福聚講

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成實論卷第八三報業品第一百四

2020-11-20 | 諸経

成實論卷第八・訶梨跋摩造・姚秦三藏鳩摩羅什譯

  三報業品第一百四

問曰。經中に佛三種業を説く、現報・生報・後報業なり。何者か是耶。

答曰。若し此の身に業を造り即ち此に身に受く、是を名けて現報。此の世に業を造り、次で來世に受くるを是を名けて生報。此の世に業を造り次の世を過ぎて受くる、是を名けて後報。次の世を過ぎて受くる故に名けて後と為す。

問曰。中陰の報業は何の處に在りて受くるや。

答曰。二處に受くる。次第の中陰の業は生報の處に在りて受く。生に差別あるを以て中陰と名ける故に、餘の中陰の業は後報の處に在りて受くる。

問曰。是の三種業は報定れりと為すや。世定れるや。

答曰。有人の言はく、報定まれりと。現報業は必ず現に受報す。餘の二も亦た爾なり。此の言ありと雖も、是の義は然らず。所以者何。若し爾らば但だ五逆のみ名けて定報と為すに非ず、而も「六足阿毘曇」(集異門足論、法蘊足論、施設(足)論、識身足論、界身足論、品類足論の6論の総称)に説く、「五逆は是れ定報なり」と。又「鹽兩經」中に亦た不定を説くに、業の地獄果報を受くべきに、是の人、身戒心慧を修する故に能く現に報を受く。是の故に此の三種の業は應當に世定まるべし、現報業は必ずしも現に受けず、若し受くれば則ち應に現に受くべし、餘處には非ず。餘の二も亦た如是なり。

問曰。何等の業か能く現報を受くべき。

答曰。有人言、利疾なる業は現報を受く。佛、諸聖人及び父母等に於いて善惡業を起こすが如し。是則ち現報なり。若し業、利ならずして而も重きは是れ則ち生報(来世に受ける業)なり。五逆等の如し。亦は利、亦は重なれば則ち後報を受く、轉輪王の業、若しくは菩薩業の如し。又た有る人の言く、是の三種業は願に随って報を得る。若し業願は今世に受くならば、是れ即ち現受なり。末利夫人の自食を以て佛に分施し、願ふて現世に王夫人と為るが如し。餘の二業も亦た如是なり。業の熟するに随って則ち先ず受く。

問曰。過去の業を云何んが熟と名くや。

答曰。重相を具足する是を名けて熟となす。

問曰。頗もし一念に業を起こし次念に報を受くことありや。

答曰。無也。漸次に當に受くべし。種の漸次に牙(芽)を生ずるがごとし。業法も如是なり。問曰。若し胎中に処し及び睡眠狂亂等の人、能く業を集むるや不や。

答曰。此等も思有らば則ち能く業を集む。但し具足せざのみ。

問曰。若し此の地の欲を離れて能く此の地の業を起こすや不や。

答曰。我心ある人は皆な此の業を集む。若し我心を離れば則ち復た集めず。

問曰。阿羅漢も亦た禮敬修福等あり。此業何故に集めざるや。

答曰。衆生心を以ての故に諸業を則ち集む。阿羅漢は我心無きが故に諸業を集めず。又阿羅

漢心は無漏なり。無漏心の者は諸業を集めず。又經中説く、罪福業を斷ずるを阿羅漢と名くと。是の人、罪業福業及び不動業を集めず。故業は受け畢んぬ、新業は造らず。

問曰。學人は諸業を集むるや不や。

答曰。亦た集めざる也。所以者何。經に説く、是の人は諸業を散壞し、不積不集滅不然等、と。有る論師の言く、是の學人、我慢あり故に諸業亦た集む、と。但だ無我の智力を以てかならずしも報を受けず、と。

問曰。是の三種の業は何の界においてか造るべきや。

答曰。三界中の一切處に造るべし。

問曰。不定業(いつ出るかわからない業)は有や無や。

答曰。有。若し業の或は現報、或は生報、或は後報、是を名けて不定といふ。如是の業多し。問曰。若し此の三種の業を知れば何の利を得るや。

答曰。若し能く是の三種の業を分別すれば則ち正見を生ず。所以者何。現見するに惡行の者は而も富樂を受け、善者は苦を受る有り。中において或は邪見を生じ、善惡無報と謂ふ。若し此の三業の差別を知れば則ち正見を得る。偈に説く如し。惡を行じて樂を見るを惡未だ熟せずと為す。其の惡熟するに至れば自ら苦を受るを見る。善を行じて苦を見るを善未だ熟せずと為す。其の善熟さば自ら樂を受るを見る。又、「分別大業經」に説く、「殺を斷ぜざる者の天上に生ずることを得るは、是の人、若し先世に福あれば將に命終時に強き善心を發す」と。能く如是に知らば則ち正見を生ず。是の故に應に此三種の業相を知るべし。

 

 

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