第十六番 無量山西光寺。御堂三間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長九寸(約27cm) 行基菩薩御作
此尊は徃古他郡に有しが、佛の告に依て此地に移給しとぞ。其年暦を知ず。中頃諸州兵亂に依て所とし て陵夷せざるなく、寺塔發壊せずと云處なかりしかば、住侶もなく、此寺も無人の境と成しが、漸く逆浪静りて後、近きあたりの祝子(はふりこ・神職)此堂を守りけるとぞ。其後亦白衣(俗人)舎の守護する事年あり、其後此無量山 の地に移り奉りぬ。又曾此寺の住侶に圓比丘となん云し僧有り、秋の夕、月の入方を詠て、堀河入道右大臣の入月を見るとや人の思ふらん心を掛て西に向へばと讀給ひし如く(千載集にあり)、月日の入方を見ても終焉の期を心に掛て、佗念なく眞實念佛し、法然上人の西へ徃く道一つだにたがはずば骨と皮とに身は成ばなれと 詠ぜしぞ、能き吾心の師にてこそあれど信心をはげまし給ふ。折から木々の木ずへも峯の葛葉も、心あ はただしう争ひ散て、木枯の吹はらひたるに、鹿は籬の本に彳て山田の引板にも驚かでうち鳴くも憂がほ に、艸むらの蟲の聲もより所なげに鳴よはり、枯たる艸の下より老たる女のいと物かなしげなるが杖にすがり、忽然と現れ、我久遠過去の舊一人の優婆夷也しが、妬毒飽迄深く、貪欲甚重にして惡と云惡せずと云事なく、僧を罵、法を誹て慢心たくましかりしが、一朝露命消て直に阿鼻獄に堕して刧を經る 後、夜叉餓鬼の類と成、或は野干の屬、諸大惡獸となりて三悪趣を廻り、漸人界の果を得たりと雖も、 此里の孤獨貧窮の家に生れ、亦罪業の火に薪を加へ、僧物をかすめ法財を奪しかば、再古里の奈落に皈て苦痛語するに堪へず。毛血律師が毛孔より血を流せしも(毛血律師の事新婆娑論七十六の九丁、 法苑珠林の三十五の二丁めに見へたり。根本説一切有部毘奈耶雜事に「時有苾芻名曰毛血。昔於五百世若生若死常處地獄。後生人趣處在居家。常好嚴身戲樂無厭不思地獄。後於異時在佛法中出家修行。見佛説法。於三藏教説地獄苦傍生餓鬼人天差別。聞地獄時極苦現前。身諸毛孔並血流出。」)吾身の上に思やりぬ。師あはれんで吾が子孫に教えて、此苦を拔て樂を與へよ。此處後年觀音を安置すべし。其像に向 て吾冥福を祈りてたべと。言葉の下よりかきけして蕭颯たる秋風耳。圓比丘掌を合て彼れがために稱名念佛して夜明ぬれば、件の事を彼子孫に告ぐ。未幾程もなく當寺へ觀音堂を引移し來る事、彼幽魂の語りしに露たかはず。各來會して念佛修行せしとぞ。定て知る彼亡魂永く悪趣を離て樂邦に徃詣せし事を。 其佛本願力頼もしからずや。言を寄、有信の輩共に一苦城を出ん事を勸む。詠歌に曰、
「西光寺 ちかひを人に 尋ぬれば 終のすみかは 西とこそ聞」
歌の意註解を待ずして能聞へたれども、暫く婦女の為に説く、上の句に當寺本尊の誓願は有縁の衆生に西方の要路を勧め給ふぞと教ゆる意有。下の句に念佛の衆生の終の住家は、西方の極楽よと答ふと、自問自答の歌也。人々終の住家は本より西方なれども、心より怠りて住家へ往かぬる「ぞかし。されば為相卿の歌に、「へだつなよ終には西と頼む身の 心を宿す山の端の雲」(続新古今、前中納言為相(冷泉為相))。亦顕昭の歌に「やよやまて 傾く月に 事問ん 吾も西には急ぐ心を」(「玉葉」顕昭(仁和寺僧侶・歌人))此類の和歌勝計りがたし。皆是西方は終の住家也。佛の誓を頼母しく思て、朝夕心を西方にかけよと教ざるはなし。此寺の歌と引合て観修念仏
の一助とすべし。