荊谿の十不二門に曰「空仮中妙故。空假中妙。故色心體絶。唯一實性無空假中。色心宛然豁同眞淨。無復衆生七方便異。不見國土淨穢差品。而帝網依正終自炳然。」(空仮中の妙なる故に色心の体は絶し、唯一なる実性にして空仮中無し、色心は宛然として真にして浄なること豁同(おなじ)なり。衆生の七方便(悟りのさまざまの段階)のまた異なる無し。国土に浄と穢の差品(ちがい)を見ず。しかして帝網(世界)の依正は終に自ら炳然(あきらか)なり。)即ちこれ能所の念を絶し、色心を隔つる虚妄の迷情を離るれば、融妙なる三千の実相一時に顕現することを明かすものである。この境地はもとより因果不二人法一体なるべきも三千円融の妙法は、人法のうち寧ろ法の義が勝れたりと観らるべきである。
これを其の本経についていへば、法華経に本迹の二門あり迹門は諸法実相の理、即ち法を説き、本門は久遠成道の事、即ち人を明かす。しかも今家にては本迹異なりといへども不思議一なりと観て、本迹二門共に、一実相の法を宣顕するにありと説くに徹するもも、生佛の仮人を遮し、実相真実の妙法を現成するを、正宗とする敬意を看取せらるるのである。
しかして諸法を隔つる迷情に由って三千の法体其徳隠れ、ただ理として具するは因位の衆生界にして、智によって三千の法体如実に至るを佛果の境なりとするもしかも因果の体、實定の性なく、因果の萬徳は鏡中の像の如く、夢裡の境界の如く無生無相なりと説くものである。荊谿の釈の「如夢勤加空名惑絶。幻因既滿。鏡像果圓。」等の文(十不二門、首楞嚴義疏注經にあり)は如上の教意を語るものである。
これを其の本経についていへば、法華経に本迹の二門あり迹門は諸法実相の理、即ち法を説き、本門は久遠成道の事、即ち人を明かす。しかも今家にては本迹異なりといへども不思議一なりと観て、本迹二門共に、一実相の法を宣顕するにありと説くに徹するもも、生佛の仮人を遮し、実相真実の妙法を現成するを、正宗とする敬意を看取せらるるのである。
しかして諸法を隔つる迷情に由って三千の法体其徳隠れ、ただ理として具するは因位の衆生界にして、智によって三千の法体如実に至るを佛果の境なりとするもしかも因果の体、實定の性なく、因果の萬徳は鏡中の像の如く、夢裡の境界の如く無生無相なりと説くものである。荊谿の釈の「如夢勤加空名惑絶。幻因既滿。鏡像果圓。」等の文(十不二門、首楞嚴義疏注經にあり)は如上の教意を語るものである。