3、 先に布施行としての捨身の仏典の記述を見ましたが、実際、日本でも仏道成就・衆生済度の為に無数の捨身行が行われてきました。
㈠ 仏への供養としての焼身についていえば、「大日本国法華経験記」に日本最初の焼身として紀伊熊野那智山の僧応照の焼身が記されたり、長徳元年(995)9月、六波羅蜜寺の僧が、菩提寺の北辺で焼身供養(「日本紀略」長徳元年9月15日条)その翌日には、近くの阿弥陀ケ峰でも焼身自殺があったとされます(「百錬抄」同年9月16日条)。また丹波国の仙命という僧は、四天王寺に詣でた時、聖霊堂の前において、手の中指を燈して尊像を供養したら、紅燭の光の前に青竜が現れた。このことから、処々の道場で指に燈して仏に供養した、とあります(「拾遺往生伝」)。伊勢国飯高郡上平郷のある尼僧は、長年、手の皮をはいで極楽浄土をそこに写したいと考えていたところ、一人の僧が来て尼僧の手の皮をはがして、極楽浄土を写して持ってきたといいます(「日本往生極楽記」)。
㈡ また衆生済度のための入水往生も盛んに行われました。根井浄『補陀落渡海史』(法蔵館)によると補陀落渡海(入水往生)は平安時代から江戸時代頃まで行なわれ、全国で56例あるとされます。たとえば「・長保年間(999-)日円坊足摺岬より渡海(さた山縁起)。長保3年(1001)11.18 賀登上人足摺岬より渡海(観音講式・発心集・地蔵菩薩霊験記・蹉 山縁起・観音冥応集)・12世紀末 室戸の蓮台上人南海往生(南路志)・讃岐三位夫の入道入水(発心集・観音冥応集)・理一上人足摺岬より渡海(長門本平家物語)・ある上人室戸岬より渡海(観音利益集)・康元2年(1257)実勝上人室戸岬より渡海(四座講縁起・星尾寺縁起)・康元4年(1259)3月22日、 行者常徳室戸岬より渡海(金剛頂寺文書)・正安4年(1302)以前、ある足摺岬より渡海 (とはずがたり)・享徳4年(1455)阿日上人足摺岬より渡海(さ蹉山縁起)・寛正2年(461)ごろ 正実沙弥足摺岬より渡海(さ蹉 山縁起)・永禄7年(1564) 伊予堀江における渡海(フロイス書簡)・明治42年(1909)天俊、足摺岬沖に補陀落入水(㈢剛福寺伝承)」等とあります。
・㈢衆生済度の為の土中入定もさかんにおこなわれました。日本では学術調査で確認されたのは京都阿弥陀寺の開祖弾誓上人(1613年入定)湯殿山注連寺の鉄門海上人(1829年入定)など24体あるといわれています。(「日本のミイラ佛をたずねて」土方正志著)。
そもそも入定はお釈迦様の弟子摩訶迦葉が、弥勒菩薩出世の56億7千万年後を目指しお釈迦様から託された袈裟を弥勒菩薩に伝えるべく鶏足山に入定されたことにはじまります(大唐西域記)。中国でもおおくの入定僧がでています。有名な方々を挙げると、天台智者大師 智 は開皇十七 (597)天台山国清寺 に、禅宗五祖 弘忍は上元二 (675)安徽省黄梅に、真言 五祖 善無畏三蔵は開元二十三(735)龍門西山広化寺に入定されています。
日本では お大師様の弟子実恵、堅恵大徳も入定され四国26番金剛頂寺の2代目住職智光上人も大師のあとを追って大師入定の一月後に入定されています。拾遺往生伝に、「大僧都定照は興福寺の惣官、東寺の長者なり、・・三業怠らずして一生犯すことなし。・・その臨終に到りて沐浴清浄にして、新しき浄衣を着、右に五鈷を取りて、左に妙經を持せり、初めは密印を結び真言を誦し、次に観念をこらして法花を誦せり。薬王品の「於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、囲繞住処、生蓮華中、寶座之上」の文に到りて再三複誦せり。弟子に告げて曰く、我が屍骸焼き尽くすことなかれ、骸骨となるといえども、法花を誦すべしといへり。言語すでに畢りて端座して入滅せり。時に永観二年春秋七十三也。その誓願力のゆえに、今に墓の中に読経の声あり、また振鈴の音あり。」とあるのなどは本当は入定ではないかとも思います。
「元亨釈書」や「続本朝往生伝」等によれば摂津勝尾寺証如は 貞観九(867) に、大和多武峰寺の増賀 は長保五(1003)に入定したとされます。続本朝往生伝にも、「阿闍梨成尋は、・・西に向かいて逝去せり。その頂上より光を放つこと三日、寺の中に安置するに全身乱れず、今に存せり。膚に漆金をちりばむるに毛髪なおし生ひて、形質変わることなし。」とあり、これなどは當に入定と云えるでしょう。
「高野往生伝」等では維範が 嘉保三(1096)に琳賢も 久安六(1150)に高野山 に入定しています。新義真言宗開祖の覚鑁 上人も康治二(1143) 入定されたが九日目に火葬にされたという説もあります。
秀吉から高野山を救った木食応其上人も1608年に入定しています。ほぼ同じ頃四国50番繁多寺の住職覚了師は穴のなかで雨乞いの行をしたまま入定し23日目に雨が降ったといわれています。土佐の仏海庵の仏海上人も江戸時代に入定しています。また、富士山行者の身禄は、享保18年(1733)に烏帽子岩で入定しています。
㈣ このように日本に於いても「捨身」は連綿として続けられてきています。
㈠ 仏への供養としての焼身についていえば、「大日本国法華経験記」に日本最初の焼身として紀伊熊野那智山の僧応照の焼身が記されたり、長徳元年(995)9月、六波羅蜜寺の僧が、菩提寺の北辺で焼身供養(「日本紀略」長徳元年9月15日条)その翌日には、近くの阿弥陀ケ峰でも焼身自殺があったとされます(「百錬抄」同年9月16日条)。また丹波国の仙命という僧は、四天王寺に詣でた時、聖霊堂の前において、手の中指を燈して尊像を供養したら、紅燭の光の前に青竜が現れた。このことから、処々の道場で指に燈して仏に供養した、とあります(「拾遺往生伝」)。伊勢国飯高郡上平郷のある尼僧は、長年、手の皮をはいで極楽浄土をそこに写したいと考えていたところ、一人の僧が来て尼僧の手の皮をはがして、極楽浄土を写して持ってきたといいます(「日本往生極楽記」)。
㈡ また衆生済度のための入水往生も盛んに行われました。根井浄『補陀落渡海史』(法蔵館)によると補陀落渡海(入水往生)は平安時代から江戸時代頃まで行なわれ、全国で56例あるとされます。たとえば「・長保年間(999-)日円坊足摺岬より渡海(さた山縁起)。長保3年(1001)11.18 賀登上人足摺岬より渡海(観音講式・発心集・地蔵菩薩霊験記・蹉 山縁起・観音冥応集)・12世紀末 室戸の蓮台上人南海往生(南路志)・讃岐三位夫の入道入水(発心集・観音冥応集)・理一上人足摺岬より渡海(長門本平家物語)・ある上人室戸岬より渡海(観音利益集)・康元2年(1257)実勝上人室戸岬より渡海(四座講縁起・星尾寺縁起)・康元4年(1259)3月22日、 行者常徳室戸岬より渡海(金剛頂寺文書)・正安4年(1302)以前、ある足摺岬より渡海 (とはずがたり)・享徳4年(1455)阿日上人足摺岬より渡海(さ蹉山縁起)・寛正2年(461)ごろ 正実沙弥足摺岬より渡海(さ蹉 山縁起)・永禄7年(1564) 伊予堀江における渡海(フロイス書簡)・明治42年(1909)天俊、足摺岬沖に補陀落入水(㈢剛福寺伝承)」等とあります。
・㈢衆生済度の為の土中入定もさかんにおこなわれました。日本では学術調査で確認されたのは京都阿弥陀寺の開祖弾誓上人(1613年入定)湯殿山注連寺の鉄門海上人(1829年入定)など24体あるといわれています。(「日本のミイラ佛をたずねて」土方正志著)。
そもそも入定はお釈迦様の弟子摩訶迦葉が、弥勒菩薩出世の56億7千万年後を目指しお釈迦様から託された袈裟を弥勒菩薩に伝えるべく鶏足山に入定されたことにはじまります(大唐西域記)。中国でもおおくの入定僧がでています。有名な方々を挙げると、天台智者大師 智 は開皇十七 (597)天台山国清寺 に、禅宗五祖 弘忍は上元二 (675)安徽省黄梅に、真言 五祖 善無畏三蔵は開元二十三(735)龍門西山広化寺に入定されています。
日本では お大師様の弟子実恵、堅恵大徳も入定され四国26番金剛頂寺の2代目住職智光上人も大師のあとを追って大師入定の一月後に入定されています。拾遺往生伝に、「大僧都定照は興福寺の惣官、東寺の長者なり、・・三業怠らずして一生犯すことなし。・・その臨終に到りて沐浴清浄にして、新しき浄衣を着、右に五鈷を取りて、左に妙經を持せり、初めは密印を結び真言を誦し、次に観念をこらして法花を誦せり。薬王品の「於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、囲繞住処、生蓮華中、寶座之上」の文に到りて再三複誦せり。弟子に告げて曰く、我が屍骸焼き尽くすことなかれ、骸骨となるといえども、法花を誦すべしといへり。言語すでに畢りて端座して入滅せり。時に永観二年春秋七十三也。その誓願力のゆえに、今に墓の中に読経の声あり、また振鈴の音あり。」とあるのなどは本当は入定ではないかとも思います。
「元亨釈書」や「続本朝往生伝」等によれば摂津勝尾寺証如は 貞観九(867) に、大和多武峰寺の増賀 は長保五(1003)に入定したとされます。続本朝往生伝にも、「阿闍梨成尋は、・・西に向かいて逝去せり。その頂上より光を放つこと三日、寺の中に安置するに全身乱れず、今に存せり。膚に漆金をちりばむるに毛髪なおし生ひて、形質変わることなし。」とあり、これなどは當に入定と云えるでしょう。
「高野往生伝」等では維範が 嘉保三(1096)に琳賢も 久安六(1150)に高野山 に入定しています。新義真言宗開祖の覚鑁 上人も康治二(1143) 入定されたが九日目に火葬にされたという説もあります。
秀吉から高野山を救った木食応其上人も1608年に入定しています。ほぼ同じ頃四国50番繁多寺の住職覚了師は穴のなかで雨乞いの行をしたまま入定し23日目に雨が降ったといわれています。土佐の仏海庵の仏海上人も江戸時代に入定しています。また、富士山行者の身禄は、享保18年(1733)に烏帽子岩で入定しています。
㈣ このように日本に於いても「捨身」は連綿として続けられてきています。