2、聖武天皇と「「成就衆生浄佛国土」
聖武天皇の時代、八世紀前半も対外関係が緊迫していました。渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。聖武天皇は 天平4年(734)には第9次遣唐使を任命するとともに、節度使に西辺の武備を固めさせ、四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命じています。
こういう極度に緊迫した対外関係の中、
・天平13年(741年)には国分寺建立の詔をだしています。「国分寺を建て金光明経を護持することにより四天王が国土を守ってくださるから」といっておられます。
国分寺建立の詔です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・・・経(金光明最勝王経)を案ふるにいわく『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し恭敬供養し、流通せしむときには、我等四王(四天王のこと)、つねにきたりて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめん。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて恒に歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸国をして各七重の塔一区を敬ひ造らしめ、あわせて金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕またべつに擬りて金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめむ。ねがわくは聖法の盛、天地とともに永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は兼ねて國華とせむ。かならず好き処を択びて実に久しく長かるべし。・・・僧寺は必ず廿僧有らしめよ。其の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。其の名は法華滅罪之寺とせよ。・・・」
・続いて天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出しています。続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『・・・・ここに天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。・・・もし更に人ありて一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ。國郡の司、この事によりて百姓を侵し擾し強ひて収めしむることなかれ。・・・」
とあります。庶民も全く平等に同じ仏性をもつ菩薩と考えて「一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ」と云っておられます。まさに緊迫した対外関係の中、全国民で「成就衆生浄佛国土」を実現し其の上で仏に守られた堅固な国作りをしようとしたことが伺えます。さらに東大寺大仏開眼供養には印度から唐を経て来日された菩提遷那を導師に唐僧道、カンボジア僧の仏哲南等を招いていることは聖武天皇は「世界戒壇」をつくるつもりであったのではと田中智学が「日本国体の研究」で述べています。
日本の危機をバネにして世界を見据えておられたのです。
聖武天皇の時代、八世紀前半も対外関係が緊迫していました。渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。聖武天皇は 天平4年(734)には第9次遣唐使を任命するとともに、節度使に西辺の武備を固めさせ、四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命じています。
こういう極度に緊迫した対外関係の中、
・天平13年(741年)には国分寺建立の詔をだしています。「国分寺を建て金光明経を護持することにより四天王が国土を守ってくださるから」といっておられます。
国分寺建立の詔です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・・・経(金光明最勝王経)を案ふるにいわく『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し恭敬供養し、流通せしむときには、我等四王(四天王のこと)、つねにきたりて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめん。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて恒に歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸国をして各七重の塔一区を敬ひ造らしめ、あわせて金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕またべつに擬りて金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめむ。ねがわくは聖法の盛、天地とともに永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は兼ねて國華とせむ。かならず好き処を択びて実に久しく長かるべし。・・・僧寺は必ず廿僧有らしめよ。其の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。其の名は法華滅罪之寺とせよ。・・・」
・続いて天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出しています。続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『・・・・ここに天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。・・・もし更に人ありて一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ。國郡の司、この事によりて百姓を侵し擾し強ひて収めしむることなかれ。・・・」
とあります。庶民も全く平等に同じ仏性をもつ菩薩と考えて「一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ」と云っておられます。まさに緊迫した対外関係の中、全国民で「成就衆生浄佛国土」を実現し其の上で仏に守られた堅固な国作りをしようとしたことが伺えます。さらに東大寺大仏開眼供養には印度から唐を経て来日された菩提遷那を導師に唐僧道、カンボジア僧の仏哲南等を招いていることは聖武天皇は「世界戒壇」をつくるつもりであったのではと田中智学が「日本国体の研究」で述べています。
日本の危機をバネにして世界を見据えておられたのです。