4、臓器移植に反対する意見もあります。「臓器移植は人間の欲望の充足を安易に容認する危険性がある。仏教はもともと欲望が苦の原因であるとして、その抑制を説いてきた。与えられた人生を生ききることが大切」「孝経には『身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり』とある。」「脳死を人の死とするのは殺生を禁じている仏教に反する」等という意見です。しかし宗派として明確に臓器移植に反対という宗派は無いように思います。
インターネットで調べた各宗派の態度は概要以下のようなものです.
明確な反対はありません。
(1)天台宗 無縁の慈悲の極致である「忘己利他」の発露としての臓器提供という布施行為を認め、受ける側についても、「天台教学では決定業(前世の悪行の報いを受けるべき業)も、祈りによって転じることがあり得る」として、「臓器移植は望ましくないにしろ、現時点で必要とされる以上、安全、公正、公平、適切に実施されるべく我々をはじめ社会全体で必要な研鑽と適切な措置が講ぜられることを期待する」
(2)日蓮宗 「臓器提供は自己決定の場合、仏教の慈悲心にもかなう行為として認識されています。しかし、現行法の脳死=人の死という定義や、本人の意思を確認することなく臓器提供が可能ということに対しては疑問を感じざるを得ません。
日蓮宗は、自由意思による自己決定が不可欠であるという立場をとっています。」
(3)浄土宗 提供する側について、「否定する根拠は極めて少ない。純粋な気持ちから他者の幸福を願って、自らの臓器を進んで提供しようとする姿勢は評価すべき」とする一方で、受ける側については、「自然な命の営みに抗してながらえるものであることを自覚し、さらに提供する人をはじめ、さまざまな縁によって移植できることを感謝し、その恩に報いる生き方をすることが望まれる」という。
(4)曹洞宗 「宗門としてイエスかノーかといった二者択一的な結論は出し得るものではい、」する。
(5)浄土真宗本願寺派 親鸞上人の「一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり (歎異抄)」という言葉から「生命が尊厳であるのは、すべての個体が個体以上の大きな生命によって貫かれているから」であることを示し、また、「五蘊皆空」の考えから「私という個体を構成しているものは何一つ私の所有物ではない」ことも併せて示す。そして、「私のいのちも他人のいのちも同じ」であり、「本当の宗教心からは、脳死や移植に反対する理由は何一つ出てこない」と結論づける。
(6)真宗大谷派 「死を遠ざけ、生のみを延長する努力によって、死を克服するということはできません。むしろ私たちは「自我を超えたいのちのはたらき」(無量寿)に生かされています。その我が身に気づき、そこに「いのちの私有化」をしてやまぬこの身が懺悔され、生も死も与えられたものとして引き受けられるとき、掛け替えのない今この時の「いのち」の意味に目覚めることができるのです」
(7)日本印度学仏教学会 「受け難くしてうけるを得た人間の生命の尊厳を、常に基本的視座に置くべき」であり、脳死・臓器移植の是非は、「仏教者としての自覚にもとづきつつ、各人が状況に応じて判断し、決断していくべきである」
インターネットで調べた各宗派の態度は概要以下のようなものです.
明確な反対はありません。
(1)天台宗 無縁の慈悲の極致である「忘己利他」の発露としての臓器提供という布施行為を認め、受ける側についても、「天台教学では決定業(前世の悪行の報いを受けるべき業)も、祈りによって転じることがあり得る」として、「臓器移植は望ましくないにしろ、現時点で必要とされる以上、安全、公正、公平、適切に実施されるべく我々をはじめ社会全体で必要な研鑽と適切な措置が講ぜられることを期待する」
(2)日蓮宗 「臓器提供は自己決定の場合、仏教の慈悲心にもかなう行為として認識されています。しかし、現行法の脳死=人の死という定義や、本人の意思を確認することなく臓器提供が可能ということに対しては疑問を感じざるを得ません。
日蓮宗は、自由意思による自己決定が不可欠であるという立場をとっています。」
(3)浄土宗 提供する側について、「否定する根拠は極めて少ない。純粋な気持ちから他者の幸福を願って、自らの臓器を進んで提供しようとする姿勢は評価すべき」とする一方で、受ける側については、「自然な命の営みに抗してながらえるものであることを自覚し、さらに提供する人をはじめ、さまざまな縁によって移植できることを感謝し、その恩に報いる生き方をすることが望まれる」という。
(4)曹洞宗 「宗門としてイエスかノーかといった二者択一的な結論は出し得るものではい、」する。
(5)浄土真宗本願寺派 親鸞上人の「一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり (歎異抄)」という言葉から「生命が尊厳であるのは、すべての個体が個体以上の大きな生命によって貫かれているから」であることを示し、また、「五蘊皆空」の考えから「私という個体を構成しているものは何一つ私の所有物ではない」ことも併せて示す。そして、「私のいのちも他人のいのちも同じ」であり、「本当の宗教心からは、脳死や移植に反対する理由は何一つ出てこない」と結論づける。
(6)真宗大谷派 「死を遠ざけ、生のみを延長する努力によって、死を克服するということはできません。むしろ私たちは「自我を超えたいのちのはたらき」(無量寿)に生かされています。その我が身に気づき、そこに「いのちの私有化」をしてやまぬこの身が懺悔され、生も死も与えられたものとして引き受けられるとき、掛け替えのない今この時の「いのち」の意味に目覚めることができるのです」
(7)日本印度学仏教学会 「受け難くしてうけるを得た人間の生命の尊厳を、常に基本的視座に置くべき」であり、脳死・臓器移植の是非は、「仏教者としての自覚にもとづきつつ、各人が状況に応じて判断し、決断していくべきである」