、天長6年(829年)淳和天皇の御代に、疫病が大流行。これを悲しまれた天皇は、天台宗・比叡山延暦寺の座主・慈覚大師に、疫病退散の祈祷を下命されたといいます。慈覚大師は、一刀三礼して、千手千眼観世音菩薩を彫刻し、武蔵国江戸平河に、当時を開き、お祀りしました。400年前,慶長年代、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感僧正の協力で中興を果たし、徳川家康の入府で、移転、明暦3年(1657年)、現在地に移ったといいます。
私たちが入ると、一杯になる本堂で、読誦・祈祷しました。目の前に、千手千眼観音様がおられますので、かえって、大きな本堂で、ご本尊様を霞がかつた見え方より、身近かに感じられるかもしれません。有り難いことです。
清水寺の御詠歌です「ただたのめ 千手のちかひ ひろければ かれたる木にも 花さくという」
午前11時30分、再び、徒歩出発します。上野に向かいますので、大通りに出ますが、途中、旧浅草北清島町を通ります。ここには、江戸初期の町奴。幡随院長兵衛の墓があります。当時、奉公人を周旋する口入れ業に従事。町奴と言われる、任侠の徒が横行したとき、長兵衛が取り仕切り、多くの伝説を残して、人気を集めたと言います。また、江戸後期の文人画家。谷文晁、。門下に、渡辺崋山らが居ました。谷文晁の墓がある。さらに、伊能忠敬らの史跡墓地もあります。
正午、JR上野駅にきました。途中の大通りでは、神田祭りの、大神輿の一群が、通り一杯に広がって、ワッショ、ワッショと威勢のいい声をはりあげていました。下町情緒と言いたい所ですが、高層ビルと、アスフアルト道路と、見物人の姿も見えない、関係者だけのお神輿では、神様も、さぞや、悲しんでおられることでしょう。祭りも神輿も、今では、神事と言うよりは、アトラクション・パレードか、ショウの様相を呈しています。
午後12時10分、本日最後の巡行寺、霊場第6番札所。東叡山 清水観音堂。
本尊 千手観世音菩薩。宗派 天台宗。東京都台東区上野公園1-29
上野公園の中にあり、公園を訪れる人は、大抵この寺を訪れるため、人気が絶えません。ことに、近年、外国人観光客が増えたため、御朱印を戴くのも、長い行列が出来、容易ではないようです。私自身は、この寺院には、良く来る寺で、勝手は知つて居るつもりなのですが、由緒や、肝心なことは解からないでいる典型的な「おめでたい人」であります。やはり、巡拝行でなければ、真面目に、寺院の由緒を質し、本堂に上がって、経をお唱えし、祈祷することは 、ありませんでした。
由緒は、京都清水寺の義乗院春海上人が、同寺に安置されていた平家の武将主馬判官盛久が、護持した千手観音像(恵心僧都作)を、寛叡寺を開山した天海大僧正に献じたことから、寛永8年(1631年)、京都清水寺に倣って上野公園・すり鉢山に建立、元禄7年(1698年)現在の所に、移設されました。
平家滅亡後、源氏方に捕らえられていた盛久が、鎌倉・由比ヶ浜で、打ち首になる所、観世音菩薩の奇瑞によって赦されたという故事で、観音堂の観世音菩薩は、秘仏本尊として祀られてから、霊験あらたかといい、参詣者が絶えないそうです。とくに、盛久受難の日が午の歳・、午の日・午の刻という縁で、年一度の初午縁日ご本尊御開帳では、お百度を踏む信者で堂内は、溢れんばかりといいます。(同寺縁起より)
また、脇本尊として、子育て観音が、安置されており、子宝に恵まれない人たちの信仰を集めています。毎年、9月には、人形供養が行われ、授かった子供の身代わりに、奉納された人形をお焚き上げする伝統の、供養大法要がひらかれます。なお、本堂は、京都清水寺と同じ舞台造りになっていて、花見時の眺望は、格別です。(同上より)
こうして、午後12時30分、この日の、巡拝行は、無事、終了しました。久々の福聚講の巡拝であり、この観音堂の本堂の中央にある、お焼香台の上に、参詣者がお唱えするように、観音経の偈の一節「福聚海無量」と書かれた栞が置かれているのを見て、講員皆さん、「福聚」講と書いてあると、口々に,喜びあっていました。
このあと、西郷さんの銅像の前を通って、公園下に下り、恒例の懇親会があり、愉快なひとときを過ごしました。心に残った高原講元様の講釈は、「自分の存在と大日如来様の存在は、二元対立しているのはなく、二元的に考えることは間違いである。あなたも、大日如来様なのだ。大日如来さんなのですよ。勿論、大日如来様は、あなたなのですよ!!」と。(角田記)
巡拝の記録に先立って、解かる範囲で、「江戸三十三観音霊場」と、「東京十社」の概要を、ご紹介しておきます。西国・坂東・秩父の観音霊場は、仏縁のない人でも知れ渡っている霊場ですが、「江戸三十三観音霊場」と、「東京十社」にいたっては、知る人は、少ないのではないかと思うからです。杞憂であれば言うことはありませんが。
「江戸三十三観音霊場」は、東京都内にある、三十三個所の観音札所で、別名、江戸三十三個所ともいいます。江戸時代には、西国・坂東などの観音霊場の巡礼が盛んになり、全国各地で、これらの観音霊場を模した霊場が続々と作られていったといいます。特に、江戸時代では、西の西国に対抗する江戸の人たちの粋な気風が、江戸にも霊場を、という願望は、起きるべくして、起たはずです。秩父霊場巡拝では、上流・花柳の各界の、特に、女子の巡礼が盛んになりましたが、「江戸霊場」も、衣装流行や、風俗開放を謳歌することを、巡礼の様式に仮託して、巡礼が盛んになったとも言われています。当時は、神仏習合であつたため、神社では、神輿や山車など、神を讃える祭りも盛んで、江戸人の旺盛な生活賛歌の一環として、成立していたと想像しています。
起源は、古く「江戸三十三観音霊場」は、安永18年(1641年)説、元禄11年(1703年)説など、いろいろ取り沙汰されている様ですが、良く判らないようです。しかし、明治時代に創建された寺院や、昭和に開創された寺が含まれていて、平成になって、入れ替わった札所があつたりしています。そして、昭和51年(1976年)、昭和新撰江戸三十三観音霊場として、生まれ変わり、今日に至ったといいます。この間、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈の受難を受けてきましたが、先達の人たちの熱心な信仰に支えられて、いま、なお、伝えられていることに、先祖敬拝の念、ひとしおです。
「東京十社」は明治維新が成立した東京で、明治天皇は、明治元年(1868年)10月、氷川神社の例大祭を、新たに勅祭に定め、それまで、関西の神社が勅祭社でしたが、東京の神社准勅祭社として、東京の鎮護と市民の安寧を祈る神社としました。しかし、明治3年(1870年)9月には、この制度は、廃止され准勅祭社の制度はなくなり、府社や郷社となりました。しかし、第二次大戦後は、政府による社格もなくなりました。昭和50年(1975年)昭和天皇即位50年を奉祝して、関係神社が、協議を行い、准勅祭社から、府中町六所宮と、埼玉・鷲宮の鷲宮神社をはずして、東京23区内の10社を巡る「東京十社巡り」が企画され、定められたといいます。(ウイキペヂア参照)
5月10日(日)午前10時、東京・浅草観音・浅草寺雷門の、大提灯下に、集合しました。男性、高原講元様以下、7人、(女性)1人の計8人。
青空の広がる、絶好な巡拝行日和です。観光パワースポットだけあって、雷門から仲見世商店街は、人の波で、歩くこともままなりません。どうやら、外国人観光客、それも、台湾・中国・韓国など、アシア系の人が、圧倒的に多かったようです。
江戸三十三観音霊場第一番札所 金龍山・浅草寺。本尊 聖観世音菩薩。宗派聖観音宗(総本山) 東京都台東区浅草2-3-1
浅草観音様は、知らない人はない位の、信仰・観光・祭礼・下町風情など、有名な所で、今更、説明する必要はないほどですが、報告の体裁を整えるため寸言しておきます。
その昔、浅草は、東京湾の入り江の一漁村でしたが、飛鳥時代・推古天皇36年(628年)3月、早朝、檜前浜成(ひのくま・はまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、江戸浦(隅田川)で、漁労中、一体の聖観世音菩薩を救い上げ、自宅に安置、御本尊として礼拝供養に生涯を捧げたといいます。
大化元年(645年)勝海上人が、観音堂を建立、このご本尊を秘仏と定め、今日まで、伝法の掟と定められています。平安初期には、自覚大師円仁(794年~864年)・浅草寺中興開山・比叡山第三世天台座主が、来山、お前立ちの聖観世音菩薩を謹刻したといいます。
鎌倉時代には、将軍の篤い帰依を受け、江戸時代には、徳川家康により、江戸幕府の祈願所に定められるなど、同寺の境内伽藍は、時と共に増え、荘厳さを増して江戸文化の中心として、多勢の参詣客を集め、全国的に有名になりました。現在でも、年間、3000万人以上の参詣者が訪れ、民衆信仰のメッカになっています。
この日、初めに訪れた本堂は、大勢の人だかりと、加持祈祷を受ける参詣者が順番待ちでいるため、影向堂(ようこうどう)にゆき、8体の「影向衆」と言われる仏様の御前で、般若心経・観音経をお唱えしました。ここで、後朱印をいただきます。ここのあと、本堂に戻り、ご本尊に、拝礼をします。引切り無しのお加持を受ける参詣者がいましたが、白の笈摺、輪袈裟姿一行は、私たちだけでしたので、お坊さんが、気を利かせて、祭壇前の敷き毛氈に案内され、ご祈祷させていただきました。
久々の、高原講元様、講員の諸先輩講員の皆さんと一緒の巡拝行であるのと、観音霊場参拝でもあるので、いやが上でも、緊張が高まります。初めての巡拝行ではないので、今回は、前回の秩父巡拝の時より、「進歩」「成長」があるだろうか?私の信仰心に、深まりが出てきているだろうか?などなど、自問自答し、自省しながら、ご本尊に向き合います。浅草寺は、大勢の参詣客でにぎわい、つい喧騒に心を奪われ、内省が深まりません。でも、ほかの寺院では、味わえない、仏に会いまみえに来た沢山の人たちと、共になる、確実に、仏を求める一念で、詣でている人たちと、同じ心で、今、只今、ここに居るという実感は、掴めました。在宅では、経験できないことです。
余談ですが、御馴染みの「雷門」は、天慶5年(942年)創されたそうです。が、慶応元年(1895年)大火を受けて焼失。昭和35年(1949年)95年ぶりに、松下電器産業創始者の松下幸之助氏の寄進で再建したと言います。
この逸話で思い出すのですが、私が、50年前、新聞社に勤めていた時、どうしても、彫刻家になりたくて、当時、日展無審査の、岩手県・水沢市(現奥州市)出身の小野寺玉峰という彫刻家に弟子入りしたことがありました。この、小野寺氏が、当時の水沢市長に依頼され、後藤新平の銅像を制作することになりました。後藤氏は、水沢市の出身です。水沢市は、斎藤実・山崎為徳らの、日本を背負う人材を輩出しているのです。後藤新平の立像は、高さ3メートル大の像で、ボーイスカウトの姿で、ボーイスカウトの少年に話しかけている像です。この像の仕草のモデルを、私が、勤めたりしました。立像が完成し、制作費を捻出するため、寄付を集めることにしたのです。寄付者の一人、当時、自民党副総裁だった、水沢市選出の椎名悦三郎氏に、単身、寄付集めに行き、お願いしたところ、「良し。判った。実にいいことだ」と一つ返事で、10万円を戴きました。私の月給が、8000円の時でした。心意気や良し。
これらのことを思うとき、今の政治家や経済人といわれる人で、こうした篤実な人は居るのでしょうか?みんな、己の有利なことや打算だらけの行動で、テレビの前で、深深と謝罪の頭を下げるだけの人たちを、いやと言うほど見せ付けられています。情けないことです。
ところで、先述の後藤新平の銅像は、今、東北新幹線「江刺水沢」の駅前広場に、立てられています。
浅草寺の御詠歌です「深き罪(とが) 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身ならば」
浅草寺のお参りを終え、江戸三十三観音霊場第二番札所に、向かうため、浅草のロック街を抜け、下町風情を満喫しながら、歩きます。このあたりから、神田までの町内は、「神田祭」で何処の通りや横丁にも、祭囃子や神輿の威勢のよい掛け声が、さんざめいき路地ごとに御神輿に遇いました。神田明神では、9,10の両日が、神輿の渡御のピークで、遠くから歓声や喧騒が聞こえてきました。こういうめでたい日が巡礼行の初日にかさなっているというのも大変有難い神仏のご縁を感じます。
つい70年前までは、町の風情も木造の縁側のある民家や長屋が、密集していたであろうこの界隈は、いまや、鉄筋、総ガラス張り、堅牢なコンクリートの高層ビルが、狭い道路を挟んで林立しています。その、高層ビルの狭間を、神輿が練り歩くのですが、"練り歩く“ことも出来ないようです。担ぎ手は、少なく、中老年が多く。法被姿で、内輪を仰いで、騒ぐ子供は居ません。勿論、いなせな若衆、別嬪さんの姿も見えません。変わり果てた、祭り神輿の光景です
午前11時、霊場第二番札所 江北山 清水寺(せいすいじ)。本尊 千手観世音菩薩 宗派 天台宗。東京都台東区松ヶ谷2-25-10
高層ビルの谷間に、ひっそりと佇む小ぶりの寺院。平成7年から、2年に亘る大普請の行い、平成9年11月、地上2階、地下1階の、鉄筋コンクリートの近代的な堂宇になったと言います。ここも、周囲が、高層マンション群の中にあるため、寺院があることを忘れ、見過ごしかねません。霊場巡礼行であるため、この寺を訪ねればならないのですが、普通では、檀家か関係者以外の人たちは、滅多に来ないであろうと思われるお寺であります。正直、そんな、地味な霊場でありました。
縁起は、古く、天長6年(829年)淳和天皇の御代に、疫病が大流行。これを悲しまれた天皇は、天台宗・比叡山延暦寺の座主・慈覚大師に、疫病退散の祈祷を下命されたといいます。慈覚大師は、一刀三礼して、千手千眼観世音菩薩を彫刻し、武蔵国江戸平河に、当時を開き、お祀りしました。400年前,慶長年代、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感僧正の協力で中興を果たし、徳川家康の入府で、移転、明暦3年(1657年)、現在地に移ったといいます。
私たちが入ると、一杯になる本堂で、読誦・祈祷しました。目の前に、千手千眼観音様がおられますので、かえって、大きな本堂で、ご本尊様を霞がかつた見え方より、身近かに感じられるかもしれません。有り難いことです。
清水寺の御詠歌です「ただたのめ 千手のちかひ ひろければ かれたる木にも 花さくという」
午前11時30分、再び、徒歩出発します。上野に向かいますので、大通りに出ますが、途中、旧浅草北清島町を通ります。ここには、江戸初期の町奴。幡随院長兵衛の墓があります。当時、奉公人を周旋する口入れ業に従事。町奴と言われる、任侠の徒が横行したとき、長兵衛が取り仕切り、多くの伝説を残して、人気を集めたと言います。また、江戸後期の文人画家。谷文晁、。門下に、渡辺崋山らが居ました。谷文晁の墓がある。さらに、伊能忠敬らの史跡墓地もあります。
正午、JR上野駅にきました。途中の大通りでは、神田祭りの、大神輿の一群が、通り一杯に広がって、ワッショ、ワッショと威勢のいい声をはりあげていました。下町情緒と言いたい所ですが、高層ビルと、アスフアルト道路と、見物人の姿も見えない、関係者だけのお神輿では、神様も、さぞや、悲しんでおられることでしょう。祭りも神輿も、今では、神事と言うよりは、アトラクション・パレードか、ショウの様相を呈しています。
午後12時10分、本日最後の巡行寺、霊場第6番札所。東叡山 清水観音堂。
本尊 千手観世音菩薩。宗派 天台宗。東京都台東区上野公園1-29
上野公園の中にあり、公園を訪れる人は、大抵この寺を訪れるため、人気が絶えません。ことに、近年、外国人観光客が増えたため、御朱印を戴くのも、長い行列が出来、容易ではないようです。私自身は、この寺院には、良く来る寺で、勝手は知つて居るつもりなのですが、由緒や、肝心なことは解からないでいる典型的な「おめでたい人」であります。やはり、巡拝行でなければ、真面目に、寺院の由緒を質し、本堂に上がって、経をお唱えし、祈祷することは 、ありませんでした。
由緒は、京都清水寺の義乗院春海上人が、同寺に安置されていた平家の武将主馬判官盛久が、護持した千手観音像(恵心僧都作)を、寛叡寺を開山した天海大僧正に献じたことから、寛永8年(1631年)、京都清水寺に倣って上野公園・すり鉢山に建立、元禄7年(1698年)現在の所に、移設されました。
平家滅亡後、源氏方に捕らえられていた盛久が、鎌倉・由比ヶ浜で、打ち首になる所、観世音菩薩の奇瑞によって赦されたという故事で、観音堂の観世音菩薩は、秘仏本尊として祀られてから、霊験あらたかといい、参詣者が絶えないそうです。とくに、盛久受難の日が午の歳・、午の日・午の刻という縁で、年一度の初午縁日ご本尊御開帳では、お百度を踏む信者で堂内は、溢れんばかりといいます。(同寺縁起より)
また、脇本尊として、子育て観音が、安置されており、子宝に恵まれない人たちの信仰を集めています。毎年、9月には、人形供養が行われ、授かった子供の身代わりに、奉納された人形をお焚き上げする伝統の、供養大法要がひらかれます。なお、本堂は、京都清水寺と同じ舞台造りになっていて、花見時の眺望は、格別です。(同上より)
こうして、午後12時30分、この日の、巡拝行は、無事、終了しました。久々の福聚講の巡拝であり、この観音堂の本堂の中央にある、お焼香台の上に、参詣者がお唱えするように、観音経の偈の一節「福聚海無量」と書かれた栞が置かれているのを見て、講員皆さん、「福聚」講と書いてあると、口々に,喜びあっていました。
このあと、西郷さんの銅像の前を通って、公園下に下り、恒例の懇親会があり、愉快なひとときを過ごしました。心に残った高原講元様の講釈は、「自分の存在と大日如来様の存在は、二元対立しているのはなく、二元的に考えることは間違いである。あなたも、大日如来様なのだ。大日如来さんなのですよ。勿論、大日如来様は、あなたなのですよ!!」と。(角田記)