地蔵菩薩三国霊験記 2/14巻の2/16
二、 浄蔵貴所、地蔵の化身なる事
大法師浄蔵は俗姓は三善氏なり。先祖を尋るに百濟國速古王(4世紀。百済の第13代の王)の苗裔たり。三善朝臣清行第八の子、母は嵯峨天皇の御孫なり。一夜の夢に天童一人来り手に独鈷を持ち懐に入れ玉ふと夢見て覚めて懐妊し玉ひて誕生し玉ふ御子なり。幼年正に老功の業(わざ)なり。愛嬌端厳にして見る人目を驚かす。父母の篭愛尤も甚だし。七歳の時葛川の行人に値遇し奉り法印の号を受く。十二歳の時受戒して清涼坊の玄照律師(天台僧。円仁,長意にまなぶ。護摩王と称される)に値奉り三部の大法(台密の胎蔵法・金剛法・蘇悉地法の三部の秘法)を傳受す。其の後安照和尚の入室の弟子の弟子たり。大恵禅師に見へ奉り悉く声明の道を傳へ玉へり。日夜に捨身の苦行を勤め朝夕採果汲水念比(ねんごろ)に禅師に給仕し玉ふ。或時大恵禅師密かにの玉ひけるは若し人、真の地蔵を拝み奉らんと欲せば彼の浄蔵上人を見よ。正しく地蔵薩埵の應化なり。衆生同類の結縁を成し暫く凢舌の塵に交り玉へりとて御手を合せて南無地蔵と唱給けり。誠に御在世に神通の功用勝(あげ)て計るべからず。是村上天皇の御宇應和四年(964年)閏十一月廿四日の暁東山の雲居寺(京都市東山区下河原町高台寺の辺に存在したと考えられる寺院。廃寺。桓武天皇崩御後、菅野真道が追善供養のため道場を建立する。承和四年(837)、真道の子永岑ながみねによって一院が創建され、これが雲居寺の前身となる。平安末頃に瞻西せんさい(生没年不明)によって金色八丈の阿弥陀像が安置され、堂は勝応弥陀院と呼ばれた。『四十八巻伝』一三には、法然がここに参詣したときの逸話が記されている。なお『本朝高僧伝』は瞻西によって天治元年(1124年)に当寺が開かれたとする。永享八年(1436年)大火に焼かれ、復興後、応仁の兵火で焼亡。慶長一〇年(1605年)高台寺建立のため廃絶した)にて入滅し玉ひき。されば得其の數を知らず。法を受けし輩は十に八九は地蔵傳法を授け玉ふとなり。