地蔵菩薩三国霊験記 10/14巻の5/10
五、恵心僧都妹蘇りたまふ事(沙石集巻第五話「地蔵、人を看病し給ふ事」にあり)
山門恵心僧都妹安養の尼(953-1034。 平安時代中期の尼僧。願西尼。源信の妹。天台宗。吉野山にすんで日夜念仏に専念し,毎月8日に地蔵講をおこなった。西にむかって端座したまま入滅したという。長元7年8月25日死去。82歳。安養尼ともいう。)、絶入し玉ふ時、修学院僧正勝算(天台僧。正暦4年の円仁,円珍両門徒対立の際,房を焼かれて比叡山から逃れ,門弟と共に修学院に居。有験の僧として,一条天皇、中宮藤原彰子,藤原頼通らの病気を加持で治療。源信の妹安養尼の危篤を救ったという話も伝わる。臨終まぎわに智観の号を天皇から賜った)火界の呪(ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン)を誦し、僧都地蔵の宝号を唱へらる。蘇生して申しけるは、男共四五人具して罷りつるを、若き僧のこひ給ひつれども猶にくげにをひたてて行くを此の僧われにこそおしむとも是非のいはずとり返さん者のあらんずるをとの給程にびんずらゆひたる童子の二人白杖を持ちたるが男どもをひはらひて取り返して若き僧にとらせ給つれば、さて具して皈り給と思ていきいで侍ると云けり。されば建仁寺の本願僧正の口傳に、地不の決と云書あり(雑談集巻六「地蔵の事」「故建仁寺の本願僧正の口決に地不決と云書之有り。地蔵と不動との方便はなれて、出離不可。地蔵は大日の柔軟の慈悲の至極母の如し、不動は大日の智慧降伏の至極父の如し。されば不動は斧の如く、地蔵は釜の如し。互いに一徳を主どって衆徳を隠すなるべし。此の義一往勝劣あるべからざる歟。六趣の苦患に沈み四魔障の難に転ぜられなからばいかが頓に佛道に入るべき。二尊の方便の後、諸尊は助給ふべし。」)地蔵と不動との方便はなれて、出離す可からず。地蔵は大日の柔軟の慈悲の至極母の如く、不動は大日の智慧降伏の至極父の如し。されば不動は斧の如く、地蔵は釜の如し。互いに一徳をつかさどりて衆徳を隠し玉ふなるべし。今の事よくよく口傳にかなへり。又或女人廿五歳、美濃國原見郡鶉郷と云所(岐阜市南部)にありけるが、病死しけり。臨終不快、仍って二人の親僧神呪を誦する事二時ばかり、蘇生して云く、青く赤き二人の鬼左右の手を取り行く。僧の乞ひ給ふに許さず。僧の云く、我にをしmじゅとも取り反す者のあるべし、とて念誦を手にもてとてたびけり。頂はげたる童子とりかへしてこの僧にたびけると思て生き出たり。左右のうでつれみくろくくぼかりけり。身終るとき、地蔵の宝号をとなへて終りけり。本来地蔵を憑みたりける定業なりけるが、一年ばかりのびたりけるなるべし。又遠江國伊左郡奥山(浜松市)に田の草と云所あり。鹿猿などの多き山里にて粟畠作る事あれども、みな食れうしなひむなしくすることなるに、王大夫と云男、古堂に地蔵と観音のをはしますに今季の粟、猿にも鹿にもくはせで守りてたびたらば、秋粟餅してまいらせんとなをざりに申したりける。誠にすこしも鹿猿むはず、其外をば例の如し。この事うちわすれたりけるに、冬の比(ころ)夢にわかき僧二人をはしまして、何に粟まぼりて獣にくはせずは餅してくれふといひしに、まぼりてくはせずに我をばすかしたるぞと仰せらるとみて大きに「おどろきて婆にかたりやがていそぎ餅してまいらせけり。この事かたり餅も地頭の所へ持ち来てすすめける。かの男も見、餅もくひたる地頭の女の尼公の物語なり。佛はただ人にたがへずふるまはせ給ふなり。近き不思議なり。
又或祖父、説法に地蔵の毎日晨朝に入定し家の門ごとにめぐりて人をたすけ給ふとしけるを聞て信心深くしてをがみたてまつらむ志にて、晨朝ごとに門をまぼりけり。功つもりて或時とをらせ給ふをがみていよいよ信心堅くして常にいでて門をまぼりける。うばきはめたる無道心の不信の者にて、この地蔵の所詮なく朝あるきし給てさむきの祖父ををこし給ふと恨みに思ひ奉りて祖に問てや給へ、地蔵はいつこをとほり給と云へば、門の脇をとをらせ給と云。恨みふかくしてならはし奉らんと思て累(わな)をかけておほじに我もをがみ奉りたし、をほじは只ね給へとて杖とり持ちていまだくらかりける暁、ねらひけるに、物のかかりてみへければ、あは地蔵よと思て能々捕へ奉りて打たんとしけるほどに隣の人食犬なりけり。手も腕も足も能々かみくわれて死々やみふぃしたりけり。心わろければおのずから罰をかうるならひなり。
又此の比、西國にあきなひのみしてあるく男の妻、地蔵を信じて独り臥してさびしきままに暁ごとに宝号をとなへける。功つもりて時々地蔵をはしまして出させ給ひけり。隣の者これをみて、地蔵とは思ひよらで男の返り来れるに女房の許へ若き僧のかよひて時々暁いずる事ありと云ければ、口惜しく思て弓矢とりもちて、ねらひけり。案の如く出て給ひけるを、よくひきて背に矢を射たてたりけり。僧のにぐるをやがて血をとめてをひければ山の方へ逃げけり。堂の内へにげ入るをみれば、地蔵にてをはしましけり。これを見奉りてやがて弓矢を折り本鳥(もとどり)を切りて入道に成り、妻同じく呼びて見せてともに出家して一すじに地蔵の行人にぞなりける。かの婆には似ざりけり。古傳に見へたり。地蔵の行者にて侍るままにつぶさに記すものなり。事あさきとて疑をなし謗誹するともがらは現の罪をうべきものなり。