蓋し真言密教より意へば、天台円教の三千円融の実相観も、畢竟これ因縁生霧生寂滅の空義を拡充して説きしものなれば、畢竟は寂滅の空義に帰すと観るものである。かの四教の中の通教の因縁即空の理に、別円二教の中道の理を含ずと云ふより観るも、或は三千の法は皆因縁生なるを以て、是の故に一一即空仮中なりとの別行玄義等の釈より観るも、天台の実相観もかの中論の空観的実相観と旨趣を同じゅうするものあるを知らるるのである。
蓋し三千円融の文は、もとこれ所依の経典になきところにして、智者大師、法華の十如、華厳経の十界互具、智度論の三世間等の文に依り、止観に初めて開設せる法門である。
若し直に法華経の経文を見れば、諸法実相の義も、これ寂滅の空義である。法華経の薬草喩品には「如來知是一相一味之法。所謂解脱相離相滅相。究竟涅槃常寂滅相。終歸於空。」(如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂解脱相・離相・滅相・究竟涅槃・常寂滅相にして終に空に帰す。)
或は又、提婆達多品に「今皆修行大乘空義。(文殊師利謂智積曰。於海教化其事如是。爾時智積菩薩。以偈讃曰大智徳勇健 化度無量衆 今此諸大會 及我皆已見 )演暢實相義( 開闡一乘法 廣導諸衆生 令速成菩提)」
或は安楽行品に「一切諸法 空無所有 無有常住 亦無起滅 是名智者 所親近處」
また智者大師の禅門要略に「一切行人。常斂念観四大五蘊空無所有。名為道。」
また法華玄義に「 諸諦不可説者。諸法從本來常自寂滅相・・常自寂滅相。那得諸諦紛紜相礙。一諦尚無諸諦安有。一一皆不可説。可説爲麁不可説爲妙。不可説亦不可説是妙。是妙亦妙言語道斷故。・・此經但一妙無諦」
また前段所引の如く摩訶止観には「第一義中一法不可得。況三千法。世諦中一心尚具無量法。況三千耶。」
或は荊谿の十不二門には「初心而遮而照。照故三千恒具。遮故法爾空中。終日雙亡終日雙照。不動此念遍應無方。隨感而施淨穢斯泯。亡淨穢故以空以中。仍由空中轉染爲淨。由了染淨空中自亡。」
或は「秖縁因果理一。用此一理爲因。理顯無復果名。豈可仍存因號。因果既泯理性自亡。」
蓋し三千円融の文は、もとこれ所依の経典になきところにして、智者大師、法華の十如、華厳経の十界互具、智度論の三世間等の文に依り、止観に初めて開設せる法門である。
若し直に法華経の経文を見れば、諸法実相の義も、これ寂滅の空義である。法華経の薬草喩品には「如來知是一相一味之法。所謂解脱相離相滅相。究竟涅槃常寂滅相。終歸於空。」(如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂解脱相・離相・滅相・究竟涅槃・常寂滅相にして終に空に帰す。)
或は又、提婆達多品に「今皆修行大乘空義。(文殊師利謂智積曰。於海教化其事如是。爾時智積菩薩。以偈讃曰大智徳勇健 化度無量衆 今此諸大會 及我皆已見 )演暢實相義( 開闡一乘法 廣導諸衆生 令速成菩提)」
或は安楽行品に「一切諸法 空無所有 無有常住 亦無起滅 是名智者 所親近處」
また智者大師の禅門要略に「一切行人。常斂念観四大五蘊空無所有。名為道。」
また法華玄義に「 諸諦不可説者。諸法從本來常自寂滅相・・常自寂滅相。那得諸諦紛紜相礙。一諦尚無諸諦安有。一一皆不可説。可説爲麁不可説爲妙。不可説亦不可説是妙。是妙亦妙言語道斷故。・・此經但一妙無諦」
また前段所引の如く摩訶止観には「第一義中一法不可得。況三千法。世諦中一心尚具無量法。況三千耶。」
或は荊谿の十不二門には「初心而遮而照。照故三千恒具。遮故法爾空中。終日雙亡終日雙照。不動此念遍應無方。隨感而施淨穢斯泯。亡淨穢故以空以中。仍由空中轉染爲淨。由了染淨空中自亡。」
或は「秖縁因果理一。用此一理爲因。理顯無復果名。豈可仍存因號。因果既泯理性自亡。」