第五四課 金
金かねは、人生完成の途中の小遣銭です。これがなくても他に融通が利くはずです。大自然は大きいから、何かで、伎倆で、智慧で、作物で、自然物で、都合がつくはずです。しかしこの小遣銭がないとなかなか心細く、都合の悪いものです。それでは、金はいくらでもあってよいかと言うと、余り沢山持ち込むと、また、不幸になります。「人間は十万円以上は貯めてはいけない。それ以上になると、その金の始末に始終頭を使わねばならないから、つまり金に人が使われることになって、実に不幸になる。本当の人間らしい生活は出来なくなって、その人の顔付きまで溌剌たる人間味を失って来る」というのは多数の経験者の一致した意見であります。もし金で本当の幸福が得られるならば沢山金があるほど余計に幸福になれるはずですが、それが上述のごとく楽に遣いこなせる程度でなければ却って邪魔をすることになります。
ところが、現在の人々の大多数は、この人生の小遣銭が殆んどないので苦しんでおります。世の中の金廻りが非常に悪いところへ持って来て、人が多過ぎるので、平等にみんなの手に金が廻って来ません。しかも人間は急速に殖える一方です。何とかしなければならないでしょう。まず差し当って、余りお金を無駄使いしないように有り合せのもので間に合せて行くということが必要です。また他の娯楽や欲望はお金がかかりますが、人間完成の大娯楽に向う信仰は余り金もかかりませんから、その信仰に入り、仏智を得て欲望や煩悩を浄化善用し、信念に依る強靱な意志を養成して、以て事に当ったなら、命つなぎぐらいの費用はどうにか得られると思います。
また、みんなが信仰によって根本的に結ばれたら、慈悲の心からお互いに工夫し合い、融通させ合うことも安心して出来ましょうし、その他適当な救済の設備や制度も、信仰団体の中に出来ることになりましょう。
欧米では慈悲や救済は、殆んど宗教の専門のようになっています。また、そのことの出来る理由は、国々の人々の殆んど全部が、同じ宗教に依って根本的につながっているからであります。宗教によって真心を披瀝し合っているからであります。これが散り散りばらばらであっては、お互いを信ずることが出来ませんから、親身になって慈悲の心を出し合うことも出来ません。
日本当面の非常時、政治的不安や経済的行き詰まりにいよいよ恐慌を増して来ましたこの頃では、金融は全く逼塞してしまいましたので、日本の大多数の人々は、その命つなぎの金にさえ不自由する有様に立ち至っております。この時に当って、この窮乏に堪え、かつこれを打開するものは、ただ人々の仏教信仰によっての安心立命と、慈悲の円融なる救済力とに待つのが適切と思います。
(かの子が此れを書いたころは、昭和4年の世界恐慌、昭和6年の満州事変と政治経済すべてにわたって厳しい時代が始まったころです。現在に似ていると云えば云えます。お釈迦様は仏陀伽邪で35歳の12月8日未明、明星をみて悟りを開かれたとき「奇なるかな奇なるかな一切衆生は如來の智慧徳相を具有す、但だ妄想執著を以ての故に見ず・・、(註華嚴法界觀門 )」とおっしゃったといわれます。私も以前求聞持を行じつつ、太龍寺の磐の上で満天の星空を見上げて「どうしてこの世には貧困があるのですか」と仏様に尋ねたことがありました。すると仏様から「この星空の様に無限の福徳を衆生は本来一人一人がもっておるのだぞ」と諭された気がしたものです。多分仏様のおっしゃることが本当でしょう。人々が信仰心を持って助け合えば皆金銭の不安を感じることはなくなるはずです。仏教寓話で、極楽も地獄も同じように向かい合って人々が座って長い箸で食事をしているが、地獄の人々はその箸を自分の口にもっていこうとするので長すぎて食べられないでやせ細っている、しかし極楽の人々は相手の口にその箸を持って行って食べさせ合うので丸々としているという話があります。東日本大震災は日本人にこの慈悲の心を再度思い起こさせるために起こったのかもしれませんが・・・)