Q3,遍路に出た人は庶民ばかりでしょう。有名人はいるのですか?
A, 多くの著名人も遍路をしています。
四国88箇所の原型はそもそも奈良時代以前からあり、役の行者、行基菩薩の石槌山修行等に始まるといわれています。 飛鳥時代の藤原不比等と次男房前は86番志度寺の縁起にでてきます(琴平電鉄には[房前]という駅があります。)
平城天皇第三王子高岡親王(のち大師の高弟の真如法親王となる)、東大寺を再建した俊乗坊重源や時宗開祖一遍上人(「一遍聖絵」には45番岩屋寺の参拝や正応元(1288)年の50番繁多寺、75番善通寺、72番曼荼羅寺等の参拝が記されています。)そして西行法師、良寛さんも遍路をしています。
江戸時代にはこのほか伊勢の俳人大淀三千風、蝦夷地探検家松浦武四郎、280回遍路をした中務茂兵衛も有名です。八栗寺中興の祖木食似空上人、四国を2度巡拝し甲斐国八代郡に八十八体の仏像を刻んで四国堂をつくった木食五行上人、15番国分寺の四国十四遍供養塚の主、木食遊禅上人なども大先達といわれています。金光教の教祖(金光大神)も33歳の厄年、弘化3(1846)年に四国88所を巡拝しています。
十辺舎一九も「金草鞋」に「一度遍路の輩、現世にては一切の病難を除き、生涯安全、家運繁盛をまもらせたまひ、来世にては安養極楽浄土に往生まちがいなし。」と書いています。後陽成天皇の弟君空性法親王も65才で遍路をされ「空性法親王四国霊場御巡行記」という文献が残っています。
明治以降では「十五夜お月」「赤い靴」などで有名な詩人野口有情が遍路をし仏教詩人ともいわれました。近代禅僧の代表であり終戦時の鈴木貫太郎首相の師で終戦の詔勅「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・・」の言葉を教えた山本玄峰老師は明治21年23歳で盲目の身をはかなんで四国遍路をはじめ33番雪蹊寺で行き倒れそのままそこで縁をいただき禅僧になっています。95歳まで17回の遍路行をしています。 大正7年には後の女性解放運動家高群逸枝が24歳で四国遍路を半年かけて達成しています。その著書「娘巡禮記」では路銀が尽きた時突然多額のお接待を頂いたことなどを指して「三度のお助けがあった」と書いています。また「人の世のどんな不幸もあの道を通るあいだには大概は癒される」と「遍路と人生」でも書いています。 昭和9年には歌人吉井勇が「四国路へわたるといへばいちはやく遍路ごころとなりにけるかも」という歌をのこしています。
また札所の多くに種田山頭火の言葉「人生即遍路」の句碑があります。山頭火は行李の裏にこの言葉を書きつけており昭和14年にも2度目の遍路にでた記録があります。人生の途上にちりばめられているさまざまなできごとは丁度遍路道中の札所のようなものでその都度拝んで通過するということでしょうか。生まれて死ぬという人生そのものが遍路修行に出ているようなものということでもありましょう。
また 札所には岸元総理の達筆の般若心経秘鍵の聯や心経の石碑が奉納されていました。一部の札所にはお参りをされたのでしょう。
池田元総理は大蔵省の税務署長の時悪性の皮膚病にかかり休職して四国遍路に出、全快したことは有名な話です。
元奈良市長の鍵田忠三郎氏も四つの難病で死を宣告されていたのが遍路により治ったと「遍路記」に書いています。氏の遍路記には池田元総理が序文を書いています。元総理の序文です。「私はこの種のものは書かないことにしているが、四国遍路については別である。遍路は私がかって実行したものであり、私の奇病が全快する機縁となったからである。私のものの考え方の基本はなにかあのときの体験に負うところがあるように思う。千数百年前の昔、弘法大師が歩かれた三百六十里の道を一歩一歩あるいた人は天の導きといったものを感じるだろうし、人間は決して一足飛びに進歩するものではないことも良くわかるだろう。・・・人の道を踏み外しては何事も出来ない。私が「嘘をつかず」「正しくあれ」と念願しているのはなによりもこうした天命というか、道というか、目に見えない力の導きに対して謙虚であり、誠実であり正直でありたいと思うからに他ならない。」
与謝野鉄幹、晶子夫妻も多くの句碑を四国路に残しています。又、高浜虚子やホトトギス一門も善通寺などに句碑を残しています。
国会議員も何人も四国を回っているようです。
A, 多くの著名人も遍路をしています。
四国88箇所の原型はそもそも奈良時代以前からあり、役の行者、行基菩薩の石槌山修行等に始まるといわれています。 飛鳥時代の藤原不比等と次男房前は86番志度寺の縁起にでてきます(琴平電鉄には[房前]という駅があります。)
平城天皇第三王子高岡親王(のち大師の高弟の真如法親王となる)、東大寺を再建した俊乗坊重源や時宗開祖一遍上人(「一遍聖絵」には45番岩屋寺の参拝や正応元(1288)年の50番繁多寺、75番善通寺、72番曼荼羅寺等の参拝が記されています。)そして西行法師、良寛さんも遍路をしています。
江戸時代にはこのほか伊勢の俳人大淀三千風、蝦夷地探検家松浦武四郎、280回遍路をした中務茂兵衛も有名です。八栗寺中興の祖木食似空上人、四国を2度巡拝し甲斐国八代郡に八十八体の仏像を刻んで四国堂をつくった木食五行上人、15番国分寺の四国十四遍供養塚の主、木食遊禅上人なども大先達といわれています。金光教の教祖(金光大神)も33歳の厄年、弘化3(1846)年に四国88所を巡拝しています。
十辺舎一九も「金草鞋」に「一度遍路の輩、現世にては一切の病難を除き、生涯安全、家運繁盛をまもらせたまひ、来世にては安養極楽浄土に往生まちがいなし。」と書いています。後陽成天皇の弟君空性法親王も65才で遍路をされ「空性法親王四国霊場御巡行記」という文献が残っています。
明治以降では「十五夜お月」「赤い靴」などで有名な詩人野口有情が遍路をし仏教詩人ともいわれました。近代禅僧の代表であり終戦時の鈴木貫太郎首相の師で終戦の詔勅「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・・」の言葉を教えた山本玄峰老師は明治21年23歳で盲目の身をはかなんで四国遍路をはじめ33番雪蹊寺で行き倒れそのままそこで縁をいただき禅僧になっています。95歳まで17回の遍路行をしています。 大正7年には後の女性解放運動家高群逸枝が24歳で四国遍路を半年かけて達成しています。その著書「娘巡禮記」では路銀が尽きた時突然多額のお接待を頂いたことなどを指して「三度のお助けがあった」と書いています。また「人の世のどんな不幸もあの道を通るあいだには大概は癒される」と「遍路と人生」でも書いています。 昭和9年には歌人吉井勇が「四国路へわたるといへばいちはやく遍路ごころとなりにけるかも」という歌をのこしています。
また札所の多くに種田山頭火の言葉「人生即遍路」の句碑があります。山頭火は行李の裏にこの言葉を書きつけており昭和14年にも2度目の遍路にでた記録があります。人生の途上にちりばめられているさまざまなできごとは丁度遍路道中の札所のようなものでその都度拝んで通過するということでしょうか。生まれて死ぬという人生そのものが遍路修行に出ているようなものということでもありましょう。
また 札所には岸元総理の達筆の般若心経秘鍵の聯や心経の石碑が奉納されていました。一部の札所にはお参りをされたのでしょう。
池田元総理は大蔵省の税務署長の時悪性の皮膚病にかかり休職して四国遍路に出、全快したことは有名な話です。
元奈良市長の鍵田忠三郎氏も四つの難病で死を宣告されていたのが遍路により治ったと「遍路記」に書いています。氏の遍路記には池田元総理が序文を書いています。元総理の序文です。「私はこの種のものは書かないことにしているが、四国遍路については別である。遍路は私がかって実行したものであり、私の奇病が全快する機縁となったからである。私のものの考え方の基本はなにかあのときの体験に負うところがあるように思う。千数百年前の昔、弘法大師が歩かれた三百六十里の道を一歩一歩あるいた人は天の導きといったものを感じるだろうし、人間は決して一足飛びに進歩するものではないことも良くわかるだろう。・・・人の道を踏み外しては何事も出来ない。私が「嘘をつかず」「正しくあれ」と念願しているのはなによりもこうした天命というか、道というか、目に見えない力の導きに対して謙虚であり、誠実であり正直でありたいと思うからに他ならない。」
与謝野鉄幹、晶子夫妻も多くの句碑を四国路に残しています。又、高浜虚子やホトトギス一門も善通寺などに句碑を残しています。
国会議員も何人も四国を回っているようです。