福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その78

2018-12-16 | 四国八十八所の霊験
当時は61歳でした。あせりも感じていましたがそういう時はいつも年取ってから修行に励んだ先人のことを思って自らを励ましていました。
「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んずべからず 未だ覚めやらず 池塘の春草の夢 階前の梧葉 すでに秋声」 朱熹の「偶成」です。まさにこのとおりで還暦を迎えるまで俗世間でいかにうかうかと人生を過ごしてきたことかと悔悟の日々です。唯一の頼みは古来老いて修行に励んだ人も多かったということが分かったことです。そういう例をあつめて自らなぐさめています。

「老いて惑いなきは少壮勤学の功による。臨末にも心みだれざるは平生修善の力なり。」(慈雲尊者「人となる道」)
これは老いても平生から修行してないといざというとき心乱れるということです。
これに関して辛らつな言葉がお経にでてきます。増支部五集第六蓋品五十九です。
「一 比丘衆よ、老年に出家せる人にして五法を成就せるものは得難し、何をか五とす。
二 比丘衆よ、老年に出家せる人にして聡敏なる(頭が冴えていること)は得難し、行儀の円足せる(行儀がしっかりしていること)は得難し、多聞なる(博識であること)は得難し、説法者なるは得難し、持律者なるは得難し。
 比丘衆よ、老年に出家せる人にして是等の五法を成就せるものは得難し、と。」
要は年取って出家してもものにならないというのです。

こういう言葉にも負けず老年になっても仏道に励んだ例を書きます。
そもそも真言第一祖の龍猛は300歳、二祖の龍智は700歳まで生きて衆生済度に努めたとされています。

五祖善無為は中インドのマガダ国王であったが出家し80歳で印度から中国に来て唐の玄宗皇帝の帰依をうけ長安で大日経を伝え訳しています。

福増は120才にしてお釈迦様に弟子にしていただいたといいます。福増は「出家の功徳は造塔の功徳に勝る」と聞き「120才の耄及なれどもしひて出家受戒し、少年の席末につらなりて修練しついに大阿羅漢となれり」。(正法眼蔵 出家功徳)とあります。

(ついでにいえば正法眼蔵 出家功徳には「人間にうまれながらいたずら に官途世路を貪求し、空しく国王大臣のつかはしめとして一生を夢幻にめぐらし後世は暗黒におもむきいまだたのむところなきは至愚なり」と書いてありまさに俗世間でうかうかとすごしてきた自分にとっては頂門の一針でした。)

お大師様の弟子で四国三十五番清滝寺の二代目住職をつとめられた真如法新王は862(貞観六)年64才で入唐されさらに印度を目指されました。そして78才のとき羅越国でなくなりました。
延久4年(1073)には成尋が60歳過ぎて円珍の足跡を慕って入唐しています。(成尋は宋の神宗皇帝の命を受け、雨乞いの祈祷をし成功、善恵大師と賜号されています。)



大唐西域記によるとカニシカ王朝時代の脇尊者は80歳で出家し、脇を床につけることなく修行し3年で悟ったといいます。その後禅の第10祖となっています。(沙彌律儀要略註には脇尊者。一生脇不著蓆。高峰妙禪師。三年立願。不沾牀 釋。西域記云。尊者中天竺人。本名難生。由在胎六十年始生故。至八十歲。投九祖伏駄尊者出家。時年少比丘誚曰。出家之業。一則習禪。二則誦經。汝今衰老。何所取進。尊者聞之。誓曰。我若不通三藏。不斷三惑。得六神通。具八解脫。終不以脅至蓆。於九祖處。執侍左右。未嘗睡眠。日則披閱三藏。夜則坐禪。三年之內。悉證所誓。為第十祖。時人敬仰。號脅尊者。一生者。從出家敘起也。元高峰禪師。諱原妙。吳江徐氏子。母夢僧乘舟來。乃孕。至離襁褓。喜趺坐。遇僧入門。輒欲從之。年十五。出家於嘉禾密印寺。十六薙髮。十七習天台教。二十更衣入淨慈。立三年死限。不澡身。不薙髮。不沾床[柷-口+登]。口體俱忘。後於天目師子巖。西石洞。營小室如舟。榜曰死關。絕給侍。洞非梯莫登。撒梯斷緣。雖弟子罕得瞻視。示寂偈云。來不入死關。去不出死關。鐵蛇鑽入海。撞倒須彌山。とあります。このほか多くの大蔵経に出ています。)
佛図澄は310(永嘉4)年79歳で西域から洛陽にあらわれ117歳まで動乱の華北において布教しています。法顕は399(隆安3)年64歳で、長安からインドへ求法の旅に出、70歳でインド、スリランカにわたり、『摩訶僧祇律』『雑阿毘曇心論』『五分律』、『長阿含経』などを得て413年(義熙9年)78歳で海路、青州(山東省)へ帰国しました。『法顕伝』は有名です。
また唐の禅僧趙州禅師(778 ~ 897)は「狗子に仏性ありや」の趙州録で有名ですが、禅師は18歳で悟りを開かれ、40年余の修業の後、60歳から80歳まで諸国行脚、120歳まで説法を続けたといわれます。

高野山往生伝にはおおくの僧侶が老年になって修行した例が載っています。清原正国は「武芸を好み悪としてなさざるはなし」という侍でしたが61歳で出家した後は毎日十万遍の念仏を唱え寛治七(1096)年87歳で遷化したということです。

鎌倉後期の宮廷歌人、正二位権大納言にまでのぼった明釈(1250~1338)は79歳で出家し高野山にのぼりました。俗名を二条為世といい藤原定家の曾孫で二条流の嫡流です。後宇多帝の院宣で「新後撰和歌集」「続千載和歌集」を撰しています。10年後の89歳で寂しています。後陽成天皇の弟君大覚寺空性法新王は1638年(寛永15年)65才で遍路をされたことが空性法新王四国霊場御巡行記にかかれています。
真言以外でも多くの例があります。鑑真和上も56歳で日本渡航を企て6度目66歳にして薩摩につき71歳で唐招提寺を開きました。

蓮如上人は66歳の1480年(文明12年)に山科本願寺御影堂を完成しています。83歳の時には大坂石山坊舎を建立しました。


江戸初期の僧隠元は63歳で明から来日しました。
青の洞門の禅海和尚は49歳で洞門を彫りはじめ三十年後の寛延三(1750)年に手掘りでトンネルを完成しました。
俗人の例ですが伊能忠敬は56歳で蝦夷地の測量を始め72歳で日本地図を完成させました。21番太龍寺の副住職の話では最近でも70歳で求聞持法という真言宗最高の荒行を成満した人もいるということです。

平成30年83歳になる真言僧佐々井秀嶺師は56歳のときブッダガヤの大菩提寺をヒンズー教徒からとりもどすべく5000kmを数千人を組織してデモ行進しています。現在もナグプールで印度仏教界の指導者として活躍中で釈尊成道の地大菩提寺を仏教徒の手にとりもどすべく裁判を起こしました。すごい人です。

 
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