今日は満月です。
お月さまはじっと見ているとなにか胸を締め付けられるように昔が懐かしくなってきます。幼時に山寺で慈父がいつも月をみては「お月さんいくつ・・十さんななつ‥」と歌ってくれていたのを思い出すからです。
また何年か前には、高尾山の峰中修行でも杉木立の間に輝く満月が出たことがあります。そのときは、「修行者の心も本来このような満月になっているのですよ」とどこからともなく諭された気がしたものです。また10年前に四国21番太龍寺で求聞持を行じているとき丁度中秋の名月があがり、岩の上でこのあかあかとした名月を拝ししっかりと胸に刻みお堂に帰り堂の中に満月が一杯に広がっている観想ができ、心行くまで月輪観を修せた有難い極みの思い出があります。
「あかあかと」といえば明恵上人は「あかあかや、あかあかあかや、あかあかや、あかあかあかや、あかあかや月」と詠まれています。密教では月輪観といって月輪を心の中に観じて、それをしだいに拡大してゆき最終的には宇宙と自分が一体となる瞑想がありますが、上人の歌はこの時の境地をあらわしてもいると思います。「本来の自他の姿はこのように明々としたものですよ」と諭されてもいるのでしょう。
明恵上人は多くの名月の歌をお詠みになっていますがその中でも月輪観そのものを表わしているとおもわれるのは
・「くまもなく 澄める心のかがやけば わが光とや 月思ふらむ」です。自分の心が月と同じくらいに澄み渡って光っているので月が自分の光かと間違うくらいだというものです。
そのほかの明恵上人の歌も載せておきます。
・「照る月を いとひて闇に入る人は 道のしるべに何にかはせむ」
「この夜より あはれと思へ 秋の月 まよはむ闇の みちしるべとて」
・「心月の澄むに 無明の雲晴れて 解脱の門に 松風ぞ吹く」
・「月影は いずれの山と わかじかど 澄ます峯にや 澄みまさるらん」。(この歌は「月影のいたらぬ里はなけれども ながむるひとの心にぞ住む」(月影があらゆる里にさすように、全ての人の心には仏性が宿っていて仏の光を受けて光っていますよ)という法然上人の歌にも通ずるものがあります)
西行法師の月の歌もあります。
・鷲の山月を入りぬと見る人は暗きに迷ふ心なりけり
・鷲の山思ひやるこそ遠けれど心にすむは有明の月
・あらわさぬわが心をぞ恨むべき月やはうときおば捨ての山
・闇はれて心の空にすむ月は西の山辺や近くならむ
・山の端に隠るる月を眺むればわれと心の西に入るかな
・西へ行く月をやよそに思ふらむ心にいらぬ人のためには
慈雲尊者もお月様の歌を残されています。
・「法の月 この日の本にてりそひて ながきや闇路の あらなくもがな」
・「たのみある 身にぞありける 月の国の 光を添ふる 日の本の世々」
・「正法は 目に見ても知れ 春のはな 秋も最中(もなか)の小夜ふくる月」(春の花、中秋の名月を見るだけでも正法がわかる)
・「月しろし 吹く風すずし 万代(よろずよ)に ながめ尽きせぬ をのがあめつち」
・「花にそひ 月にともなふ 人ごころ 心の外の 御法(みのり)ならねば」
・「法の道 常にさやけき月もあるに やみとや人の目をふたぎ行く」(満月が常に照らしているような正法の真只中にいるのに闇の世とみるのは人の目が曇っているからである)
・「(摩多体文(梵字)を書してその奥に)「月の国の 御法を添えて日本(ひのもと)の世々に絶えせぬ光ともがな(仏様の国の教えを梵字により伝えて日本の世々の光としたい)」
・「(十善これ菩提の道場と大書してそのわきに)「みてもしれ ふもとのさくら 嶺の月 とりも直さぬ己が面目」(これは 月を覚りの姿ととらえておられます。)
密教行者の行う『五相成身観』でも常に心に満月をイメージします。また金剛界曼荼羅の仏様方も皆な満月の中に坐しておられます。曼荼羅では胎蔵界の諸尊が蓮華に坐しておられますがこれは慈悲を表わすのに対して金剛界の諸尊は月輪に坐しておられます。これは仏心円満とか智徳円満を表わします。満月はじっと見ていると本当に不思議な気持ちにさせられます。
お月さまはじっと見ているとなにか胸を締め付けられるように昔が懐かしくなってきます。幼時に山寺で慈父がいつも月をみては「お月さんいくつ・・十さんななつ‥」と歌ってくれていたのを思い出すからです。
また何年か前には、高尾山の峰中修行でも杉木立の間に輝く満月が出たことがあります。そのときは、「修行者の心も本来このような満月になっているのですよ」とどこからともなく諭された気がしたものです。また10年前に四国21番太龍寺で求聞持を行じているとき丁度中秋の名月があがり、岩の上でこのあかあかとした名月を拝ししっかりと胸に刻みお堂に帰り堂の中に満月が一杯に広がっている観想ができ、心行くまで月輪観を修せた有難い極みの思い出があります。
「あかあかと」といえば明恵上人は「あかあかや、あかあかあかや、あかあかや、あかあかあかや、あかあかや月」と詠まれています。密教では月輪観といって月輪を心の中に観じて、それをしだいに拡大してゆき最終的には宇宙と自分が一体となる瞑想がありますが、上人の歌はこの時の境地をあらわしてもいると思います。「本来の自他の姿はこのように明々としたものですよ」と諭されてもいるのでしょう。
明恵上人は多くの名月の歌をお詠みになっていますがその中でも月輪観そのものを表わしているとおもわれるのは
・「くまもなく 澄める心のかがやけば わが光とや 月思ふらむ」です。自分の心が月と同じくらいに澄み渡って光っているので月が自分の光かと間違うくらいだというものです。
そのほかの明恵上人の歌も載せておきます。
・「照る月を いとひて闇に入る人は 道のしるべに何にかはせむ」
「この夜より あはれと思へ 秋の月 まよはむ闇の みちしるべとて」
・「心月の澄むに 無明の雲晴れて 解脱の門に 松風ぞ吹く」
・「月影は いずれの山と わかじかど 澄ます峯にや 澄みまさるらん」。(この歌は「月影のいたらぬ里はなけれども ながむるひとの心にぞ住む」(月影があらゆる里にさすように、全ての人の心には仏性が宿っていて仏の光を受けて光っていますよ)という法然上人の歌にも通ずるものがあります)
西行法師の月の歌もあります。
・鷲の山月を入りぬと見る人は暗きに迷ふ心なりけり
・鷲の山思ひやるこそ遠けれど心にすむは有明の月
・あらわさぬわが心をぞ恨むべき月やはうときおば捨ての山
・闇はれて心の空にすむ月は西の山辺や近くならむ
・山の端に隠るる月を眺むればわれと心の西に入るかな
・西へ行く月をやよそに思ふらむ心にいらぬ人のためには
慈雲尊者もお月様の歌を残されています。
・「法の月 この日の本にてりそひて ながきや闇路の あらなくもがな」
・「たのみある 身にぞありける 月の国の 光を添ふる 日の本の世々」
・「正法は 目に見ても知れ 春のはな 秋も最中(もなか)の小夜ふくる月」(春の花、中秋の名月を見るだけでも正法がわかる)
・「月しろし 吹く風すずし 万代(よろずよ)に ながめ尽きせぬ をのがあめつち」
・「花にそひ 月にともなふ 人ごころ 心の外の 御法(みのり)ならねば」
・「法の道 常にさやけき月もあるに やみとや人の目をふたぎ行く」(満月が常に照らしているような正法の真只中にいるのに闇の世とみるのは人の目が曇っているからである)
・「(摩多体文(梵字)を書してその奥に)「月の国の 御法を添えて日本(ひのもと)の世々に絶えせぬ光ともがな(仏様の国の教えを梵字により伝えて日本の世々の光としたい)」
・「(十善これ菩提の道場と大書してそのわきに)「みてもしれ ふもとのさくら 嶺の月 とりも直さぬ己が面目」(これは 月を覚りの姿ととらえておられます。)
密教行者の行う『五相成身観』でも常に心に満月をイメージします。また金剛界曼荼羅の仏様方も皆な満月の中に坐しておられます。曼荼羅では胎蔵界の諸尊が蓮華に坐しておられますがこれは慈悲を表わすのに対して金剛界の諸尊は月輪に坐しておられます。これは仏心円満とか智徳円満を表わします。満月はじっと見ていると本当に不思議な気持ちにさせられます。
明恵上人集 (岩波文庫) | |
クリエーター情報なし | |
岩波書店 |
明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |