寶筐印陀羅尼和解秘略釈 蓮體
寶筐印陀羅尼和解秘略釈下
一には秘釈を用る本拠の事
二には此經の教主の事
三には此經部屬の事
四には翻譯時代の事
五には本朝請来の事
六には同名異經の事
七には塔を造る分量模様の事
八には造塔の功徳廣大なる事
九には本有の心塔と木石の塔と一體の事
十には亡者の追福回向に最大なる事
十一には無智但信の念誦向上同じき事
十二には陀羅尼は必ず梵字にて書べき事
十三には梵字功徳の事
十四には大唐の銭弘俶八万四千の寶塔を造る事
十五には日本の道喜 經の正本感得の事
十六には大圓上人寶筐印陀羅尼効験の事
十七には今の人呪を誦して効験なき五縁の事
十八には雑行雑修の人喩の事
十九には深信の尼臨終目出度事
二十には不信なれども猶真言を誦ずるは勝利多き事
二十一には今時諸宗の行人皆結縁分際なる事
二十二には密教は逆縁も皆亦成佛する事
二十二には必ず此陀羅尼を信じて誦すべき事
第四に問答料簡と者
問、題號及び經文の秘釈皆梵語字義に約すること胸臆の説にあらずや。請、其憑拠を聞ん。
答、大日経疏の意。皆字義に依て深秘を釈せり。是依憑なり。且く一の例を出さば疏の三に曰く、一一の真言は皆如来妙極の語なり。真言の中に「しゃり」の字あるが如きは浅の釈には只名て心とす。若深秘の釈を作ば「つ」は「しゃ」字に三昧の聲を帯す。「しゃ」は是無遷變の義なり。無遷變は是佛性なり。佛性を亦般若波羅蜜多と名け、亦是一切楞厳三昧と名く。是故に定慧具足す。「た」字は是一切法如如解脱不可得の義あんり。若是の如く心を説くを妙極の語と名く。乃至一切の縁の中に皆第一實際の義あり。豈文の如く解を生ずべけんや。若是の如くの實義を通達せば乃ち阿闍梨となるべし、と。已上貧道苟も師に随て密乗の秘蹟を受て此の法を流傳せんと欲す。豈但淺略の釈のみを作べけんや。故に秘釈皆大日経の疏の説に依る。冀くは其深義を信解せよ。臭嚢を以て金寶を損ることなかれ。
問て曰く、今の經説を見るに生身の釈迦如来の説なること明けし。然に今の秘釈法身如来に約することは何ぞや。
答、三身四身の義、重重なり。常途顕教の三身と者、一には法身毘盧遮那、遍法界一切處無色無形無言無説にして常寂光土に居す。是は真如の理にして説法なし。二には報身始覚圓滿の佛智を自受用報身と名く。説法し玉はず。自受用身の外相を他受用身と名く。一切世間最高大の身を現じ、地上の菩薩の為に説法し玉ふ。即ち華厳経の教主盧遮那佛是あんり。三には應身。應同するに始終あるを應と云。即ち八相成道して二乗及び地前の菩薩の為に説法し玉ふ釈迦如来なり。最勝王經の分別三身品に詳に説り。密教の三身と者、両部の大日如来を理智法身と名く。寶生無量壽の二佛を自他受用身と名く。第三重の釈迦如来を作變化身と名く。分別聖位經には四種法身を説き、禮懺經には五種法身を説く。開合の異のみ。顕の三身は法身に説法なし。密の三身には三身俱に法身と名て皆説法し玉ふと談ずるが故に顕の三身の中の法身を密の分齋として三身四身五種法身を立るなり。故に教論に曰く、夫れ佛に三身あり。教は即ち二種なり。應報化應の開説を名て顕教と云。言顕略にして機に稱へり。法佛の談話、此を密蔵と云。言秘奥にして實説なりと。又下巻に三身四身顕密の異を辨じ畢て曰く、釈迦の三身大日の三身、各各不同なり。故に今此經の教主釈迦如来は大日の作變化法身なるが故に顕教所談の化身にはあらず。胎蔵界の第三重の釈迦如来なり。故に法身の説と云なり。
問、即に教主を聞つ。然らば此經は何の部に属摂するや。
答、二教論に曰く、秘に権実あり。應に随て摂すべしと。今の經は雑部の摂なるべし。然るに高祖の三學の録を考るに金剛頂部に列ね玉へり。私に案ずるに經の現文は雑部に似たりといへども師資の口授を用ゆる時は密蔵の肝心成佛の直路なれば金剛頂部の属し玉へるなり。
問、然らば教主も亦金剛界の北方の不空成就佛なるべし。何ぞ第三重の釈迦如来と云や。
答、両部は不二なり。若格別なりとのみ執せば極位にかなふべからず。實に此經は両部不二の極位を説といへども應に随て金剛界に摂し玉ふなり。此經は一切衆生の本有の心塔を顕はし灌頂の奥秘を示すが故に不二の塔婆なり。甚深の秘趣阿闍梨にあらざれば傳ふばからず。
問、翻訳の時代、如何。
答、亮汰の曰く、開元の録の第二十三不空三蔵所譯の經を列る中に曰く、一切如来全身舎利寶筐經一巻五紙と。又、貞元釈教録の第二十九に曰く、寶筐經一巻。經の内題に曰く、一切如来心秘密全身舎利寶筐印陀羅尼經六紙、大興善寺の三蔵沙門大廣智不空奉詔譯(貞元親入目録)と。開元録は大唐の玄奘、皇帝の朝に西祟福寺の沙門智昇の撰二十巻あり。一切経の目録なり。然れども此の時は不空三蔵、般若三蔵などの翻訳の經は目録に入ず。貞元釈教録には三十巻、徳宗皇帝の朝に西京西明寺の沙門圓照、勅命を奉て撰せらるるが故に、開元已後の翻訳の經悉く載す。圓照法師は即ち不空三蔵の弟子なり。私に案ずるに不空三蔵は開元八年に十六歳にして金剛智に随て唐朝に来り玉へり。開元録は開元十八年に成る。其時不空三蔵は二十六歳なり。金剛智は經を譯し玉ふとも不空は未だ譯し玉ふばからず。不空の譯は金剛智御入滅の後、天寶已後なり。又今蔵中の開元録を考るに此經を戴ず。亮汰の開元録と引玉へるは異本なるべし。貞元録を正すべし。此經黄檗の蔵には興の字の函にあり。七紙あり。又古来本朝流傳の本は十一紙ばかり。文に増減あり。道喜感得の經ならん。現流布の經を正本とすべし。
問、本朝の請来は何の人ぞゆ。
答、高祖大師の御請来の録に曰く、寶筐經六紙と。又、安然の八家の秘録に曰く此經は禅林寺(今の永観堂也)の宗叡僧正(即ち實慧僧都の弟子なり)延暦寺の圓仁(慈覚大師なり)薗城寺の圓珍(智證大師なり)四家の請来なりと。中にも大師は慧果和尚より此經の秘法を傳へ玉ふ故に餘の三家の請来よりも勝れたり。尤も師傳を信べきなり。
問、大唐の疏記に寶筐經と引るは何の經ぞや。
答、蔵中に無字寶筐經一巻六紙菩提留支の譯なり。潔の字の函にあり。大方廣寶筐經三巻求那跋陀羅三蔵の譯なり。今黄檗の蔵本は二巻とす。恭の字の函にあり。従義の大部補註に曰く、曽て蔵中を檢るに寶筐經に両本ありとは是なり。諸師の引用するは右の二部なり。是密部にはあらず。
問、分に随て塔を造る、或は泥、或は甎。大さ菴羅(桃に似たり)の如く、高さ四指ばかりとは何程の量ぞや。
答、大日経の疏に曰く、凡そ一切の量法は皆大拇指の上節の側を用て而も相捻ず。是其の正数なりと。古来の傳に云く、大拇指の横の量は五分なりと。又説七分あんりと。然れば四指は二寸なり。七分の時は二寸八分なり。但し是は常の人の大拇指の量なり。佛の指に約せば一倍なるが故に四寸或は五寸六分あんり。是は塔の極少の量なり。若此塔を造るに高大なれば功徳も彌彌廣大なり。本法は高野山の大塔の如く十六丈に重造るべし。俗に多寶の塔と云是なり。然れども下の重の屋は本なきはずなり。土臺を四方にするは地輪なり。次を圓形にするは水輪なり。今饅頭形といへるは圓相を顕すなり。上の重の屋は三角火輪なり。露盤半月形風輪なり。九輪の上の寶形は團形空輪なり。即ち五輪制底なり。上下の多寶の塔の如く造るべきなり。模様の圖に曰く、(次ページに縮尺図を載せている)。
問、今世流布の塔を拝するに皆石を用て造れり。模様も亦別なり。何の故ぞや。
答、古の先徳、是を造る子細あるべし。然れども經を納る處を四方に作れるは四方に四佛の梵字を書せんが為なるべし。梵字を月輪の中に安ずれば是も亦圓形なり。故に五輪塔婆と同なり。石を用て造るは堅固にして朽ず。久しく人間に在て利益長久ならんことを思へばなるべし。圖に曰く、(次に六尺の塔十分の一の圖あり)。
問、造塔の功徳は此經にのみ説玉ふや如何。
答、造塔延命功徳經、無垢浄光陀羅尼經、尊勝陀羅尼經、無上依經等の諸經に往往に此を説り。今略して無上經(二巻真諦三蔵の譯)の文を出すべし。經の上校量造佛功徳經第一に曰く、阿難、王舎城に入て乞食する次に一處を見るに、一の高き二重の堂を見る。新に建立せるにて、荘厳美を盡せり。希有の心を生じて歸て佛に問奉る、今此の堂を建て四方の衆僧に供養ずる施主の功徳廣大ならん。又如来の滅後に人あり、佛の舎利の芥子ばかりなるを小塔を建て供養する功徳と、何れか勝たると。佛、阿難に告玉はく、諦に聴き専ら思念して敬心を以て信受せよ。閻浮提の地は縦廣七千由旬なり。(一由旬は日本の五町を一里として十里、或は四十里なり。十六里を由旬とする時は七千由旬は十一万二千里なり)。西州の地は縦廣八千由旬なり。東州の地は縦廣九千由旬なり。北州の地は縦廣一萬由旬(十六万里四方)なり。此の四州の中に充満せる聲聞縁學の聖者稲麻竹葦の如くならんを。若一人の大施主あって一生の間飲食衣服臥具醫藥を以て供養し各入滅の後に悉く大塔を建て燈明焼香塗香抹香華鬘衣服傘蓋幢幡等を以て供養せん、此功徳多や否や。阿難の曰く、甚多し世尊。佛又告玉はく。且く此を置く。帝釈天の宮殿を常勝殿と名く(又は殊勝殿とも喜見城とも善見宮とも云。雑阿含経に曰く、目連尊者小千界を遊歴するに荘厳
美麗なること此殿に過たるはなしと)。八萬四千の高楼閣囲繞し八萬四千の青瑠璃の柱あり。真金の寶網羅を其の上に覆ひ、金縄鈴網を四面に張施し金銀の寶沙栴檀香水雑種の天華を其地に灑ぎ布き八萬四千のいろどり飾窗牅あり。毘瑠璃寶因陀羅尼羅寶頗梨寶蓮華色寶等を以て間廁(まじへ)て荘厳し、八萬四千の扶欄階道あり。純ら青瑠璃の合成するところなり。阿難善聴、若し善人あって帝釈の常勝殿の如き伽藍を百千拘胝建立して四方の衆僧に施さんよりは如来の滅後に佛舎利の芥子ばかりなるを、塔を建て供養すること阿摩羅子(今の經の菴羅なり。此方の桃に似たり)の大さの如く刹(しんばしら)は針の大さの如露盤は棗の葉の大さの如く佛像は麦子の大さの如くならんにはしかじ。前の伽藍を建立して僧を供養する人の功徳は此の舎利を供養して小塔を建る人の功徳を百分にしても及ばず。一千万億分乃至阿僧祇数分にしても一分にも及ばず。譬喩も及ばざるところなりと。又阿難に告玉はく、此の娑婆世界を微塵に砕ける数の羅漢辟支佛を一人あり上の如くに供養するよりも如来の滅後に小塔を建て舎利を供養する功徳には及ばず。筭数譬喩も及ばず。阿難此の功徳を設ひ菩提に回向せざれども娑婆世界微塵数の劫を盡すまで忉利天夜摩天兜率天樂變化天他化自在天に生じて王となるべし。况や轉輪王の位をやと(已上)。芥子ばかりの佛舎利を供養する功徳すら既に爾なり。况や今は法身の舎利一切如来の全身の舎利を供養するが故に此の寶筐印塔を建る功徳は無量無邊なりと知るべし。
問、上に述せる秘釈に本有の心塔といへり。今石や木を以て建る塔は心塔にはあらず。因縁生の假法なり。何ぞ廣大の功徳ありや。
答、快いかな問こと。我が療處を抓く。夫れ心は何物ぞ。六大なり。木石は何物ぞ。六大なり。六大は何物ぞ。大日法身なり。彼の因縁顕現は本有を學んで自由なることを得ず。心の形ち外に顕るるは五輪なり。塔より用を発するは五智なり。又陀羅尼の文字なり。然れば心内の塔と心外の塔と、唯一にして二なし。心塔は法身なり。三世の諸佛は報身なり。木石を以て造れる塔は應身なり。報應未だ曽と法身を離れざれば三即一、一即三。三にあらず、一にあらず。遍法界無所不至の塔印なり。然れども自行には心塔を本となし、化他の為には因縁顕現の木石の塔を建立供養すべきなり。又化他の為にも心塔第一なることあり。經の中に此陀羅尼を常に誦ずる人と物語し或は衣の風に触、或は其の跡を踏、或は唯其の面を見たる人も重罪を悉く滅して悉地圓滿すと。又高山頂に登て一心に此の陀羅尼を誦ずれば眼の及ぶところの一切衆生無明を断じて本有の三種の佛性を顕現すといへり。是行者の身心直に塔婆なるにあらずや。
問、亡者の追福回向には此の陀羅尼を最第一なりと云こと、曽て沙石集寂寞草(つれずれぐさ)等の中に於いて見き。今又經文を拝見して信心髄に徹れり。何が故にか是の如くの功徳ありや。
答、但し此陀羅尼のみにあらず。無垢浄光陀羅尼、尊勝陀羅尼、大佛頂、大隨求、光明真言等の功徳も同じきことなり。六波羅蜜經の第一に総じて一切の陀羅尼の功徳を説て曰く、悪人の四重八重禁を破り、五逆罪を作り、方等經を誹謗し一闡提と為る者をも、速疾に解脱し頓悟涅槃せしむといへり。所以何となれば六大無碍の故に。四漫不離の故に。三密加持の故に。回向する我も六大なり。回向を受る亡者も六大なり。」誦するところの陀羅尼も六大なり。此の六大は法界體性大日如来の身なれば我が誦するは直に亡者の誦するなり。又大日如来の誦じ玉へるなり。又一切の諸佛菩薩の一時に誦し玉へるなり。又地獄天堂浄土穢土の一切の塵塵法法一時に誦するなり。纔に七遍を誦するに無量不可思議阿僧祇不可説不可説の遍数あり。經に曰く、此の一の經典を書写すれば即千九十九百千萬俱胝の如来の所説の一切の經典を書写する功徳と同じ。即ち彼九十九百千萬俱胝の如来の前にして善根を植るにも過たり。即亦彼の諸の如来其人を加持し護念し玉ふ。此一巻の經讀誦すれば即ち過去現在未来の諸佛所説の一切の經典を讀誦するになるとは是の義を以てなり。又無量壽の軌に曰く、無量壽如来の心真言を一遍を誦すれば阿弥陀經を不可説遍誦するに敵ると。法身の真言一遍を誦すれば一代蔵教を百萬遍誦するに同じと。皆是六大無碍常瑜伽の故なり。又設ひ誦ぜされども此の本不生の理を觀ずれば一念一切念、一誦一切誦、「五智行一切行、一成一切成の故に念念作作皆誦念するなり。三大僧祇を一念の「あ」字に超、無量の福智を三密の金剛に具す。所謂る三密妄は一禮の題に蕩け五智の一誦の吻に集ると云は夫これを謂か。密教には此理を説が故に七遍の回向にても、速かに成佛せしむるなり。若此の觀智なくして妄想交りに七遍を誦したるばかりならば利益少かるべし。故に大疏の七に曰く、若但し口に真言を誦して其義を思惟せずんば、只世間の義理を成ずべし。豈金剛の體性を成ずることを得やと。然れば觀智具足の人の回向のみ利益掲焉なるべし。
問、經文には上品上生の言なし。然に今上品上生の四字を加へたることは何ぞや。
答、位補處と説玉へば上品上生なること明けし。故に意を得て加る是我解の意なり。無量壽の軌に曰く、極楽世界の上品上生に生れて初地を得と。理趣釈經に曰く、「きりく」字の一字の真言十萬遍を誦すれば極楽世界の上品上生に生ずと。不空羂索經に曰く、一字の真言を誦すれば過現の諸の悪重罪を滅して極楽浄土に往生して極喜地に住すと。處處の經文皆上品上生と説り。今の往生何ぞ上品上生ならざんや。况や位在補處とあれば等覚の位に登るが故に、上品上生の中に於て猶又上上品なりと知べし。觀智具足の人の回向憑(たのも)しいかな。
問、若然らば今日の凡夫の無智但信の念誦は利益なかるべしや。
答、観智なくとも一心に佛語を信じて誦せば功徳同等なるべし。如何となれば但信は
即ち白浄信心の菩提心なり。又誦するところの呪、結ぶところの印、三密の行體頓覚成佛神通の寶輅なるが故に。利益同じかるべし。故に金剛頂経には真言の正機を出すとして浄心決定者と説き、菩提心論には勇鋭無惑といへり。唯信じて疑を作すべからず。疑なくんば經説の如き利益一も空しからざらん。彼小乗の摩訶盧比丘の少年の調戯を信じて四果を獲得し但信の優婆夷の摩訶羅の悲痛の言を信敬して初果を證せしこと、譬喩經に見たり。况や法佛自内證の教法信にあらずんば入ることあたはじ。毛頭も疑を生ずべからず。
問、此の陀羅尼を書して塔中に納むるには漢字を用んや、梵字を用んや。若梵字にて書ならば在家の人は恐れ多し。如何。
答、必ず梵字にて書べし。沐浴清浄にし浄衣を著、新しき筆を以て清浄に書して納めよ。上代は如法經とて法華、華厳等を書寫するもい膠の入たる墨を用井ず。如法清浄に書寫せることあり。今は其法式断て知る人なし。悲いかな今塔中に納る陀羅尼は必ず如法に梵字書すべきなり。膠の入ざる墨を用井ば倍よからん。在家の人、梵字を書すること恐ありといへども天竺の人は道俗皆通用するが故に、今陀羅尼を書するに何ぞ恐るべきや。又此陀羅尼文字は一一に皆佛菩薩の種子なるが故に漢字を用ゆべからず。秘蔵記に曰く、梵字は本有の理より起り、漢字は妄想より起る。所以に梵字は正、漢字は邪なりと。又大疏に曰く本不生を以ての故に「あ」字形を現ず。離作業を以ての故に「きゃ」字形を現ずと。又大日経に曰く、此真言の相は一切の諸佛の所作にもあらず、他をして作さしめず。亦随喜せず。何を以ての故に。是の諸法は法是の如くなるが故に。若は諸の如来出現し玉ふ時にも、如来の出玉ざる時にも、諸法法尒として是の如く住す。謂く諸の真言なり。真言は法尒として是の如く住す。謂く諸の真言なり。真言は法尒なるが故にと。又、疏の七に曰く、此真言の相は聲字皆常なり。常の故に流せず。變易あることなく、法尒として是の如し。造作所成にあらずと(已上)。是本有の文字にして漢字の因縁假有の如くならざれば、一字を書し一字を誦するに無邊の利益を得るなり。故に大師の字母釈に曰く、此悉曇章は本有自然真実不變常住の字なり。三世の諸佛皆此字を用て説法し玉ふ。是を聖語と名く。自餘の聲字(大唐日本等の邊國の文字なり)は是則ち凡語なり。法然の道理にあらず。皆随類の字語のみ。若彼の言語に随順する、是を妄語と名け、亦の功徳を得と(已上)。梵字は佛菩薩諸天用ゆるところの故に陀羅尼を誦すれば直に佛語を誦し梵字を書ば直に佛語を書する故に、功徳廣大なり。或僧能く狐の著たるを治す。或時一人の女人に野干著きて大に狂ひければ、此僧此の女を重重に縛るといへども頓て解ぬ。又念を入て能能縛れども猶能く解ければ、此僧心得て後には縄に封を付て印文の「しり」字を書ければ、狐とくことを得ざりき。又野干、人の身中に入り、或は肩背胸腹脇等に住し、隆起なりて餅を置るが如くなるに、其上に指にて「うん」字を書すれば忽に逃さると。是梵字の不思議の利益なり。
問、古来此の寶筐印塔を建て利益を得たる験ありや。
答、多くあるべしといへども日本の風俗筆記することなければ聞ゆること希なり。榮海僧正(勧修寺の慈尊院に住玉ふ人)の真言傳に二条を記せり。大唐の第二十代宣宗皇帝の時に唐の運衰へて天下大に亂れ諸侯各兵を起して互相に戦ふて五代十國あり。中にも朱全忠威猛にして自立して國を大梁と号す。十七年にして亡び、唐の南平王立つ。十三年にして亡びて後晋の高祖立つ。十一年にして亡びて後漢の高祖立つ。四年にして亡びて、後周の大祖立つ。九年にして亡びて、大宋の太祖皇帝立て天下を大に定る。纔に四十四年の間に梁・唐・晋・漢・周の五代あり。事は五代史に詳かなり(日本の醍醐天皇の延喜四年より村上天皇の天徳四年までの間なり)。唐の末に錢鏐と云人あり。杭州臨安の人あんり。武略あり。唐の昭宗の乾寧二年に菫昌を伐て功あるに依て杭州の主となり、大復二年に呉越王に封ぜられて五代國を保つ。深く佛法を信じて幼子を出家せしめ、佛舎利を供養じ、又四明の沙門、子麟を高麗百濟日本の諸國に遣して天台の教法を求めし人なり。其子文穆王元瓘其子は忠獻王仁佐と云。其次は佐が弟、弘倧立こと一年にして廃せられ、其次は元瓘が子忠懿王錢弘倧なり。立て大に勇略あり。又篤く佛法に帰依し智覚延壽禅師を請じて栄明寺に居せしめて信敬せり。晋漢の開運乾祐の間、天下飢饉して黄巾の賊黨邊國を
侵し掠め都に攻め入んとす。時に錢弘倧大将として凶徒を伐ち九年が間に合戦すること二十四度、首を切ること五万餘なり。周の顕徳元年の春、天下彌鍒て蟻の如くに集り、蜂の如くに起る。錢弘倧、士卒を招き集めて凶賊を伐ち、北るを追て汶水の邊に至るに洪水漲り高して舟なければ賊徒惆章惶怖して各徒わたりせんとして悉く水に溺れたるを得たりや。賢しと皆射殺しぬれば死人幾千萬と云ことを知らず。汶水も流得ざるばかりなり。其後錢弘倧威勢彌盛なり。然れども殺生の報に依て程なく重病を受て常に狂気して曰く、刀剣胸を刺猛火身を纏ひ焼と。展展反側して手を擧て虚空を掻き苦み悲むの消息目のあてられぬ次第になり、爰に一の僧あり来り教へて曰く、公願くは寶筐印塔を造り經を書て中に納て供養せば罪を滅し苦を免れて福壽長遠ならんと。弘倧苦痛の中に信心を生じて此願を立ること両三度。合掌し懺悔せしかば忽に苦痛止て本心になりぬ。依て大に歓喜感嘆して阿育王の昔の事を思て高さ九寸ばかりに、八萬四千の寶塔を鋳て各此經を納め供養せしかば、息災堅固にして壽命長遠なりといへり。其比は本朝の人王六十二代村上天皇天徳應和の時代なり。
應和元年の春、道喜と云僧あり。鎮西に至り肥前の大守に謁するに大守唐物なりとて、高さ九寸あまりの唐金の寶塔を出して見せしむ。四面に佛菩薩の形像を鋳付たり。四の角に徳宇(天蓋)ありて、上に龕あり。龕の形馬の如し。内に又佛菩薩の形あり。大さ棗の核の如し。捧げ持して是を見るに塔の中より一の嚢落ぬ。開き見れば一巻の小經あり。其端に注して曰く、天下の都元帥呉越國の王錢弘倧印寫して寶筐印經八萬四千巻を寶塔の中に安じ供養し回向し已終。顕徳三年丙辰歳記云々。文字微細にして老眼見がたければ一りの僧を請じて大宇に寫さしめて是を見に文字脱落せるが讀がたしといへども粗經の趣を見て感涙を流し、弘倧の意願を尋るに大守の曰く、當國の沙門日延と云者あり。天慶年中に入唐して天暦の末に帰り来り、唐物なればとて此塔を予に付属して呉越王の病気に依て八萬四千の塔を造りたる由を語ると。爰に道喜身命を捨て正本を尋子求めて普く間に江の都禅寂寺にして此經を得て、両本校合して得失を勘へて正本とし、日日に讀誦して倦ことなし。夜は終暁陀羅尼を誦して眠ず。三个月を經にければ空中に音あって告て曰く、汝此經に於て至心に渇仰す、此經に両譯あり。汝が持するところの本は先譯なり。多く梵本を略けり。其後の譯は具足せり。其の本は伊豆國の禅院にあり。天下に二本なし。我常に二十八部藥叉大将と共に彼經を守護す。亦汝が精誠を感じて常に汝が邊に在て守護し、又此の事を告と。時に道喜大に悦び即ち伊豆國司の方に縁あるに依て彼の經を書寫して送り恵まれよと書柬をつかはす。康保二年四月十三日に彼經を書寫して道喜に送り輿ふ。其の文を讀に久功能甚深妙絶なれば寝食を忘れて是を讀誦して怠ることなし。康保二年乙丑七月二十六日甲午、釈の道喜記すと。私に案ずるに貞元開元の録に載られたるは五紙六紙なり。現流丹布の本は陀羅尼の功能の文廣多なり。疑らくは道喜感得の經は現流布の本ならん。或は開元の録に載られたるは金剛智の譯。現本は不空の譯ならんか。金剛智翻譯し玉はずんば、開元録に載ることあるべからず。然に不空再たび譯し玉ふが故に開元録にも不空の譯と註せるか。空中に音あって道喜に告玉へるは金剛手菩薩なるべし。經の流通分に曰く、佛此經を以て金剛手に付属し玉ふに金剛手の言く、我幸に世尊の付属を蒙る。我等世尊深重の恩徳を報じ奉らんが為に晝夜に護持して一切世間に流布し宣揚せん。若衆生有て此經を書寫し受持し憶念して断ぜしめずんば、我等帝釈梵天四天王龍神八部を指麾き催して晝夜に其人を守護して暫くも捨離じといへり。貴いかな道喜深信の故に經の正本を感得せること。又沙石集に曰く、京都東山観勝寺の大圓坊の上人、寶筐印陀羅尼の効験多く聞ゆる中にあ若き女房の物狂なりけるを此陀羅尼を誦して加持せられけるに、物を吐出したるを見ば乃ち文字八字書て中に病者の名を書り。病物さめざめと泣て申しけるは、あな心うや、佛法は人を助け玉ふとこそ聴に我をかく陀羅尼の責玉ふ事よ。我は某乙と云者なり、人を呪詛して世を渡り侍るなり。此女の姉御前の夫を、此女臥取玉へる故に姉御前の呪詛してくれよと仰せらるるに依て呪詛したれば此符を責出し玉ふ事なさけなし。我身何として身も過候べきとて泣けり。其の座にて陀羅尼誦したる老僧の話りなりけり。其の女は狂病忽ちに本復せりと。此大圓上人は高徳の人なり。釈書の五に傳あり。無住和尚同時の人なれば沙石集に載せられたるなり。又和州忍辱山の僧は此の陀羅尼を誦して極楽浄土の中品に往生し、叡山の児は死の後に此經を書寫して追福し玉へと来り告ふ料り知ぬ。其の餘の霊験多からんことを。惜いかな今の世に傳はらざること・但し其験世に傳はらずとも陀羅尼の功能は減るべからざれば信じて念誦すべきなり。
問。今世間に寶筐印塔を建る人も多く、陀羅尼を念誦する人も少からず。然るに經説の如き効験を得たる人なきことは何ぞや。
答、今の世の人、真言を持誦すれども効験なきは五種の因縁あり。一には信心少なきが故に。二には破戒無慚の故に。三には支分不具足の故に。四には明師に逢て傳受せざるが故に。五には雑行雑修不精進の故なり。初に信心少き故に験なしと者、信は道の元、功徳の母たり。苟も浄信心なくば念佛誦經坐禅観法、年を積。功を費すとも皆魔業となること楞厳経の説の如し。何ぞ但誦呪のみならんや。殊に真言の正機は浄信決定の人を取るが故に、信心なくんば唯結縁の分際なり。豈悉地を得ことあらんや。二に破戒無慚の故にと者、密教は在家出家に通じて修行すべしといへども經軌の中に在家の人ならば日日に八斎戒を受持して比丘の威儀の如くせよといへり。今時の人は道俗共に破戒無戒にして酒肉五辛を喫ひ、貪瞋嫉妬を放にす。楞厳經に曰く、五辛を食する者は十二部經を讀といへども利益なし。天神遠く去り悪鬼脣を舐ると。况や媱を行じ肉を嗜みて無慚らば氷を刻んで火を求め角を搆て乳を覓るが如し。金剛瞋をなして却て罰を蒙るべし。寧ろ効験を得んや。
問、然らば凖提の獨部別行の法等は如何。
答、既に獨部と云、餘に通ぜざること明けし。是如来の深重の大悲不思議の方便の故に在家の一類の為に説玉ふなり。普く一切に示すにはあたず。大佛頂の不持齋者是持齋、不持戒者名持戒の文、如意輪の軌、大威徳の軌等の文も亦一類怯弱の者に通ぜざる文多し。濫ずべからず。
問、在家なればとて何ぞ媱酒肉を許し玉はんや。
答、通屈重重なり。卒尒に辨じがたし。維摩経に曰く、非道を行じて佛道に通達すと。有眼の人にあらずんば知るべからず。出家の人は皆二百五十の律儀缺ることなく、瑜伽梵綱の大戒、佛性三昧耶戒少しも違犯あるべからず。大日経に曰く、尸羅浄無缺と。高祖の御遺誡に曰く、顕密の二戒堅固に受持して浄戒犯ずることなかれ、若し故に犯せば佛子にあらず、金剛子にあらず、我弟子にあらず、我も亦彼が師にあらず、泥團折木と何ぞ異ならんと、是なり。今世に一類の人あり。戒律は小乗の法なり。大乗の人は受持すべからずとをもへり。忽に祖師の御遺誡に違することを知ず。愚かなるにあらずや。三に支分不具足の故にと者、擇地造壇召請結界・沐浴新衣・辟除障者、六種の供具を辨じ念珠五股蓮華寶珠刀劍輪索等の成就物を造るに各法式あり。今の人は是等の法則を知ざれば何ぞ輒く成就せんや。四には明師に逢て傳受せざる故にと者、心地観經に曰く、菩提の妙果成じがたきにあらず。真の善知識實に逢がたければなりと。真言法は阿闍梨に逢て三摩耶戒を受灌頂道場に入て後に、宿習有縁の尊を知て其の法を修行すれば成就を得。若し阿闍梨の許しを受ずして自ら擅に柱誦すれば越三昧耶の罪を得て地獄に堕すといへり。今の人或は阿闍梨に逢て授るといへども阿闍梨明に持誦の法式等を教ざれば、或は邪見に入り、或は少しき功を得て慢心を生じて魔鬼に便りを得られて、亂心して一生の功を空くする事有。「故に大日経・蘓悉地經・蘓婆呼童子經等に皆好同伴を得て修行せよと具に因縁を説り。縷く述ることあたはず。五に雑行雑修不精進の故にと者、一行三昧は如来の讃嘆し玉へるところなり(大寶積經の説)。或は観音文殊準胝金剛手、或は大佛頂大隨求尊勝寶筐印何れなりとも有縁の尊一尊に功を入るる時は、必ず悉地を得べし。譬ば木を攢で火を求に力を盡して急に攢む時は火必出つ゛。若し緩くもみしばしば休むときは火出ることなきが如し。今の人は心決定せざるが故に、或は禅を聞て一月か二月坐禅しても面白くもなければ又、法華を聞て持經の功廣大なりとて五部七部讀誦すれども頓て退屈して又念佛を唱ふ。此れもあまりに文盲なればとて又秘密神呪を持す。神呪の中にも、或時は大佛頂陀羅尼を誦し、或時は大随求を誦し、或は尊勝陀羅尼、或は寶筐印陀羅尼、大黒、毘沙門、辨才天、吉祥天、歓喜天などの真言取交へて念誦し、是も退屈なれば又念佛三昧となる。是の如く心決定せざれば何ぞ効験を得ことあらんや。又法華経高原穿鑿の譬の心によって明さば、人あり水に渇て井を鑿て水を求るに一尺二尺乃至五尺掘とも水出ざれば、又餘の處を掘ること二尺三尺すれども石あり。岩あって水なければ又餘の處を二三尺乃至七尺八尺まで掘とも終に水出ざれば後には退屈して牛の跡のたまり水の流れて濁れるを少しばかり掬して飲み且く渇を止めて甘露を飲がごとく思へるが如し。唯二日三日も初めの處を掘て一丈二丈にも深く掘らば清潔の水を得て、何ほど酌て飲み用ゆとも盡ることなかるべきなり。真言を持誦する人、初より寶筐印陀羅尼を正行とし、餘の真言轉讀大乗を助行として十年二十年三十年の功を積ば大圓上人の如き効験を得んこと掌を指が如くならん。役の行者は常に孔雀明王の呪を持して悉地を得、越智の泰澄は常に十一面観音の呪を持す。大唐の祟慧禅師は常に大佛頂陀羅尼を誦じて神通を得玉へり。
此比(このごろ)江戸に一りの尼あり。信心堅固にして或明師に随て受明灌頂を受、菩薩戒を受持して沙彌尼となり。谷中に廜(い)ほりを結で禁足して日日に行法すること一座十餘年の間に兼て大佛頂陀羅尼を誦ずること十三萬餘遍、苦修知ぬべし。寶永五年三月中旬少し悩むことあれども行法は怠たらず。廿日になりて召使の尼を呼で曰く、明日は高祖御入定の日なり、別して佛前を荘厳し香華を備よ。我行法せば長座あんるべし。此方より呼ずんば来り見ことなかれと。即ち齋戒沐浴新衣して道場に入り例の如く修法して夜に入ども立ず。侍尼約を守て見ざれば廿一日の朝侍尼を呼で曰く、後供養の華鬘萎めり備へ替よと。侍尼即ち新く好き華を盛替ふ。久しくして後に其道場を出ざるを怪しみて私に見れば二手に華鬘の器を擎ながら寂然として死しぬ。末代にはありがたき臨終なり。實に行法の功力、大佛頂陀羅尼の神験なり。又一りの信士あり。毎日阿彌陀の大呪を念誦すること一千遍五七年の後に常に心月輪の現ぜるを見る。儀軌に説く、此陀羅尼を一萬遍を誦すれば不廃忘菩提心三昧地を獲得して菩提心身中に顕現して皎潔圓明なること月の如しと、是なり。是の如く勇猛に三三昧を修行せば誰か悉地を得ざらんや。
問、効験なき五種の因縁道理明著なり。然れば我等如きの凡夫は密教の機にてはなきなり。破戒無慚不信懈怠にして偶真言を誦して罪障消滅を祈れども妄想のみにして真実の信心なければ効なきこと尤なり。或人の歌に
「祈りても効しなきこそ験しなれ、己が心の信なければ」と、又或人の述懐の歌に
「難波がた何かよからん心にも身にもあしかる業をのみして」
と悲いかな日夜に悪業を造る。何か善きことあらんや。祈りて験のなきは却て験なり。譬へば瓦を磨で鏡とならんことを求め、沙を蒸て飯と作んことを期するが如し。豈得るの理あらんや。しからば一向に万事を打捨南無阿弥陀仏にて一生を過さんと思ば如何。
答、念仏も勇猛に勤むること賀古の教真、深江の法明房の如くならば一段殊勝の行なり。唯放逸増長して等閑に口称するばかりならば益少かるべし。不信心なりとも神呪を誦持して滅罪生善を祈らば即ち一分の信あるなり。何ぞ自ら兼て珍寶を朽すべけんや、故にある人の歌に
「實(まこと)なき己が心を法然に祈れば信(まこと)ありあけの月」
と六度經等の説、皆末世の極重悪人の為に陀羅尼蔵を説玉ふと見たり。今經の文にも心なき畜生すら塔の影に當り、或は場の草を踏に皆佛家に生ず。況や人として塔の形を見、影にあたり、名を聞ものは、所求意の如くにして後には極楽浄土に生ずといへり。増て信心なくとも毎日七遍二七遍を誦せば功徳無量にして必ず後には浄土に往生すべし。
夫濁世末代の人は道俗男女、士農工商、儒釈、巫医、一切世間皆同じく信なし。最勝王經に曰く、國の大臣謟佞なれば風雨時に順ぜず。正法隠没し衆生に光色なく、飢饉し疫癘流行し五穀菓實滋味少く、衆生の勢力盡く衰微し、力なく勇勢なく、衆苦其身を逼べしと。佛蔵經に曰く、末世の第一精進の比丘も、佛在世の第一懈怠の比丘に及ばず。持戒威儀智慧相比することを得ずと。今時の禅者、口には見性成佛を談ずといへども真実に坐禅する人は少にして心は羝羊の凡夫に同じ。宛も糞を刻んで栴檀香の馨を求るが如し。天台法華の行者、観心誦経修習止観の人は麟角よりも稀に、空腹高心非法濫行の輩は龍鱗よりも多し。名字観行夢にも見ず。況や相似即をや。持律者と号する人、古の元照律師、興正菩薩の爪の端ほどをも學得ず。唖羊蝙蝠の識今に當れり。屍を焼る残木の復用に中らざるが如し。一向専念の徒、坐禅誦経持戒誦呪を雑行なりとて嫌ひ捨れども、殺生婬妄飲酒食肉の悪行をば少しも恐れず、顧みず、三心四修の行も具らず。一心不亂の文にも乖きぬれば、懈慢國の生、猶及vびがたけれ。況や清泰の下品に往生すべけんや。秘密真言の阿闍梨も秘經儀軌の奥義を傳ず。即身成佛の妙道を修せず。徒らに月待日待庚申待帯加持湯加持病者加持屋鎮地鎮星祭り御符守護年八卦なんど云ことを知るを能き阿闍梨なりと心得て、研石を拾て家中に収めたる人すら少なり。豈灰水鎣拭の者あらんや。悲いかな悲いかな自ら省みて慚べし恐るべし。是非に及ばぬ末法悪世なり。是に於て一轉して思へば諸宗共に結縁せんよりは法佛法身の最上乗教に結縁すべし。逆縁も亦皆成佛すべしと説が故なり。故に不空羂索經に曰く、勝他嫉妬謟誑の心を以て真言を受、或は毀謗し軽笑する者も亦勝利を得ること譬へば人あって悪心を以て栴檀香沉水香の林に入て種種に香を罵、香を誹謗じて香気なしと云、或は香木を截棄擣砕て抹になさん。然れども其香気其人の身に薫じて久しく芬馥しきが如し。設ひ信心なくとも此の陀羅尼を誦持すれば未来必ず戒定慧解脱の香、威徳無畏福資糧等の妙香を得べしと(取意)。故に興教大師の曰く、疑謗の逆縁猶権教の
思へば諸戒行に勝れり。況や信歸の順因何ぞ顕末の智観に比せんと。又經の本文に曰く、常に此の陀羅尼を誦する人と晤話(ものがたり)し或は只其の靣を見、或は衣の風に觸人も罪障消滅して所願圓滿すと。又眼力の及ぶところの生
類みな成佛することを得と。心なき畜生すら解脱を得。況や一念の信心あって此呪を誦せん人、豈成佛せざらんや。
熟惟(つらつらおもんみる)みれば實に憑いかな貴いかな、一切皆結縁の分際あるに頓覚成佛の密教に結縁すること幸にあらずや。況や四重八重五無間罪を造り無間地獄に堕て苦を受ること間なからんにも、此の陀羅尼を七遍誦して回向すれば洋銅熱鐵は忽ちに變じて清涼の池となり、蓮華生じて足を承て寶蓋頭上に覆ひ、其の蓮華飛んで極楽世界に至り上品上生に生れて補處の位に至ると。又光明真言加持の土砂を墓處に散じ屍骸の上に散ずれば無縁の衆生も速かに浄土の往生すと。此の二種の勝利は顕教に未だ説玉はざるところなり。されば亡者の追福回向成佛の要道は唯此の密教にあり。悦ぶべし貴むべし。故に康頼の寶物集に古の人此陀羅尼の効功能を頼みたる歌を載て曰く、今日開く寶の筐の印(をし)てこそ西へ行くべきしるしなりけれ、と。昔の人既にかくの如く此陀羅尼を信仰せり。い今の人何ぞ信受せざらんや。人の為に回向するすら能く浄土に往生せしむ、況や自ら常に念誦せん人をや。況や一行三昧となりて二十年三十年の功を積まん人は經中の所説の如く無量無邊の功徳を得べきこと何の疑かあらん。貴とんでも猶貴むべきは秘密最上真言の教法、矚へても憑むべきは只此の陀羅尼の追福回向光明真言加持土砂の結縁利益なり。
寶筐印經秘略釈巻下