「精進の荘厳のゆえに能く魔怨を破して仏の法蔵に入る」とは、精は勢だすこと、進は絶え間なしにすすむこと。何年でも何百年でも続いて怠らぬのが進である。「魔怨」というは魔は天魔、人魔、煩悩魔、蘊魔、死魔という、四通りも五通りもある。天魔は第六天の魔王が悪鬼の類を使ふて人の善根功徳を妨げる。魔は梵に殺者(マーラというて善心を殺してしまうものをいう。
「定の荘厳のゆえに能く念慧と慚愧と軽安とを生ず」とは定は禅定で、禅定をして心を沈着す。一境というて心を一つにする。阿字本不生というて心を一に寄すと他のことを思わぬ。本来無一物なら無一物、直指人心見成成仏というて我が心の本性に心を寄せて他のことを思わぬ。つまり沈着のこと。「念慧」とは定の境涯に心を寄せる。「慚愧」とは自ら恥ずるのが「慚」、他人に向かって恥ずるのが「愧」、あるいはまた天にむかって恥ずるのを「慚」、地にむかって恥ずるのを「愧」というとも古来解釈しておる。「定」を修すると念慧を生じたうえにこの慚愧心を生ずる。なおその上に軽安を生ずると説いてある。「軽安」というのはなんとも苦痛を離れてしまったきわめて安楽な心の軽々として安安と思う心である。定の荘厳より生ずる功徳は実にかくのごとく念慧と慚愧と軽安とを得るのである。
「定の荘厳のゆえに能く念慧と慚愧と軽安とを生ず」とは定は禅定で、禅定をして心を沈着す。一境というて心を一つにする。阿字本不生というて心を一に寄すと他のことを思わぬ。本来無一物なら無一物、直指人心見成成仏というて我が心の本性に心を寄せて他のことを思わぬ。つまり沈着のこと。「念慧」とは定の境涯に心を寄せる。「慚愧」とは自ら恥ずるのが「慚」、他人に向かって恥ずるのが「愧」、あるいはまた天にむかって恥ずるのを「慚」、地にむかって恥ずるのを「愧」というとも古来解釈しておる。「定」を修すると念慧を生じたうえにこの慚愧心を生ずる。なおその上に軽安を生ずると説いてある。「軽安」というのはなんとも苦痛を離れてしまったきわめて安楽な心の軽々として安安と思う心である。定の荘厳より生ずる功徳は実にかくのごとく念慧と慚愧と軽安とを得るのである。