天皇陛下の先祖供養
我が国は先祖供養が国の基盤であり骨格であることを徐々に書いていますが、今回は天皇陛下の先祖供養についてとりあえず手元にある資料で書いておきます。
・宮中神事そのものが先祖供養・祖先崇拝の儀式です。
春分の日 の春季皇霊祭、秋分の日の 秋季皇霊祭等はその名の通り皇霊をおまつりするものですし、神嘗祭は天皇陛下が五穀を日本神話の様々な神々に捧げて豊作を感謝するもの
新嘗祭は初穂を天照大神に捧げるというものですからこれらはすべて先祖供養と言えます。
・そもそも奈良時代には国忌を定めて、先帝の没した日に国として追善供養をおこなってきました。687年(持統帝)の天武天皇の一周忌の国忌の斎が最初で翌年には国忌に必ず衆僧に食事を供養する斎会を設けることを定め(日本書紀巻三十「国忌の日、必ず斎すべし」)702年(大宝2)には国忌の日に政務を休むことを制度化しし是が逐次拡大していきます。
・法華経千部書写供養もされています。天平二〇年(七四八年)七月、聖武天皇が先帝であった元正(げんしょう)天皇の崩御に際し、法華経千部を書写して供養されたことに始まります。(『続日本紀』天平二十年(七四八)七月丙戌【十八】》○丙戌。従五位下大倭御手代連麻呂女賜宿禰姓。奉為太上天皇、奉写法華経一千部)また正倉院は光明皇后が聖武天皇の供養のため建立されています。
・天平勝宝八歳(七五六)十二月には孝謙天皇が聖武帝の菩提の為に梵網経を講釈せよとの詔勅を出されています。「朕万痛心に纏わり、千哀骨を貫く、恒に徳に報ぜんと思い、日夜に停ることなし、聞くならく、菩薩戒あり梵網経を本とす、功徳巍々として能く逝者を資く(続日本紀十九)」(天平勝宝八歳(七五六)十二月己酉【三十】》○己酉。勅、遣皇太子。及右大弁従四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。右大臣従二位藤原朝臣豊成。出雲国守従四位下山背王於大安寺。大納言従二位藤原朝臣仲麻呂。中衛少将正五位上佐伯宿禰毛人於外嶋坊。中納言従三位紀朝臣麻路。少納言従五位上石川朝臣名人於薬師寺。大宰帥従三位石川朝臣年足。弾正尹従四位上池田王於元興寺。讃岐守正四位下安宿王。左大弁正四位下大伴宿禰古麻呂於山階寺。講梵網経。講師六十二人。其詞曰。皇帝敬白。朕自遭閔凶。情深荼毒。宮車漸遠。号慕無追。万痛纏心。千哀貫骨。恒思報徳。日夜無停。聞道。有菩薩戒。本梵網経。功徳巍巍。能資逝者。仍写六十二部。将説六十二国。始自四月十五日。令終于五月二日。是以。差使、敬遣請屈。願衆大徳。勿辞摂受。欲使以此妙福無上威力。翼冥路之鸞輿。向華蔵之宝刹。臨紙哀塞。書不多云。)
・先帝供養のための写経も多く行われています。国宝「和銅経(712年(和銅5年))」は 文武天皇崩御に際し孫の長屋王が大般若経600巻を書写させました。うち220巻が現存しており、滋賀県甲賀郡鮎河村の太平寺に142巻あるので、太平寺大般若経ともいいます。年号が明記された古写経のうちでは我国最古です。国宝「五月一日経(736年(天平8年))は 光明皇后が両親の菩提を弔うため一切経を書写させたものです。願文に「天平12年5月1日」とあるところからの呼び名があり正倉院に七六三巻現存しています。下って国宝「久能寺経」(1141年(永治元年)頃)は鳥羽天皇落飾時に皇后の待賢門院が中心となって作った法華経で、三大装飾経の一つ。国宝「目無し経」も装飾経の一種で後白河法皇の菩提を弔うため、法皇ゆかりの料紙を用いて写経したもの。国宝「慈光寺経」も 宜秋門院(後鳥羽上皇の皇后、任子)が中心になって作った「法華経一品経」三十三巻です。平家納経、久能寺経と並んで、三大装飾経の一つにかぞえられています。
・泉涌寺には鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれています。
・御所の御黒戸では歴代天皇の位牌や念持仏・仏具などが安置されており、歴代天皇の念持佛は明治初年には64体に達していたといわれます、天皇は黒戸の内側で先帝供養のために読経されていました。
・白峯神宮は幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御した。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建しています。
(なお御大師様が嵯峨帝等諸帝に代わって先帝供養願文を書かれていますがこれは別途「御大師様の先祖供養のお考え」としてアップします)
我が国は先祖供養が国の基盤であり骨格であることを徐々に書いていますが、今回は天皇陛下の先祖供養についてとりあえず手元にある資料で書いておきます。
・宮中神事そのものが先祖供養・祖先崇拝の儀式です。
春分の日 の春季皇霊祭、秋分の日の 秋季皇霊祭等はその名の通り皇霊をおまつりするものですし、神嘗祭は天皇陛下が五穀を日本神話の様々な神々に捧げて豊作を感謝するもの
新嘗祭は初穂を天照大神に捧げるというものですからこれらはすべて先祖供養と言えます。
・そもそも奈良時代には国忌を定めて、先帝の没した日に国として追善供養をおこなってきました。687年(持統帝)の天武天皇の一周忌の国忌の斎が最初で翌年には国忌に必ず衆僧に食事を供養する斎会を設けることを定め(日本書紀巻三十「国忌の日、必ず斎すべし」)702年(大宝2)には国忌の日に政務を休むことを制度化しし是が逐次拡大していきます。
・法華経千部書写供養もされています。天平二〇年(七四八年)七月、聖武天皇が先帝であった元正(げんしょう)天皇の崩御に際し、法華経千部を書写して供養されたことに始まります。(『続日本紀』天平二十年(七四八)七月丙戌【十八】》○丙戌。従五位下大倭御手代連麻呂女賜宿禰姓。奉為太上天皇、奉写法華経一千部)また正倉院は光明皇后が聖武天皇の供養のため建立されています。
・天平勝宝八歳(七五六)十二月には孝謙天皇が聖武帝の菩提の為に梵網経を講釈せよとの詔勅を出されています。「朕万痛心に纏わり、千哀骨を貫く、恒に徳に報ぜんと思い、日夜に停ることなし、聞くならく、菩薩戒あり梵網経を本とす、功徳巍々として能く逝者を資く(続日本紀十九)」(天平勝宝八歳(七五六)十二月己酉【三十】》○己酉。勅、遣皇太子。及右大弁従四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。右大臣従二位藤原朝臣豊成。出雲国守従四位下山背王於大安寺。大納言従二位藤原朝臣仲麻呂。中衛少将正五位上佐伯宿禰毛人於外嶋坊。中納言従三位紀朝臣麻路。少納言従五位上石川朝臣名人於薬師寺。大宰帥従三位石川朝臣年足。弾正尹従四位上池田王於元興寺。讃岐守正四位下安宿王。左大弁正四位下大伴宿禰古麻呂於山階寺。講梵網経。講師六十二人。其詞曰。皇帝敬白。朕自遭閔凶。情深荼毒。宮車漸遠。号慕無追。万痛纏心。千哀貫骨。恒思報徳。日夜無停。聞道。有菩薩戒。本梵網経。功徳巍巍。能資逝者。仍写六十二部。将説六十二国。始自四月十五日。令終于五月二日。是以。差使、敬遣請屈。願衆大徳。勿辞摂受。欲使以此妙福無上威力。翼冥路之鸞輿。向華蔵之宝刹。臨紙哀塞。書不多云。)
・先帝供養のための写経も多く行われています。国宝「和銅経(712年(和銅5年))」は 文武天皇崩御に際し孫の長屋王が大般若経600巻を書写させました。うち220巻が現存しており、滋賀県甲賀郡鮎河村の太平寺に142巻あるので、太平寺大般若経ともいいます。年号が明記された古写経のうちでは我国最古です。国宝「五月一日経(736年(天平8年))は 光明皇后が両親の菩提を弔うため一切経を書写させたものです。願文に「天平12年5月1日」とあるところからの呼び名があり正倉院に七六三巻現存しています。下って国宝「久能寺経」(1141年(永治元年)頃)は鳥羽天皇落飾時に皇后の待賢門院が中心となって作った法華経で、三大装飾経の一つ。国宝「目無し経」も装飾経の一種で後白河法皇の菩提を弔うため、法皇ゆかりの料紙を用いて写経したもの。国宝「慈光寺経」も 宜秋門院(後鳥羽上皇の皇后、任子)が中心になって作った「法華経一品経」三十三巻です。平家納経、久能寺経と並んで、三大装飾経の一つにかぞえられています。
・泉涌寺には鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれています。
・御所の御黒戸では歴代天皇の位牌や念持仏・仏具などが安置されており、歴代天皇の念持佛は明治初年には64体に達していたといわれます、天皇は黒戸の内側で先帝供養のために読経されていました。
・白峯神宮は幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御した。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建しています。
(なお御大師様が嵯峨帝等諸帝に代わって先帝供養願文を書かれていますがこれは別途「御大師様の先祖供養のお考え」としてアップします)