日々の出来事 2月21日 泉 重千代
今日は、泉 重千代が亡くなった日です。(1986年2月21日)
泉 重千代は、ギネスブックにも載った”120才237日”という大長寿記録を打ち立てた人物です。
この記録は、後にフランス人女性であるジャンヌ・カルマンの122才164日の記録に抜かれるまで世界記録を誇っていました。(男性の長寿記録としては、今もトップです。)
泉 重千代は、鹿児島県徳之島で1865年8月20日(慶応元年6月29日)に生まれました。
そして、地元のサトウキビ畑で90代まで、ズッと働いていました。(労働記録としても最長です。)
1980年のギネスブックでは”世界最長寿人物”として取り上げられ、地元の伊仙町から名誉町民の称号を与えられました。
1985年には、人類初の120才の祝いである”大還暦”の祝賀パーティーが伊仙町で盛大に開催されました。
しかし、その翌年の1986年2月21日(昭和61年2月21日)に、肺炎で痰を詰まらせ亡くなってしまいました。
そして、この泉 重千代が亡くなったニュースは世界中を駆け巡りました。
長寿の記録でギネスブックに載ることになった時、女性レポーターが泉 重千代のところへ取材にやって来ました。
「 長寿の秘訣は何ですか?」
「 酒と女かのぉ~。」
「 お酒は何を飲むのですか?」
「 黒糖焼酎を薄めて飲むんじゃ!」
「 では女性はどういうタイプがお好きですか?」
「 やっぱり、年上の女かのぉ~。」
突っ込みを入れたくなる、泉 重千代の捨て身のギャグです。
かまとバア
本郷かまとさん。
1887年生まれ。
2002年3月18日で長寿世界一になる。
114歳。
家族の日記です。
世界一に今日なった、かまとバア。
かまとバアは、本当、私の中での世界一だった。
実際、今日色々あって、バイトにも行けなかった。
11時頃バイト先で、「今日はかまとバアのことで忙しいので休みます。」と報告して、その後、モスにも放送局が来たらしく、パートさんが言ってくれたらしい。
けど、1日中電話が鳴って走って取って。
かまとバアが今、居るひまわり園も、忙しく、明日帰ってくるとの事。
今日は、PCの先生と分らない所を修正して、夜中の1時過ぎに終わりました。
明日は、色々な方が来て近所の方々にも迷惑をかけてしまいますが、近所の方はスゴク優しい答えを返してくれたので、嬉しかったです。
皆さんから言われました。
「かまとバアが世界一になって嬉しいでしょ???」
って。
私の心の中は、嬉しい思いもある・・・。
複雑です。
でも、長生きしてくれて嬉しいのは確かなんです。
日本一ですら実感ないのに、世界一なんて・・・
これからも、管理人として、曾孫としてかまとバアとシズエバアの番犬をしながら支えていきたいです。
明日、かまとバア、シズエバアがひまわり園から帰ってきます。
本当、皆さんの気持ちありがたく思います。
そして、米国のモード・ファリスルースさんにご冥福お祈り致します。
このおばあちゃん、2日は寝て、次の2日は起きる。
でも寝ている2日の間も、栄養補給は忘れない。
寝てるけど、娘がおまんじゅうを食べさせたり、お茶を飲ませたりしていた。
お菓子を口に持って行くと、自然に口が開いて、モグモグと食べる。
口に入ったお茶が少し熱そうな顔してたのが、ちょっと可愛かった。
老人になると体内リズムも遅くなるということか?
主治医の先生も「話を初めて聞いた時はびっくりしましたわ~」と笑っていた。
☆今日の壺々話
猫
当時、”重千代”と言う名前の猫が、あちこちにウロウロしておりました。
この泉 重千代が有名になった影響です。
これらの猫が”酒と年上”が好きかどうかは不明です。
ばあちゃん
オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。
それをばあちゃんに見せては
「 ここで、モンスターが出るんだよ。」
「 ここに止まったら、三回休み~。」
ばあちゃんはニコニコしながら、
「 ほうそうかい、そいつはすごいねぇ。」
と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがてオレにも友達ができ、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ、家の事情も解消され、自分の家に戻った。
ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、
「 おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ。」
と喜んでくれた。
先日、そのばあちゃんが死んだ。
89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から、”あんたに”と一冊のノートをもらった。
開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか妖怪も混じっていたり。
“ばあちゃん、よく作ったな”とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。
“あがり”と達筆な字で書かれていた、その下に、
「 ○○くんに、友達がいっぱいできますように。」
人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。
そして、ありがとう。
親父
大学が決まり一人暮らしの前日の日
親父が時計をくれた。
金ピカの趣味の悪そうな時計だった。
「 金に困ったら質に入れろ、多少金にはなるだろうから。」
そういってた。
二年生のある日、ギャンブルにハマリ家賃が払えなくなった。
途方にくれていた時、ハッと気がつき、親父の時計を質にもって行った。
紛れもない偽者であることが判明した。
すぐに親父に電話した。
俺「おい!偽者子供につかませんなよ!」
親父「なっ、あてになんねーだろ人のゆうことなんざ。
困った時にこそ裏切られるんだよ。
最後の頼みの綱になー。
がはははは!これが俺の教育だよ。」
親父「でいくら必要なんだ?
金に困ったんだろ?」
俺「・・・・あきれるわ。
十二万貸してください・・・。」
親父「明日振り込むから、何があったかは聞かない。
金がない理由は親にいえない事が多いわな!」
親父「がはははは!女にでもはまったか?
このバカ息子が!!ははは!!」
正直、心底むかついたが、親父の声は俺を安心させてくれた。
今思うと、小さい会社だが経営者らしい教育だったのかなと思う。
そんな親父も去年の夏、ガンで死んだ。
往年の面影も消え、ガリガリになった親父がまた時計をくれた。
まだ箱に入った買ったばかりの時計だった。
必死で笑顔を作りながらいった。
親父「金に・・困ったら質にでも・・・入れろや・・!」
オメガのシーマスターだった。
くしくも、その日は俺の誕生日だった。
俺「親父の時計はあてになんねーから質には入れないよ。」
二人で笑った三日後、親父は死んだ。
親父が死んだ今も、金ピカの時計はメッキもはげたが、まだ時を刻んでいる。
家族
昨年、突発性難聴と診断された妻。
病院に通って服薬治療を続けてきた妻だったが、先週、
「 このままの聴力で安定して行くでしょう。 」
と言われて帰って来た。
きっとショック受けてんだろうなーと家に帰ったが、いつも通りの あっけらかんとした妻だった。
「 私、手話覚えるしかないかなー。」
なんて、笑いながら話してた。
夜、子供が寝た後に、これから必要になるかも…?と、二人でゴロゴロしながら筆談をしてみた。
最初は他愛もない話だったんだが、いきなり妻が、
「 ごめんね。
辛くなったらいつでも言ってね?
私こんなんになっちゃって、いつでも離婚しても良いと思ってるよ。」
って紙に書いた。
俺はつい大きな声で、
「 お前離婚したいのか?!
耳が聞こえないくらいで離婚するわけないだろ!
バカ! 」
って言ってしまった。
妻はそれに、か細い声で、
「 出来る事、一生懸命やるから、頑張るから捨てないでね。」
って泣いた。
妻がこの件で初めて泣いたのを見て、俺も泣いた。
ずっと我慢してたんだって。
不安だったろうな、辛かったんだろうな。
抱き合って泣いてる俺達2人に、びっくりして起きてしまった2歳の娘が、
「 おか~しゃん、おと~しゃ、 泣かないの、ヨチヨチ。」
ってしてくれた。
この温かい家族を、俺はこれからも守って行こうと誓った。
母親
私が小学校五年生の担任になったとき、クラスの生徒の中に勉強ができなくて、服装もだらしない不潔な生徒がいたんです。
その生徒の通知表にはいつも悪いことを記入していました。
あるとき、この生徒が一年生だった頃の記録を見る機会があったんです。
そこには、
「あかるくて、友達好き、人にも親切。勉強もよくできる。」
あきらかに間違っていると思った私は、
気になって二年生以降の記録も調べてみたんです。
二年生の記録には、
「母親が病気になったために世話をしなければならず、ときどき遅刻する。」
三年生の記録には、
「母親が死亡、毎日悲しんでいる。」
四年生の記録には、
「父親が悲しみのあまり、アルコール依存症になってしまった。
暴力をふるわれているかもしれないので注意が必要。」
私は反省しました。今まで悪いことばかり書いてごめんねと。
そして急にこの生徒を愛おしく感じました。
悩みながら一生懸命に生きている姿が浮かびました。
なにかできないかと思った私はある日の放課後、この生徒に、
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、一緒に勉強しない?」
すると男の子は微笑んで、その日から一緒に勉強することになったんです。
六年生になって男の子は私のクラスではなくなったんですが、卒業式の時に
「先生はぼくのお母さんのような人です。ありがとうございました。」
と書かれたカードをくれました。
卒業した後も、数年ごとに手紙をくれるんです。
「先生のおかげで大学の医学部に受かって、奨学金をもらって勉強しています。」
「医者になれたので、患者さんの悲しみを癒せるようにがんばります。」
そして、先日私のもとに届いた手紙は結婚式の招待状でした。
そこにはこう書き添えられていました。
「母の席に座ってください。」
メール
それは私が中学生のころ。
私の両親は共働きでどちらも忙しく、
子供のときから、私はほとんどかまってもらえませんでした。
でも、そんな私の面倒を見てくれたのが、
おばあちゃんでした。
父方のおばあちゃんが親代わりとなり、私を育ててくれたのです。
とてもやさしくて、頼りになるおばあちゃん。
私は、そんなおばあちゃんが大好きでした。
ところが、ある日・・・
なんと、両親が離婚をすることになったのです。
すれ違いの生活が続いた結果でした。
親権は母になり、私は母にひきとられることになりました。
大好きなおばあちゃんと、別れることになったのです。
別れの日、おばあちゃんも私もどちらも涙しました。
おばあちゃんと離れたくない・・・
そう強く願ったのですが、子供の私にはどうすることもできません。
私は、次の日から母と二人暮らしをすることになりました。
おばあちゃんと会えない生活は、
それは寂しいものでした。
おばあちゃんと電話をしようとしたのですが、
母はそれを大変嫌がりました。
母の気持ちも無視はできません。
そこで、名案が浮かびました。
おばあちゃんとメールをしようと考えたのです。
メールなら、母にばれずに、こっそりと連絡できます。
私は貯めていたお小遣いで、
おばあちゃん用に携帯電話をプレゼントしました。
そして、母に気づかれないように、こっそりと電話をかけました。
「おばあちゃん、携帯届いた? これで、私とメールすれば、いいから。」
「でも、おばあちゃんにこんな難しいのできるかしらねえ・・・。」
「大丈夫だって。頑張ったらできるから。」
と、言ったものの、おばあちゃんが本当にメールができるのか不安でした。
おばあちゃんは、大の機械音痴だったんです。
ところが、一週間後。
「おばあちゃんです。メールとどいてますか。」
「おばあちゃん!!!」
と、私は思わず声をあげました。
なんと、おばあちゃんはメールができるようになったのです。
「京は、おちゃかいにいたよ。ともちゃんは何をしとた?」
「もうっ、おばあちゃん間違いだらけ。」
と、最初は携帯を使いなれないのか、
メールの文もおかしかったのですが、
「ともちゃん、今日は学校楽しかったですか?」
「すっごい、おばあちゃん絵文字も使えるようになったんだ。」
と、おばあちゃんはあっという間に携帯電話を使いこなせるようになりました。
その日から、毎日のようにおばあちゃんとメールをしました。
私は、日頃の悩みや出来事をおばあちゃんにすべて相談しました。
「心配せんでええよ。ともちゃんはいい子やから。」
「おばあちゃん・・・。」
おばあちゃんに励まされるたびに、元気がわいてきます。
私にとっておばあちゃんとのメールは生活の一部でした。
そして、月日が流れ、私は高校三年生になりました。
大学受験を目の前にして、毎日のように勉強していました。
ところが、一つ気になることがあったんです。
「おばあちゃん、最近メールの返信おそいわねえ・・・。」
おばあちゃんからのメールがパッタリと減ったのです。
「おばあちゃん、どうしたの? なにかあったの?」
「心配せんでええよ。おばあちゃん、最近忙しくてねえ。
ともちゃん、受験勉強頑張るんだよ。」
おばあちゃんが私の勉強の邪魔をしないように、
わざとメールを減らしているのかもしれないと考えなおし、
なるべく気にしないようにしました。
そして、私は見事志望校に合格。
もう一ヶ月近く、おばあちゃんとメールしていません。
合格の報告をしようとした、その時・・・
なんと珍しく父から電話がかかってきたのです。
「お父さん、珍しいわね。」
「とも子・・・おばあちゃんが昨日亡くなった。」
「えっ!?どういうことよ!」
突然の訃報でした・・・
なんと、おばあちゃんが病気で亡くなったのです。
「おばあちゃん、ずっと体調悪くてな。入院してたんだ。」
「どうして、私に教えてくれないのよ!」
「おばあちゃんがな、おまえの勉強の邪魔になるから、絶対に教えるなって・・・。」
「おばあちゃん・・・。」
そう、メールが減った理由は、
おばあちゃんの体調が悪かったからなんです。
でも、おばあちゃんは、もし私がそのことを知ると、
受験勉強に集中ができなくなると考えて、父に固く口止めをしていたのです。
そして、おばあちゃんのお葬式当日・・・
もう、涙がこぼれてどうしようもありません。
どうしておばあちゃんの体調の悪さに気づけなかったのか、
どうしておばあちゃんに会いにいかなかったのか、
自分を責める言葉が、何度も胸をしめつけました。
そして、形見分けをすることになりました。
おばあちゃんの形見はたった一つ、
小さな箱でした。
おばあちゃんはこの箱をなによりも大事にしていたのです。
そして、その箱を開けると、そこには一冊の本が・・・
それは、携帯電話の説明書でした。
なぜ、携帯電話の説明書を丁寧にしまっているんだろう?
不思議に思いながら私は、ゆっくりページをめくりました。
「おばあちゃん!」
なんとその説明書には、赤線や注意書きがビッシリ書かれていたのです。
よく見ると、ページの縁は手垢で黒ずんでいます。
おばあちゃんは、私とメールをするために、
何度も何度も説明書を読み返して、勉強してくれたのです。
「おばあちゃん、おばあちゃん・・・。」
ページをめくるたびに、涙があふれて止まりませんでした。
おばあちゃんとやりとりしたメールの文章が、
次々と頭に浮かんできました。
そして、最後のページには、
「ともちゃん、今までありがとう」
と、おばあちゃんの字で書かれていたのです。
私は、その説明書を抱きしめながら、
その場で泣きくずれました。
その携帯電話の説明書は、今でも私の宝物です。
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