福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

鎌倉時代でも警察検察は写経供養

2024-07-20 | 法話

鎌倉時代でも警察検察は写経供養をしていました。絶対権力をふるうにあたりそれだけ跼天蹐地の気持ちでいたのでしょう。

 

「別当兼光使廳の結願經を再興の事幷に顕俊定嗣等供養の事」(古今著聞集巻二)

「使庁(検非違使廳)の結縁経(写経供養)は、長保元年999三月十日始めて行なひて、其の後、年ごとに行なはれけるが、絶えて久しく成りにけるを、建久年中(12世紀)、別当兼光卿(検非違使廳長官。高倉・後鳥羽天皇の侍読を務め、歌人としても『千載和歌集』・『新古今和歌集』・『新勅撰和歌集』の3つの勅撰和歌集に1首ずつの計3首が採録される[1]。また、日記『姉言記』(『兼光卿記』)が伝わる。学識に優れ、実務にも長けた官人として平氏政権・後白河院政両方において重んじられた。古今著聞集偸盗第十九にも褒められている官人。)かたのごとく行ひけり。

 

その後、建保六年1218五月二十日、別当顕俊卿(勧修寺流定嗣の叔父)、雲林院(この雲林院は大徳寺の南にあった天台宗の寺)にて行ひたりけり。左佐(左衛門府の佐)経兼(藤原定経の子)以下着座したりけり。このたび、初めて前右大臣公継(藤原公継)を始めて、別当経たる人々に、法華経ならびに具経(不明)一巻づつ結縁せさせられたりけり。そのほか別当の沙汰にても、みづから書かれたりけり。開結二経は左佐経兼・右佐(右衛門の佐)頼資(権中納言兼光の四男)結縁し侍りけり。尉以下は尊勝陀羅尼をぞ奉りける。みな捧げ物を具しけり。

 

宝治六年(宝治は三年1249までしかない)五月二十八日、別当定嗣卿、霊山堂にてまた行はれしは、建保の例を移されけり。古き例のありけるとかやとて、赦しものなん侍りけり。また、金光明経も別当の沙汰にて添へられけり。今度、法華経品々をば詩に作らせ、金光明経の品々をは歌に詠ませられけり。」

 

「別当兼光使廳の結願經を再興の事幷に顕俊定嗣等供養の事」(古今著聞集巻二)

「使庁(検非違使廳)の結縁経(写経供養)は、長保元年999三月十日始めて行なひて、其の後、年ごとに行なはれけるが、絶えて久しく成りにけるを、建久年中(12世紀)、別当兼光卿(検非違使廳長官。高倉・後鳥羽天皇の侍読を務め、歌人としても『千載和歌集』・『新古今和歌集』・『新勅撰和歌集』の3つの勅撰和歌集に1首ずつの計3首が採録される[1]。また、日記『姉言記』(『兼光卿記』)が伝わる。学識に優れ、実務にも長けた官人として平氏政権・後白河院政両方において重んじられた。古今著聞集偸盗第十九にも褒められている官人。)かたのごとく行ひけり。

 

その後、建保六年1218五月二十日、別当顕俊卿(勧修寺流定嗣の叔父)、雲林院(この雲林院は大徳寺の南にあった天台宗の寺)にて行ひたりけり。左佐(左衛門府の佐)経兼(藤原定経の子)以下着座したりけり。このたび、初めて前右大臣公継(藤原公継)を始めて、別当経たる人々に、法華経ならびに具経(不明)一巻づつ結縁せさせられたりけり。そのほか別当の沙汰にても、みづから書かれたりけり。開結二経は左佐経兼・右佐(右衛門の佐)頼資(権中納言兼光の四男)結縁し侍りけり。尉以下は尊勝陀羅尼をぞ奉りける。みな捧げ物を具しけり。

 

宝治六年(宝治は三年1249までしかない)五月二十八日、別当定嗣卿、霊山堂にてまた行はれしは、建保の例を移されけり。古き例のありけるとかやとて、赦しものなん侍りけり。また、金光明経も別当の沙汰にて添へられけり。今度、法華経品々をば詩に作らせ、金光明経の品々をは歌に詠ませられけり。」

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