31番竹林寺五台山から降りて下田川を渡り5キロ位いくと、目前に百㍍あまりの小高い山があります。ここが32番禅師峰寺で、寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、後にお大師様が八葉の蓮台に似ていることからここで虚空蔵求聞持法を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、現在の寺名「八葉山 求聞持院 禅師峰寺」を定めたといわれます。お大師様の作と伝えられる「船魂観音」は海上交通の安全を守ってくださるという十一面観音様で、歴代藩主も参勤交代の無事を祈願したそうです。
ここは奇岩が多く、霊気に満ちています。
3度目の時は朝早くここにおまいりできました。庭は打ち水がされ、大師堂は掃除され開け放たれていました。明け放されたお堂の前で心行くまでお経をあげることができ、心から有難いと思いました。 境内からは白砂青松の美しい土佐湾が臨めありがたい気持ちが一層湧き立ちます。納経所におられた寺族のかたに「大師堂を開けていただいて有難う御座いました」とお礼を言いますと、寺族のかたは「あたりまえです」とおっしゃいました。なにかこころあたたまる会話ができたことを覚えています。
32禅師峰寺から33番雪蹊寺へは、8キロ位です。浦戸大橋を渡って桂浜経由で行く道と、種崎から県営フェリーに乗って長浜経由で行く道がありますが、いつもフェリーに乗ることにしています。1時間に1便あり無料です。一回目の時は舟の人に「運賃はいくらですか?」と尋ねて怪訝な顔をされました。
この渡しまでも きびしい道のりですがこの最後に渡船にのるところがありほっとするのです。向こう岸についてから少し歩くとすぐに33番雪蹊寺です。弘法大師によって弘仁6年に開創され「高福寺」と称したがのちに廃寺となっていた寺を土佐藩主長宗我部元親が再興、臨済宗の月峰和尚を中興の祖とし後に元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっているといいます。ご本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩像は運慶作、その子、湛慶は毘沙門天像、吉祥天女像、善膩師童子像を彫造して安置したとされます。
澄禅の「四国遍路日記」でも「高福寺、中古より禅宗に成って本尊薬師如来の堂なり。玄関・方丈の関わり、禅宗の寺立なり。当寺住職は妙心寺流の大和尚なり。保福山雪蹊寺と号す」とあります。
ここはなにより尊敬する山本玄峰老師誕生のもととなった寺です。白隠禅師の再来とまで言われた三島龍沢寺の山本玄峰師(妙心寺管長)は、若いころ文盲の上、失明に近い眼病を患い、その回復を祈願して素足で7回の遍路をしましたが、焼山寺で少し目が見えるようになったと云います。そしてなおもお参りする途中行き倒れて、33番雪蹊寺大玄住職に「心眼をこそ開け」といわれて禅の道にはいったとされます(「明治の仏教者」等による)。17年のときは納経所で90才という檀家のおじいさんが納経してくれました。おじいさんのいうことには
「山本玄峰老師はここで行き倒れて当時の太玄老師に助けられたことになっているがわしは当時の本当のことを知っておる。じつは渡しの近くの東屋で倒れていたのを地元の者がこの寺にかつぎこんだんじゃ。それを新聞記者が面倒なのでこの寺で倒れたことにして書いたんじゃ。記者はいいかげんじゃ。」と延々とはなしてくれました。玄峰老師は東京谷中の全生庵で提唱をされていました。私は全生庵にも昔出入りしており、三島龍沢寺から当時みえていた鈴木宋忠老師にご指導いただいていました。この雪蹊寺は玄峰老師のあと鈴木宋忠老師も住職をされています。40代のころ全生庵で「寺に入りたいのですが」と宋忠老師にご相談すると「大きな寺はだめだ。維持費におわれて大変だぞ。」とお話をしていただいたこともあります。 なつかしいおふたりです。鈴木宋忠老師は太平洋戦争で出征し、サイパン島でジャングルに何年も一人で隠れ生き残った方です。以前読売ホールで涅槃会説法されたときは客席をぐるっと見渡して開口一番、「皆さん方はここからみるとみな因果の博覧会じゃ」とおっしゃいました。我々の現存在の中にすべての因果が詰まっておりまた一瞬一瞬新しい因果をつくっているのだということでしょう。過去現在未来の無限の業縁をひいてうごめいている自分の現存在の重さにぞっとする言葉です。
ここは88箇所中珍しい禅宗の寺です。 11番藤井寺、15番国分寺とここの3か寺が禅宗です。
大師堂では禅宗の寺では理趣経もあげておられないであろうから、お大師様がおさみしいのではないかとおもわれていつも座って特に念入りに理趣経をあげることにしています。