坂東三十三所観音霊場記巻之十 沙門亮盛輯
第丗一番上総笠森(現在も第31番は大悲山笠森寺(笠森観音))
東上萼國埴生郡、大悲山楠光院は傳教大師之開基。朱雀帝の后妃の中興也。箕作が女於茂利也。也。法東院笠森寺と号す。本尊十一面の像は豫章(くすのき)の古木自然の尊形にして、大師の感得し玉ふ所也。人王五十代延暦年中、傳教大師東国に遊化して天台の法門を弘め玉ふ頃、當國埴生郡に至り尾野上の郷を過玉ふに、蓊欝(おううつ)としたる山の樹間より金光の衝出たる所あり。大師怪しみて登見玉へば、山上に又寶形の山あり。其の地の周囲百間余、高さ八九丈、其の山の頂上に十一面観世音光明を放ちて立せ玉ふ。大師敬んで近き見るに上には枯たる木株の外、曽て奇異なる物なし。退き降りて遥かに顧れば、大悲の尊像歴然たえり。更に登って木株を礼拝持念して、仍に座光の荘厳を具へ、仮に艸堂を経営して、尊像の為に雨露を防ぐ。所以に大悲山楠光院と号する也。
開基より百五十年余歳を經て、人王六十一代朱雀帝の天慶年中、同國長柄郡櫻井の郷、朝立山の麓獅子之背と云所に、箕を作りて家業とする一の貧しき民家あり。其の夫妻の中に五子を儲く。男子二人女子三人あり。末の妹を於茂利と云。容顔美麗の性にして貴妃西施も耻る程なれば、郡郷の婦女子等孰れか其の容色を競んや。幼年より能く父母の意を受け、天性孝順の賢女なり。尚も宿善の撼す所か十歳の比より佛神を信じ、尾野上の観音に帰依して、或は日参、或は隔日、何なる風雨にも怠らず二年餘歩を運ける。或時両人の姉の申すに、汝は斯る貧家に生れて、渡世の業に踈意なり。縦使(たとひ)佛神を崇敬したれども争か非礼の祈りを容給んや。父の箕を作には藤の蔓を撓め、母の布を織るには,麻を紡績でこそ。是我等が天の路ならめと。飽まで折檻して呵りける。其の母此の由を聞て、姉共の言所理なれども、彼孝心あって親に順ひ又好(よく)他人に柔和なれば普く諸人の愛を受る。尚佛神を信ずる事は此の上もなき志なり。尾野上の観世音は特に霊験掲焉(あらたか)に在せば大悲無量の福聚海、豈御利益に預かる否(まじき)や。女子は卑賎して玉の輿に乗ると。世の諺も故なきに非ず。汝等彼が心に任せよと、諭しけるより妹は葉山滋山障りなく、我が欲(おも)ふ侭にぞ詣でける。于時朱雀院の后宮は嵯峨中将公の一女なり。端正にして關雎(かんしょ、夫婦が和合してかつ礼儀正しいこと。)の徳備はり、皇帝の御寵最深かりき。然るに不豫の床に著せ玉ひ、遽に寶算の千秋を縮めて、十七歳にして瑶の眼を閉じ玉ふ。不料(はからず)暴風連枝を折き、階老の鴛衾を裂れて、上帝甚だ愁傷し玉へば、堂上堂下共に憂に沈ける。其の比、上総の國の國司、玉前明神の託に依りて、府中市原の耕地にして、明神の田植祭を企てり。徧く國中へ觸告る様は少年の女子を撰み、植女(そうとめ)の衣装を錺り、人數は其の撰に任せて、五月十二日を限り、府中の陣屋へ差出すべしと。之に依りて國中の地頭ごとに五月乙女(さおとめ)の器量を撰み、各々衣服や笠の美を尽くし、我勝にして相詰ける。然るに長柄の植女(さおとめ)は大雨にて藤沢の流れに支(さ)へ、一日殿(おく)れて府中に至る。此の路獅子之背水呑の郷、峯山崎尾野上の村を過。近比(ちかごろ)の風雨の荒にて観世音の假屋も破れ尊像五月雨に濡させ玉ふ。生平(つね)に皈依する所なれば、箕作がが娘、見に忍がたく、我身の濡は兎も角もと、其の笠をぬき御首に著奉り、笠の内へ一種のの歌を聯(つらね)ける。「十九種の法の雨うく尾野上(おののへ)の 花咲く世にも値にけるかな」と。斯て道を急ぎ行きけるに、箕作が女一人笠着ざれば、警固の武士共見咎れども、曽て返答の辞もなく、又笠著ざれども雨にも濡れず。程なく府中に到着して、田植の祭も事なくすみけり。多くの植女(さおとめ)群る中に、箕作が女の於茂利(をもり)は、其の容色の美抜群なり。然るに國司去んぬる在京の比(ころ)、后妃の未だ入内(じゅだい)し玉はず。處女なる時の容儀を見しに、今此の箕作が女に肖(に)たり。願くは叡覧に入れ奉んと、長柄組の支配の武士、刑部三郎成常をして国司の館へ召出しめ、七月下旬将れて都に登り、事の由を具に奏し奉るに、幸ひ御叡慮に叶ひ、南殿の近候を許しける。容貌先の后妃に肖たれば、御寵愛浅からずして、仍(しきり)に后妃の位に成り玉ふ。時に茂利后妃の願にて、大内の工匠棟梁の臣、一條康頼・堀川友成に命じて、上総の尾野上の堂不日に造営有るべしと。飛騨の工等を差下す。維時、天應七甲辰、倏大悲の威光倍々繁榮なり。初め后妃、五月乙女の時、我が笠を観世音へ著せ、又稚名を於茂利(をもり)と云。於茂利が笠と云意にて、即ち笠森寺と名る也。心念不空過の利益を蒙り、茂利女(もりじょ)は天上の歓楽を極め、夥の太子姫君を儲けて、實に現世無上の栄花なり。是姓なくして玉輿に乗、花咲世にも値へるの一首は、大悲の冥加を蒙りて、是れ此の時の事なるべし。
富士山縁起に云、古老傳て云、昔大綱里に老翁・嬢有り。共に居れり。翁は鷹を愛し、嬢は犬を飼ふ。後に乗馬の里に住して、箕を作りて業と為す。竹の節の中に一女を得たり。其の長さ一寸餘、之奇なりとして綿に褁(つつん)で之を養ふ。十六月を經て、漸く長成して能く行歩す。容皃(ようぼう)端厳にして、言語和雅なりと。時に天子、諸國に詔して美女を撰で之を献ぜしむ。采女の使者駿河國に至って、富士郡乗馬の里に老翁が宅に宿す。終夜光有り。使者怪しみて問て曰く、何の故ぞ道夜(よもすがら)火を燃哉。答曰く、我が女の光彩也。使者之を窺みるに、其の女甚だ美也。是に於いて謂て曰く、今天子、女を求玉ふ。汝誠に當れりと。女従はず。使者事を奏す。于時に女、父母に語りて曰、親子之愛、養育の恩、」誠に重く誠に深し。然りと雖も我久しく住るべからず。今我山に登り、去ん。母の云く、思慕如何。女云く、常に来りて相見へんと。乃ち富士山に登って巌崛に入る。已にして天子此に来て乗馬の里に幸とす。翁其の事を曰す。天子大に歎じて遂に翁と山に登る。第五層に休す。玉冠を脱で此の處に留め、漸く進んで絶頂に陟り、巌崛を臨む。女出て迎へて微笑して曰く、願くは天子此に住まりたまへと。因て共に崛中に入る。玉冠の所在、石を積みて以て陵と為すと云。延暦二十四年(805)託曰、我浅間大神と號す。平城天皇大銅元年(大同元年806)社を立て之を祭る。乗馬の里を改めて、一斉京と号す。所謂翁は愛鷹明神也。嬢は飼犬明神也。二神共に新山宮に住玉ふ。神社考四に見たり。
巡礼詠歌「日は暮る 雨は降野に 我ひとり 斯る旅には頼む 笠森」此の歌は旅の哀を詠じて又能く憂世の苦を感ぜしむ。知りぬ旅路に踏迷ひ、曠々たる野に出、風雨は烈しく日は西山に傾き、人里の有方も知らず。斯る時に臨んでは只我が著たる笠ばかり雨を凌ぐの依栖(よすが)なりと。裏の意は暮日とは人の齢傾を云ふ。雨降るとは世間の憂苦なり。法華に諸苦所因貪欲為本(譬諭品に「諸苦の所因は貪欲これ本なり」)、と説き玉ふ。凢そ苦楽は皆心の計也。世財の有るも苦、無きも苦、求も苦、失ふも苦也。「我獨」とは凡て人の心なり、其の獨を慎むと謂所即ち是也。「斯る旅」とは人、生れし日より減命とて是則ち仮の宿の旅路なり。「頼」の句は近くは當寺本尊、遠くは佛菩薩救世の大悲也。
私に云、此の堂の規製大に別也。寶形の山へ造掛にして、四邊板布の下に高さ凢そ六七丈可、宝前まで登こと一百余階、北の額は紫金窟、東の額は翠巌梯、南の額は法東院なり。住侶の物語に、昔より修復の事も柱の根継迄にして、唐戸以上彫物等、統て飛騨の工が作なりと。飛騨工が事、二説有り。一には謂く、是一人の名に非ず。飛騨の國人は多く工巧に精しきこと、餘州に勝れり、故に精巧の者を総じて飛騨の工と稱すと。賦役令に云く、凡そ斐陀(ひだ)の國、庸調俱に免す。里毎に匠丁十人をけみし、四丁毎に厮丁(令制で、五〇戸から二人出された仕丁のうちの一人。実働に従う立丁(りってい)のために生活の世話をする者。してい。)一人を給せよ。一年に一替ふと。又延喜式に云く、凡そ飛騨の國は毎年匠丁一百人を貢す。凢そ飛騨の匠丁役の中に死者あらば其の代を貢せしむること勿れ。役畢て國に還らば、當年の徭役を免ぜよと。一に謂く、奇巧魯般(春秋時代の魯の工匠。公輸班(盤)(こうしゅはん)ともいう。機械を作るのに巧みで、木を刻んで作った鳥が飛んだという。また、雲梯と呼ばれる、城攻めの具を作ったことでも有名。後世、工匠の祭神とされる。)に比する者の遷都の時より,文徳の朝に至って、京師に處り、百斉河成(くだら の かわなり、平安時代初期の貴族・画家。氏姓は余(あぐり。無姓)のち百済朝臣。百済の第28代国王である恵王の後裔、余時善の子とする系図がある。)と友善し。谷響集今昔物語に見たり。今此の笠森寺の飛騨の工と云は、初めの一義に相當る乎。
先代𦾔事本紀に云、推古帝七年冬十月神工鳥、樋田國(ひだのくに)に至る。是より先、鞍作手為名(くらつくりのたすな)、深山に入りて良木を求む。一人の神女を見る。手為名之を愛す。神女遂に身而(はらみて)鳥を産む。其の頸鳥に似たり。故に名めて鳥と云ふ。其の工、妙絶(たへにして)最も工に於いて神なり。皇太子之を寵(いつき)て共に工の法を議る。曲尺の割科、墨絲の盛圖屋長の高低柱橑(たるき)の太細檜皮木鱗(こけら)瓦甍(かわらぶき)やね、鞍駕善(くらかた)鐙御善(あぶみかた)。是時悉く術好(のり)を定む。乃し鞍作鳥、造宮の棟梁と為る。帝皇本紀丗三巻。日本紀に云、推古天皇の朝、高麗百濟國王、手為名(たすな)等の寺造佛工等を貢来る。鞍作鳥は俗に鳥佛師と云ふ。已下の文は大成經と同じ也。同じく十四年、勅して丈六の佛像を造る。元興寺金堂に安ず。其の像、堂の戸よりも高く、以て入ることを得ず。諸の工等議って曰く、堂の戸を破り之を納めんと。然るに鞍作鳥秀絶(ひいでたる)工術にして、戸を壊さずして堂に入るを得たり云々。又勅を奉て東國及び陸奥に往て、新田を開き得る所の田、二百一万、開く所の山路二十四所、時に上野國戸河瀧に於いて暴蛟忿荒、洪水漲り流る焉。鳥臣妙工を廻して敢て亡人を損ぜず、遂に水を治めて良田と為る。
或云、工匠始祖神は手置負命(たおきほをひのみこと)彦狭知命(さしりのみこと)也。愚按ずるに、天孫瓊瓊杵尊此の州降下し玉ふ時、八十神供奉し玉也。其の中の二神にして、手置は笠作司神(かさつくりつかさかみ)彦狭は盾作神(たてつくりのかみ)也。神武天皇大和國に於いて、畝傍山の東南の橿原に始めて帝宅を営(つくりまたふ)。是時は彼の二神の孫其の工事を司りたまふ也。𦾔事紀に云、天太玉命(あめのふとたまのみこと)の孫、天富命(あまのとみのみこと)、手置帆負彦(たおきほひひこ)狭知(さしり)の二神の孫を率て齋斧(いんふ)齋鉏(いんしょう)を以て始めて山材を採て立正殿を構云々
。近或大工の言く、工匠の始祖は手置帆負命彦狭知命也。聖徳太子は大工の所尊に非ずして、已れか門葉を太子の祭殿を破却せしむ。是偏見愚昧の至也。今汝等用る所の曲尺工法規則凡て太子の定める所也。神書を見ずして、猥(みだり)に妄言を吐く、汝太子を謗する耶。太子は聖人也。神也。佛也。況や皇太子也。汝が腐舌には名を称するも恐れ多し。早く其の道具を放て其の業を止よ。殊に手置彦狭は直に帝宅を柏原に造るに非ず。其の孫の神也。此の時は造宅の始にして、未だ其の工規を制せず。太子に至って工法斧鉏(ふしょ)等を定たまふ也。和事始に云、日本宮室の始は神代の巻に云、伊弉諾尊伊弉冊尊、磤馭州(おのころじま)に降居して、八尋の殿を作りて、天柱を化堅(みたつ)と。又兼良が簒疏に云(『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ)は、『日本書紀』の注釈書。一条兼良著)、天神第五代の大戸道尊大苦邊尊(オオトノヂ・オオトノベ)始て耦生(たぐいなる)の神也。戸は家、苫は茅を編み覆蓋ふ也。是州屋の始也。𦾔事紀に云、神武帝有司に詔して始て帝宅を営むと云々。日本紀に云、景行天皇五十一年秋八月、武内宿祢に命じて、棟梁の神と為すと也。