和俗童子訓(貝原益軒)より
巻之五 女子に教ゆる法・・1
男子は外に出て、師にしたがひ、物をまなび、朋友にまじはり、世上の礼法を見聞するものなれば、をやのをしえのみにあらず。外にて見ききする事多し。女子はつねに内に居て、外にいでざれば、師友にしたがひて道をまなび、世上の礼儀を見ならふぺきやうなし。ひとへにおやのをしえを以、身をたつるものなれば、父母のをしえ、をこたるべからず。をやのをしえなくて、そだてぬる女は、礼儀をしらず。女の道にうとく、女徳をつつしまず、且女功のまなびなし。是皆父母の子を愛するみちをしらざればなり。
女子をそだつるも、はじめは、大やう男子とことなる事なし。女子は他家にゆきて、他人につかふるものなれば、ことさら不徳にては、しうと(舅)をつと(夫)の心にかなひがたし。いとけなくて、おひさき(生先)こもれるまど(窓)の内より、よくをしゆべき事にこそ侍べれ。不徳なる事あらば、はやくいましむべし。子をおもふ道にまよひ、愛におぼれ、姑息して、其悪き事をゆるし、其性(うまれつき)をそこなふぺからず。年にしたがひて、まづはやく、女徳をおしゆべし。女徳とは女の心さまの正しくして、善なるを云。
およそ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるぺけれ。女徳をゑらばず、かたち(容)を本としてかしづくは、をにしへ今の世の、悪しきならはしなり。いにしへのかしこき人はかたちの見にくきもきらはで、心ざまのすぐれたるをこそ、后妃にもかしづきそなへさせ給ひけれ。
黄帝の妃・嫫母(注1、ほも)、斉の宣王の夫人無塩(注2、ぶえん)は、いづれも其かたちきはめてみにくかりしかど、女徳ありし故に、かしづき給ひ、君のたすけとなれりける。周の幽王の后、褒姒(ほうじ)、漢の成帝の后・趙飛燕(注3)、其の妹・婕(しょうよ)、唐の玄宗の楊貴妃など、其かたちはすぐれたれど、女徳なかりしかば、皆天下のわざはひとなり、其身をも保たず。
(注1、嫫母は「 黄帝の二番目の妃。錘(おもり)のような顔、斧のような鼻、色黒で体が大きい、という醜女だったが、その徳の高さを聞き及んだ黄帝に迎えられて妃となった。
正妃の嫘祖の死後、彼女の祭りを守ったことから、のちに死者を悪鬼から守る方相氏(鬼やらいに使用する恐ろしい仮面)の元となった、とする伝説もある。)
(注2、無塩。戦国時代斉の宣王の夫人鍾離春が、醜い顔で山東省無塩の出身あったところから無塩。無塩君という。)
(注3、「趙飛燕・・前漢の成帝 (在位前 33~7) の皇后。庶民の出身。歌舞に巧みで,成帝の目に止り,女官となり,のち皇后となった。妹昭儀も召され,姉妹で成帝の寵を争ったという。平帝のとき,王莽の上奏で庶人に落され,自殺した。(ブリタニカ国際百科事典)」
諸葛孔明は、このんで醜婦をめとれりしが、色欲のまよひなくて、智も志もいよいよ清明なりしとかや。ここを以、婦人は心だによからんには、かたち見にくくとも、かしづきもてなすべきことはり(理)たれば、心さまを、ひとへにつつしみまもるべし。其上、かたちは生れ付たれば、いかに見にくしとても、変じがたし。心はあしきをあらためて、よきにうつ(移)さば、などかうつらざらん。
いにしへ張華が女史の箴とて(注4)女のいましめになれる文を作りしにも、「人みな、其かたちをかざる事をしりて、其性をかざる事をしる事なし。」といへり。性をかざるとは、む(生)まれつきのあしきをあらためて、よくせよとなり。かざるとは、いつはりかざるにはあらず。人の本性はもと善なれば、いとけなきより、よき道にならはば、なとかよき道にうつり、よき人とならざらんや。
(注4、西晋の政治家・文学者である張華は「女史箴(じょししん)」を作り、楚の荘王の夫人樊姫(はんき),斉の桓公の夫人衛姫などの古の模範的な女性の徳行を挙げ,后妃の戒めとした)
ここを以、いにしへ女子には女徳をもはら(専)に教えしなり。女の徳は和・順の二をまもるべし。和(やわら)ぐとは、心を本として、かたち・ことばもにこやかに、うららかなるを云。順(したがう)とは人にしたがひて、そむかざるを云。
女徳のなくて、和順ならざるは、はらきたなく、人をいかりの(罵)りて、心たけく、けしき(気色)けうとく、面はげしく、まなこおそろしく見いだし、人をながしめに見、ことばあららかに、物いひさがなく口ききて、人にさきだちてさか(賢)しらし、人をうらみかこち、わが身にほこり、人をそしりわらひ、われ、人にまさりがほなるは、すべておぞましくにく(憎)し、是皆、女徳にそむけり。
ここを以、女は、ただ、和順にして貞信に、なさけふかく、かいひそめて(注5)、しづかなる心のおもむきならんこそ、あらまほしけれ。(続)
(注5)、「かいひそめて」とは「搔い潜む」と書き、「ひっそり静かにしている。目立たないように隠れている」こと。
巻之五 女子に教ゆる法・・1
男子は外に出て、師にしたがひ、物をまなび、朋友にまじはり、世上の礼法を見聞するものなれば、をやのをしえのみにあらず。外にて見ききする事多し。女子はつねに内に居て、外にいでざれば、師友にしたがひて道をまなび、世上の礼儀を見ならふぺきやうなし。ひとへにおやのをしえを以、身をたつるものなれば、父母のをしえ、をこたるべからず。をやのをしえなくて、そだてぬる女は、礼儀をしらず。女の道にうとく、女徳をつつしまず、且女功のまなびなし。是皆父母の子を愛するみちをしらざればなり。
女子をそだつるも、はじめは、大やう男子とことなる事なし。女子は他家にゆきて、他人につかふるものなれば、ことさら不徳にては、しうと(舅)をつと(夫)の心にかなひがたし。いとけなくて、おひさき(生先)こもれるまど(窓)の内より、よくをしゆべき事にこそ侍べれ。不徳なる事あらば、はやくいましむべし。子をおもふ道にまよひ、愛におぼれ、姑息して、其悪き事をゆるし、其性(うまれつき)をそこなふぺからず。年にしたがひて、まづはやく、女徳をおしゆべし。女徳とは女の心さまの正しくして、善なるを云。
およそ女は、かたちより、心のまされるこそ、めでたかるぺけれ。女徳をゑらばず、かたち(容)を本としてかしづくは、をにしへ今の世の、悪しきならはしなり。いにしへのかしこき人はかたちの見にくきもきらはで、心ざまのすぐれたるをこそ、后妃にもかしづきそなへさせ給ひけれ。
黄帝の妃・嫫母(注1、ほも)、斉の宣王の夫人無塩(注2、ぶえん)は、いづれも其かたちきはめてみにくかりしかど、女徳ありし故に、かしづき給ひ、君のたすけとなれりける。周の幽王の后、褒姒(ほうじ)、漢の成帝の后・趙飛燕(注3)、其の妹・婕(しょうよ)、唐の玄宗の楊貴妃など、其かたちはすぐれたれど、女徳なかりしかば、皆天下のわざはひとなり、其身をも保たず。
(注1、嫫母は「 黄帝の二番目の妃。錘(おもり)のような顔、斧のような鼻、色黒で体が大きい、という醜女だったが、その徳の高さを聞き及んだ黄帝に迎えられて妃となった。
正妃の嫘祖の死後、彼女の祭りを守ったことから、のちに死者を悪鬼から守る方相氏(鬼やらいに使用する恐ろしい仮面)の元となった、とする伝説もある。)
(注2、無塩。戦国時代斉の宣王の夫人鍾離春が、醜い顔で山東省無塩の出身あったところから無塩。無塩君という。)
(注3、「趙飛燕・・前漢の成帝 (在位前 33~7) の皇后。庶民の出身。歌舞に巧みで,成帝の目に止り,女官となり,のち皇后となった。妹昭儀も召され,姉妹で成帝の寵を争ったという。平帝のとき,王莽の上奏で庶人に落され,自殺した。(ブリタニカ国際百科事典)」
諸葛孔明は、このんで醜婦をめとれりしが、色欲のまよひなくて、智も志もいよいよ清明なりしとかや。ここを以、婦人は心だによからんには、かたち見にくくとも、かしづきもてなすべきことはり(理)たれば、心さまを、ひとへにつつしみまもるべし。其上、かたちは生れ付たれば、いかに見にくしとても、変じがたし。心はあしきをあらためて、よきにうつ(移)さば、などかうつらざらん。
いにしへ張華が女史の箴とて(注4)女のいましめになれる文を作りしにも、「人みな、其かたちをかざる事をしりて、其性をかざる事をしる事なし。」といへり。性をかざるとは、む(生)まれつきのあしきをあらためて、よくせよとなり。かざるとは、いつはりかざるにはあらず。人の本性はもと善なれば、いとけなきより、よき道にならはば、なとかよき道にうつり、よき人とならざらんや。
(注4、西晋の政治家・文学者である張華は「女史箴(じょししん)」を作り、楚の荘王の夫人樊姫(はんき),斉の桓公の夫人衛姫などの古の模範的な女性の徳行を挙げ,后妃の戒めとした)
ここを以、いにしへ女子には女徳をもはら(専)に教えしなり。女の徳は和・順の二をまもるべし。和(やわら)ぐとは、心を本として、かたち・ことばもにこやかに、うららかなるを云。順(したがう)とは人にしたがひて、そむかざるを云。
女徳のなくて、和順ならざるは、はらきたなく、人をいかりの(罵)りて、心たけく、けしき(気色)けうとく、面はげしく、まなこおそろしく見いだし、人をながしめに見、ことばあららかに、物いひさがなく口ききて、人にさきだちてさか(賢)しらし、人をうらみかこち、わが身にほこり、人をそしりわらひ、われ、人にまさりがほなるは、すべておぞましくにく(憎)し、是皆、女徳にそむけり。
ここを以、女は、ただ、和順にして貞信に、なさけふかく、かいひそめて(注5)、しづかなる心のおもむきならんこそ、あらまほしけれ。(続)
(注5)、「かいひそめて」とは「搔い潜む」と書き、「ひっそり静かにしている。目立たないように隠れている」こと。