大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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☆(  しづめばこ P574 )                          

2月22日(木)のつぶやき

2018-02-23 03:04:51 | _HOMEページ_





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日々の出来事 2月22日 アンディ・ウォーホル

2018-02-22 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月22日 アンディ・ウォーホル






 今日は、アンディ・ウォーホルが亡くなった日です。(1987年2月22日)
アンディ・ウォーホルは、アメリカのポップアート・アーティストで最も有名な人物です。
 アンディ・ウォーホルは、1928年8月6日、ペンシルバニア州ピッツバークで貧乏な移民の家に生まれます。
小さい頃から、絵が上手く、スーパーマン、ポパイ、バットマンなどのマンガを多く読んでいました。
 1949年、カーネギー工科大学を卒業した後、ニューヨークで商業アーティストとして出発します。
才能が豊かであったため、広告イラストやウインドウ装飾などを手がけ成功を収めますが、それに飽き足りず芸術分野に進出します。
 1962年、アンディ・ウォーホルはシルクスクリーンの技術をもとに、世に知られるコカ・コーラ、キャンベル・スープ、プレスリー、マリリンモンローなどを制作します。
これら一連の作品は、非常に分かり易く、大衆に受け入れられました。
そして、1965年のフィラデルフィアで行われた個展には入場者が溢れかえり、作品を壁から外さなければならなくなるほどの大盛況で、この状況はウォーホルの名前を一気に世に広めました。
 1970年代には、有名人や企業の依頼が増え、ミック・ジャガー、マイケル・ジャクソン、キャロライン王女などのポートレートや企業のイメージCMを撮影するなど幅広い分野の作品を制作しています。
日本でも、1983年から1984年にかけて、TDKビデオカセットテープのCMにも出演していました。
 そして、アンディ・ウォーホルは美術分野以外にも、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛け、マルチ・アーティストとして活躍しました。
( ルー・リードが結成したバンド”ヴェルヴェット・アンダーグラウンド”の1967年のデビュー・アルバムのジャケットは、アンディ・ウォーホルの”バナナ”です。
また、映画は、ホテル物語の”チェルシー・ガールズ”やオカルト映画”悪魔のはらわた”に関わっています。 )



   アンディ ウォーホル の言葉

“ 人は誰でも、生涯のうちに15分間だけなら有名になれる。”








1945
アンディはビッツパーグのシェンリー高校を卒業する。
カーネギー工科大学に入学。そこで主に「絵画・デザイン科」で実技を学ぷ。
(絵画コース・美術史・芸術社会学・写真心理学などに取り組んだ)。

1948
“Cano”(カーネギー学生文芸誌)の美術主任に採用される。このころ、主にビッツバーグのジョセフ・ホーン・ストアで、ウインド・デコレーターとして働く。

1949
美術部門の学士号をとり、卒業する。6月末、ニューヨークに出て、すぐに自分の作品を持ち回った。このとき、グラマー・マガジン(Glamour Magazine)のティナ・フレデリックスに会い最初の仕事をもらった。(“Success is a job in NewYork”)
この時期、彼は画家のフィリップ・パールスタイン(Philip Pearlstein)夫妻の部屋に六カ月間住みついていた。

1952
〈個展〉ニューヨーク・ヒューゴー画廊「トルーマン・カポーティの作品への15のデッサン」。
ANDY WARHOL名儀で初めての個展の招待状を発行。”ART Digest”、”ARTNews”などの専門誌が小さなコラム記事で、この個展をとり上げる。出品したのはピカソ風からビアズレー風までのスケッチ的なもの。

1956
個展:ニューヨーク・ボドリー画廊「少年たち」(Boy Book)。ニューヨーク・ボドリー画廊「黄金の靴」(Shoe Book)。約6週問て世界を一周する。(サンフランシスコ→ホノルル→東京→ホンコン→マニラ→ジャワ→バリ→シンガポール→ネパール→カルカッタ→カイロ→ローマ・フローレンス→アムステルダム→ニューヨーク)













       marilyn-monroe-1962
















☆今日の壺々話












ウォーホルの自画像







 2011年 05月11日、米ポップアートの旗手である故アンディ・ウォーホルの初期の自画像が11日、クリスティーズがニューヨークで開催したオークションで、3844万ドル(約31億2000万円)で落札された。
ウォーホルの自画像としては過去最高額。
 この自画像は1963―64に制作されたもので、青の色彩でトレンチコートを着たサングラス姿のウォーホルが描かれている。
オークションは16分間にわたって2人の入札者が競り合い、最終的にはヨーロッパのコレクターが落札した。
ウォーホルの作品は8作品が出品され、落札価格の合計は9100万ドルとなった。








        自画像













アート






 昔は、3次元を2次元に変換できなかったんよ。
そんで、「科学的な絵画」として遠近法が生まれたんだけど、これはリアルに方眼紙を使うっつーか糸を引っ張って風景を見て、「奥の建物は、マス目3つ分に見えるな…」と縮尺そのままに紙に落とす手法だった。
こうして、ルネサンス期から「もっとリアルに描きたいよ」という路線が進化して行ったわけだ。
 ところが写真が登場してしまい、絵画にとって写実性は武器では無くなった。
そんな中「画家の目にどう見えたか、そういった感動を強調して描こう」という印象派が誕生。
 その後「光の加減だけに注目して描いてみよう」「立体の角度を変えて再構築しよう」と、レイヨニスムやらキュービズムやら。
つまり、「写真は現実を描けるけど、絵画は現実ではありえない事を描けるぞ」っつー話だな。

 そういった”高尚な絵画”を評価する動きへの皮肉としてポップアートが登場し、萌え絵もそっち側に分類されるので、まあ水と油ですわな。















凡人代表








 大学時代の話。
私はセンスもないのに、バリアフリーの勉強がしたくて建築のザイン系の学科がある大学に行ってた
 やっぱりセンスが無いのは致命傷で、勉強はできたが実技の授業はボロボロ。
私の考える意匠やコンセプトはありふれていると酷評。
周りは自分には思いつかないようなぶっとんだデザインで、自分には向いてないよなぁと悩んでいた。

 卒業もせまったある日。
もちろん、ヘボ作品を出品した卒業研究展の片付けに行くバスの中である教授と出会った。

私「 四年間、ろくな作品作れなかったですw。」
教「 他の生徒の作品をちゃんと見ましたか?」
私「 見ましたよ。
私みたいな安い脳では思いつかないようなすごい作品ばかりでした。
正直、次元が違うのでついていけませんw。」
教「 そんなあなたでも分からない作品、世の中に出て一般の人に理解されると思う?」
私「 …。」
教「 私は君たちに芸術家になってほしいわけではない。
大体の人は企業で世の中に向けて商品を発信するんだ。
理解されない商品を作って誰が買うの。」
私「 そうですね。」
教「 だからあなたはこれから凡人代表としてがんばりなさい。」

四年間の苦悩が、すべて救われた気がした。
もっとはやく先生と話すれば良かったよ。















アート引越しセンター






“アート引越しセンター”の”アート”に意味はなく、単に職業別電話帳で業界トップに来るようにしただけ。
しかし、その後”アーク引越しセンター”に抜かれ、しまいには”アーアーアー引越しセンター”というワケわからんが、間違いなく当分抜かれることがないヤツが現れた。















引越し





 うちの隣の空き地に家が建つことになって、数ヶ月前から工事が始まったんだけど、いつの間にかそこに、白黒柄の猫が出入りするようになった。
すごく人懐こい猫で、私が見つけた時もニャーニャー鳴きながら近寄ってきたし、工事してる大工さんたちにもすぐ懐いたみたいで、大工さんがその猫に話しかける声がしたり、お昼には何かもらってるらしく、お弁当を食べてる大工さんたちと一緒にご飯食べてたりしてた。
 頭のいい猫みたいで、トラックが出入りするとか危なそうな時は塀の上にちゃんと避難してたし、いつもは毎朝、工事現場の入り口に座って大工さんたちが来るのを待ってるけど、工事が休みの日曜日は、材木にかけてあるブルーシートの上で寝てた。

 先月末についに家が完成して、施主さんと工務店の人が挨拶にきた。
その数日後に施主さんが引っ越してきて、また挨拶にきてくれた。
新しいお隣さんは感じの良い人で安心したけど、家ができて以降、猫の姿が見えなくなってたので、どうしたかなぁと気になってた。
 そしたら、最近出かけた時にふと見たら、 お隣の二階の出窓のところにその白黒猫がいたんだよ。
日当たりのいいとこで気持ち良さそうに寝てて、思わず「あっ!」って言いそうになった。
 で、回覧板を回しに行った時に猫のことを聞いてみたんだ。
なんでも、引越しの時に開いてた玄関からたたたたーっと入ってきて、リビングの窓辺に寝転んで勝手に居座ったそうなんだけど、あまりにもそれが当然みたいな顔してたから、猫好きだし、なんかもうそのまま飼うことにしたんだそうな。
 抱っこして玄関まで連れてきてくれたけど、赤い首輪を付けてて、ふわっふわの綺麗な白黒猫になってた。
猫に「お前、良かったねー」って言ったら、 大工さんも同じ事言ってたって、お隣の奥さんがニコニコしてた。
















こわいはなし“絵”






 昔住んでいたアパートの大家から聞いた話です。
俺が大学を卒業し、部屋を引き払って地元に帰る時に大家のオッサンと酒を飲んだ。
そのとき話の成り行きで、住んでいたアパートの話になった。
 大家は、

「 もう引っ越しするんだなァ・・・。」

と言いながら、ウンウンと頷きつつ、

「 じゃ、一つ、話をしてあげようかな・・・。」

と話を始めた。
 大家の話によると、昔、あのアパートを購入した際に一室、妙な部屋があった。
今も建前では荷物部屋になっているが、それは購入した時から開かずの部屋であって、大家はその理由を深くは考えなかった。
 それでも勿体無くもあるので賃貸部屋にしたいが、もしいわくつきなどと言った部屋では困る。
別に過去に事件があったなどとは聞いていないが、一応自分が泊まってみて確認する事にした。
 部屋の中に入ると、ご立派な額縁に入った絵と子供用の学習デスクがあった。
大家は布団とラジオを持ち込んで、夕方から泊り込んだそうだ。
 大家は幽霊など信じない現実派であり、夜もふけるまで電気をつけっぱなしで、

“ ぼけー。”

っとラジオを聞いていた。
 すると、視界の端で絵が動いた気がした。

“ 気のせいか?
いや、こういう事ははっきりさせねば我慢ならん”

それで絵を覗き込んでみる。
 その絵は初見から理解できない絵だった。
昔で言うどこかの街道の途中に、柄の模様の着物が土の上にくしゃくしゃになって落ちており、その真ん中に黒い玉がある。
大家はしげしげと眺めた後、鼻で笑うと布団に戻って電気を消した。
 寝付けなかった大家は部屋の天井を眺めていたが、

“ やっぱり絵が動いている!”

と異変に気付き、飛び起きて電気をつけた。
早足で絵の前に立つ。
 絵は変化していた。
黒い玉は頭部だった。
着物には中身があった。
 描かれていたのは、街道沿いに倒れた着物姿の女性だった。
内容を理解した大家は混乱した。

“ 何でこんな悪趣味な絵がアパートに?”
“ こんな気持ち悪い絵を誰が置いた?”

 そうこうするうちに、さらに絵が変化した。
くしゃくしゃだった着物は膨らんで、今ではもうはっきりと人間が着ているように見える。
黒い玉にしか見えなかった頭頂部は、日本髪の光沢までも鮮明になっている。
頭には赤いカンザシがささっており、その頭部がゆっくりと動いた。
 大家は身動きすら忘れ、絵に釘付けになっていた。
女の顔が見えた。
血まみれの赤い顔だ。
目は潰れ、唇は膨れ上がり、顔面中に血が滴り落ちて光沢に輝いていた。
 女は倒れたまま、

“ コツン。”

とアゴを地面に置いて大家の方に顔面を固定した。
 女は首を困ったようにかしげた。
ゆっくりと首が傾いていく。
大家は女性の顔につられて、注視したままに自分も首をかしげた。
 しかし、女性の首は人間には不可能なほどに回っていく。

“ ころん。”

女性の首が横に転がっていった。
残った胴体の首からは血の奔流。
大家はそこで気絶した。
 翌朝に絵を処分しようと恐る恐る近寄ると、そこには絵など無かった。
ご立派な枠に収まった、ただの鏡があった。

 そこで、俺は聞いてみた。

「 当然、全部処分したんでしょ?」

大家は平然と答えた。

「 いや、そのままだよ。」

















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2月21日(水)のつぶやき

2018-02-22 03:07:35 | _HOMEページ_






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日々の出来事 2月21日 泉 重千代

2018-02-21 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月21日 泉 重千代






 今日は、泉 重千代が亡くなった日です。(1986年2月21日)
泉 重千代は、ギネスブックにも載った”120才237日”という大長寿記録を打ち立てた人物です。
この記録は、後にフランス人女性であるジャンヌ・カルマンの122才164日の記録に抜かれるまで世界記録を誇っていました。(男性の長寿記録としては、今もトップです。)
 泉 重千代は、鹿児島県徳之島で1865年8月20日(慶応元年6月29日)に生まれました。
そして、地元のサトウキビ畑で90代まで、ズッと働いていました。(労働記録としても最長です。)
 1980年のギネスブックでは”世界最長寿人物”として取り上げられ、地元の伊仙町から名誉町民の称号を与えられました。
1985年には、人類初の120才の祝いである”大還暦”の祝賀パーティーが伊仙町で盛大に開催されました。
しかし、その翌年の1986年2月21日(昭和61年2月21日)に、肺炎で痰を詰まらせ亡くなってしまいました。
そして、この泉 重千代が亡くなったニュースは世界中を駆け巡りました。

 長寿の記録でギネスブックに載ることになった時、女性レポーターが泉 重千代のところへ取材にやって来ました。

「 長寿の秘訣は何ですか?」
「 酒と女かのぉ~。」
「 お酒は何を飲むのですか?」
「 黒糖焼酎を薄めて飲むんじゃ!」
「 では女性はどういうタイプがお好きですか?」
「 やっぱり、年上の女かのぉ~。」

突っ込みを入れたくなる、泉 重千代の捨て身のギャグです。







かまとバア




本郷かまとさん。
1887年生まれ。
2002年3月18日で長寿世界一になる。
114歳。


家族の日記です。

 世界一に今日なった、かまとバア。
かまとバアは、本当、私の中での世界一だった。
実際、今日色々あって、バイトにも行けなかった。
 11時頃バイト先で、「今日はかまとバアのことで忙しいので休みます。」と報告して、その後、モスにも放送局が来たらしく、パートさんが言ってくれたらしい。
けど、1日中電話が鳴って走って取って。
 かまとバアが今、居るひまわり園も、忙しく、明日帰ってくるとの事。
今日は、PCの先生と分らない所を修正して、夜中の1時過ぎに終わりました。
明日は、色々な方が来て近所の方々にも迷惑をかけてしまいますが、近所の方はスゴク優しい答えを返してくれたので、嬉しかったです。
 皆さんから言われました。
「かまとバアが世界一になって嬉しいでしょ???」
って。
私の心の中は、嬉しい思いもある・・・。
複雑です。
 でも、長生きしてくれて嬉しいのは確かなんです。
日本一ですら実感ないのに、世界一なんて・・・
これからも、管理人として、曾孫としてかまとバアとシズエバアの番犬をしながら支えていきたいです。
 明日、かまとバア、シズエバアがひまわり園から帰ってきます。
本当、皆さんの気持ちありがたく思います。
そして、米国のモード・ファリスルースさんにご冥福お祈り致します。


 このおばあちゃん、2日は寝て、次の2日は起きる。
でも寝ている2日の間も、栄養補給は忘れない。
寝てるけど、娘がおまんじゅうを食べさせたり、お茶を飲ませたりしていた。
お菓子を口に持って行くと、自然に口が開いて、モグモグと食べる。
口に入ったお茶が少し熱そうな顔してたのが、ちょっと可愛かった。
 老人になると体内リズムも遅くなるということか?
主治医の先生も「話を初めて聞いた時はびっくりしましたわ~」と笑っていた。



















☆今日の壺々話

















 当時、”重千代”と言う名前の猫が、あちこちにウロウロしておりました。
この泉 重千代が有名になった影響です。
これらの猫が”酒と年上”が好きかどうかは不明です。




















ばあちゃん









 オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。
それをばあちゃんに見せては

「 ここで、モンスターが出るんだよ。」
「 ここに止まったら、三回休み~。」

ばあちゃんはニコニコしながら、

「 ほうそうかい、そいつはすごいねぇ。」

と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
 やがてオレにも友達ができ、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ、家の事情も解消され、自分の家に戻った。
ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、

「 おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ。」

と喜んでくれた。

 先日、そのばあちゃんが死んだ。
89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から、”あんたに”と一冊のノートをもらった。
 開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか妖怪も混じっていたり。

“ばあちゃん、よく作ったな”とちょっと苦笑していた。

最後のあがりのページを見た。

“あがり”と達筆な字で書かれていた、その下に、

「 ○○くんに、友達がいっぱいできますように。」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。
そして、ありがとう。

















親父







 大学が決まり一人暮らしの前日の日
親父が時計をくれた。
金ピカの趣味の悪そうな時計だった。

「 金に困ったら質に入れろ、多少金にはなるだろうから。」

そういってた。
 二年生のある日、ギャンブルにハマリ家賃が払えなくなった。
途方にくれていた時、ハッと気がつき、親父の時計を質にもって行った。
紛れもない偽者であることが判明した。
 すぐに親父に電話した。

俺「おい!偽者子供につかませんなよ!」

親父「なっ、あてになんねーだろ人のゆうことなんざ。
困った時にこそ裏切られるんだよ。
最後の頼みの綱になー。
がはははは!これが俺の教育だよ。」

親父「でいくら必要なんだ?
金に困ったんだろ?」

俺「・・・・あきれるわ。
十二万貸してください・・・。」

親父「明日振り込むから、何があったかは聞かない。
金がない理由は親にいえない事が多いわな!」

親父「がはははは!女にでもはまったか?
このバカ息子が!!ははは!!」

 正直、心底むかついたが、親父の声は俺を安心させてくれた。
今思うと、小さい会社だが経営者らしい教育だったのかなと思う。
 そんな親父も去年の夏、ガンで死んだ。
往年の面影も消え、ガリガリになった親父がまた時計をくれた。
まだ箱に入った買ったばかりの時計だった。
 必死で笑顔を作りながらいった。

親父「金に・・困ったら質にでも・・・入れろや・・!」

オメガのシーマスターだった。
くしくも、その日は俺の誕生日だった。

俺「親父の時計はあてになんねーから質には入れないよ。」

二人で笑った三日後、親父は死んだ。
親父が死んだ今も、金ピカの時計はメッキもはげたが、まだ時を刻んでいる。

















家族






 昨年、突発性難聴と診断された妻。
病院に通って服薬治療を続けてきた妻だったが、先週、

「 このままの聴力で安定して行くでしょう。 」

と言われて帰って来た。
 きっとショック受けてんだろうなーと家に帰ったが、いつも通りの あっけらかんとした妻だった。

「 私、手話覚えるしかないかなー。」

なんて、笑いながら話してた。

 夜、子供が寝た後に、これから必要になるかも…?と、二人でゴロゴロしながら筆談をしてみた。
最初は他愛もない話だったんだが、いきなり妻が、

「 ごめんね。
辛くなったらいつでも言ってね?
私こんなんになっちゃって、いつでも離婚しても良いと思ってるよ。」

って紙に書いた。
 俺はつい大きな声で、

「 お前離婚したいのか?! 
耳が聞こえないくらいで離婚するわけないだろ! 
バカ! 」

って言ってしまった。
 妻はそれに、か細い声で、

「 出来る事、一生懸命やるから、頑張るから捨てないでね。」 

って泣いた。
 妻がこの件で初めて泣いたのを見て、俺も泣いた。
ずっと我慢してたんだって。 
不安だったろうな、辛かったんだろうな。
抱き合って泣いてる俺達2人に、びっくりして起きてしまった2歳の娘が、

「 おか~しゃん、おと~しゃ、 泣かないの、ヨチヨチ。」

ってしてくれた。
この温かい家族を、俺はこれからも守って行こうと誓った。
















母親







 私が小学校五年生の担任になったとき、クラスの生徒の中に勉強ができなくて、服装もだらしない不潔な生徒がいたんです。
その生徒の通知表にはいつも悪いことを記入していました。
あるとき、この生徒が一年生だった頃の記録を見る機会があったんです。

そこには、
「あかるくて、友達好き、人にも親切。勉強もよくできる。」
あきらかに間違っていると思った私は、
気になって二年生以降の記録も調べてみたんです。

二年生の記録には、
「母親が病気になったために世話をしなければならず、ときどき遅刻する。」

三年生の記録には、
「母親が死亡、毎日悲しんでいる。」

四年生の記録には、
「父親が悲しみのあまり、アルコール依存症になってしまった。
暴力をふるわれているかもしれないので注意が必要。」


 私は反省しました。今まで悪いことばかり書いてごめんねと。
そして急にこの生徒を愛おしく感じました。
悩みながら一生懸命に生きている姿が浮かびました。

なにかできないかと思った私はある日の放課後、この生徒に、
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、一緒に勉強しない?」
すると男の子は微笑んで、その日から一緒に勉強することになったんです。


六年生になって男の子は私のクラスではなくなったんですが、卒業式の時に
「先生はぼくのお母さんのような人です。ありがとうございました。」
と書かれたカードをくれました。
卒業した後も、数年ごとに手紙をくれるんです。
「先生のおかげで大学の医学部に受かって、奨学金をもらって勉強しています。」
「医者になれたので、患者さんの悲しみを癒せるようにがんばります。」

そして、先日私のもとに届いた手紙は結婚式の招待状でした。
そこにはこう書き添えられていました。

「母の席に座ってください。」
















メール







それは私が中学生のころ。

私の両親は共働きでどちらも忙しく、
子供のときから、私はほとんどかまってもらえませんでした。

でも、そんな私の面倒を見てくれたのが、
おばあちゃんでした。

父方のおばあちゃんが親代わりとなり、私を育ててくれたのです。
とてもやさしくて、頼りになるおばあちゃん。
私は、そんなおばあちゃんが大好きでした。

ところが、ある日・・・
なんと、両親が離婚をすることになったのです。
すれ違いの生活が続いた結果でした。

親権は母になり、私は母にひきとられることになりました。
大好きなおばあちゃんと、別れることになったのです。

別れの日、おばあちゃんも私もどちらも涙しました。
おばあちゃんと離れたくない・・・
そう強く願ったのですが、子供の私にはどうすることもできません。
私は、次の日から母と二人暮らしをすることになりました。

おばあちゃんと会えない生活は、
それは寂しいものでした。

おばあちゃんと電話をしようとしたのですが、
母はそれを大変嫌がりました。

母の気持ちも無視はできません。

そこで、名案が浮かびました。
おばあちゃんとメールをしようと考えたのです。
メールなら、母にばれずに、こっそりと連絡できます。

私は貯めていたお小遣いで、
おばあちゃん用に携帯電話をプレゼントしました。

そして、母に気づかれないように、こっそりと電話をかけました。

「おばあちゃん、携帯届いた? これで、私とメールすれば、いいから。」
「でも、おばあちゃんにこんな難しいのできるかしらねえ・・・。」
「大丈夫だって。頑張ったらできるから。」

と、言ったものの、おばあちゃんが本当にメールができるのか不安でした。

おばあちゃんは、大の機械音痴だったんです。

ところが、一週間後。

「おばあちゃんです。メールとどいてますか。」

「おばあちゃん!!!」
と、私は思わず声をあげました。

なんと、おばあちゃんはメールができるようになったのです。

「京は、おちゃかいにいたよ。ともちゃんは何をしとた?」
「もうっ、おばあちゃん間違いだらけ。」
と、最初は携帯を使いなれないのか、
メールの文もおかしかったのですが、

「ともちゃん、今日は学校楽しかったですか?」
「すっごい、おばあちゃん絵文字も使えるようになったんだ。」

と、おばあちゃんはあっという間に携帯電話を使いこなせるようになりました。

その日から、毎日のようにおばあちゃんとメールをしました。
私は、日頃の悩みや出来事をおばあちゃんにすべて相談しました。

「心配せんでええよ。ともちゃんはいい子やから。」
「おばあちゃん・・・。」

おばあちゃんに励まされるたびに、元気がわいてきます。
私にとっておばあちゃんとのメールは生活の一部でした。

そして、月日が流れ、私は高校三年生になりました。
大学受験を目の前にして、毎日のように勉強していました。

ところが、一つ気になることがあったんです。
「おばあちゃん、最近メールの返信おそいわねえ・・・。」

おばあちゃんからのメールがパッタリと減ったのです。

「おばあちゃん、どうしたの? なにかあったの?」
「心配せんでええよ。おばあちゃん、最近忙しくてねえ。
 ともちゃん、受験勉強頑張るんだよ。」

おばあちゃんが私の勉強の邪魔をしないように、
わざとメールを減らしているのかもしれないと考えなおし、
なるべく気にしないようにしました。

そして、私は見事志望校に合格。
もう一ヶ月近く、おばあちゃんとメールしていません。
合格の報告をしようとした、その時・・・

なんと珍しく父から電話がかかってきたのです。

「お父さん、珍しいわね。」
「とも子・・・おばあちゃんが昨日亡くなった。」
「えっ!?どういうことよ!」

突然の訃報でした・・・
なんと、おばあちゃんが病気で亡くなったのです。

「おばあちゃん、ずっと体調悪くてな。入院してたんだ。」
「どうして、私に教えてくれないのよ!」
「おばあちゃんがな、おまえの勉強の邪魔になるから、絶対に教えるなって・・・。」
「おばあちゃん・・・。」

そう、メールが減った理由は、
おばあちゃんの体調が悪かったからなんです。

でも、おばあちゃんは、もし私がそのことを知ると、
受験勉強に集中ができなくなると考えて、父に固く口止めをしていたのです。

そして、おばあちゃんのお葬式当日・・・

もう、涙がこぼれてどうしようもありません。

どうしておばあちゃんの体調の悪さに気づけなかったのか、
どうしておばあちゃんに会いにいかなかったのか、
自分を責める言葉が、何度も胸をしめつけました。

そして、形見分けをすることになりました。
おばあちゃんの形見はたった一つ、
小さな箱でした。

おばあちゃんはこの箱をなによりも大事にしていたのです。
そして、その箱を開けると、そこには一冊の本が・・・
それは、携帯電話の説明書でした。

なぜ、携帯電話の説明書を丁寧にしまっているんだろう?

不思議に思いながら私は、ゆっくりページをめくりました。

「おばあちゃん!」

なんとその説明書には、赤線や注意書きがビッシリ書かれていたのです。
よく見ると、ページの縁は手垢で黒ずんでいます。

おばあちゃんは、私とメールをするために、
何度も何度も説明書を読み返して、勉強してくれたのです。

「おばあちゃん、おばあちゃん・・・。」

ページをめくるたびに、涙があふれて止まりませんでした。
おばあちゃんとやりとりしたメールの文章が、
次々と頭に浮かんできました。

そして、最後のページには、

「ともちゃん、今までありがとう」

と、おばあちゃんの字で書かれていたのです。

私は、その説明書を抱きしめながら、
その場で泣きくずれました。

その携帯電話の説明書は、今でも私の宝物です。















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2月20日(火)のつぶやき

2018-02-21 03:03:18 | _HOMEページ_




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日々の出来事 2月20日 ルバング島

2018-02-20 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月20日 ルバング島






 今日は、ルバング島で小野田寛郎が発見された日です。(1974年2月20日)
小野田寛郎は、太平洋戦争が終結したにも拘らず、29年間フィリピンのルバング島で戦闘を続けていました。
 陸軍少尉で情報将校であった小野田寛郎は、現地で手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、日本や世界の情勢を分析していました。
日本の情勢については、皇太子御成婚や東京オリンピックから、日本は繁栄しており、戦争に負けたとは思っておりませんでした。
 小野田寛郎は、終戦直後の日本はアメリカの傀儡政権であり、実は満州に日本の亡命政権があると考えました。
そして、朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を、満州に亡命した日本政権の反撃に対するもの、また、ベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見て、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと考えました。
これは、小野田寛郎が所属していた諜報機関での作戦行動予定と矛盾が無いことから起こった勘違いで、その結果、29年間戦い続けることになってしまったのです。
 1972年1月にグアム島で横井庄一元伍長が発見され、フィリピンにも元日本兵がいると言う噂は流れていました。
フィリピンで何回か捜索はされましたが、ゲリラ戦の小野田寛郎は見付かりません。
 この小野田寛郎と初めて接触したのが冒険家の鈴木紀夫です。
鈴木紀夫は、”戦争の生き証人と直接会って話してみたい”とルバング島を訪れ、偶然に小野田寛郎と出会います。
そして、鈴木紀夫は”直属の上官の命令解除があれば任務を離れる”との小野田寛郎の言葉を得、元上司の谷口義美少佐から小野田寛郎の任務解除と帰国命令が下り、ようやく小野田寛郎の戦争は終わりました。
 小野田寛郎は、帰国した半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場の経営を始めます。
そして、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛め”小野田自然塾”を主宰、また講演活動を行うなど、日本とブラジルを往復しながら社会貢献活動を続けていましたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去しました。
 小野田死去に際し、ニューヨーク・タイムズ紙は、“戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した”とし、小野田が1974年3月に当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、“多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった”と形容し論評しました。
 なお、小野田寛郎を見付けた鈴木紀夫は、1986年に”雪男探し”にヒマラヤを訪れ、ダウラギリ峰で遭難、38才で亡くなりました。


   B&Bの昔の漫才

島田洋七が島田洋八のアフロヘアに向かって叫びます。

「 小野田さ~~~ん!!」




















☆今日の壺々話













ワニ







 ルバング島の河口付近で釣りをしていた男のボートが転覆した。
男は岸に泳ごうとしたが、河口のあたりの岸辺にはワニがいるかもしれないと怖くなった。

岸辺を散歩している老人が見えたので、男は叫んだ。
「 岸辺の方にワニがいますか~!」

老人が返事した。
「 いや、いないよ~! もう、この辺では何年もみないよ~!」

安心した男は、岸に向かって泳ぎだした。

岸まで半分ぐらい泳いだところで、また、叫んだ。
「 どうやってワニを追い払ったんですか~!」

老人が返事した。
「 わしらはなにもしてないよ~! サメが全部食ってしまったからだよ~!」




















ジャングル








 探検家がアマゾンのジャングル深くを探険していたとき、突然人喰い人種の大群に取り囲まれた。
彼は心の中でつぶやいた。

「 神様、俺の悪運もつきました。」

そのとき天からひとすじの光が射し、声が響きわたった。

「 迷える仔羊よ、お前の運はまだ尽きていない。
さあ足元の石を取り、彼らの酋長の頭を殴りなさい。」

 探検家は勇気をふりしぼって石をとりあげ、酋長の頭を目一杯殴った。
足元には死体が転がり、周囲には怒りに燃える人喰い人種の群れ。
探検家がどうなるかと息を殺していると、またも天からの声が響いた。

「 OK、仔羊よ、これでお前の運は尽きた。」

















水木しげる





 ゲゲゲの鬼太郎の作者・水木しげるは南方へ派兵された。
最前線で水木は片腕を失い、所属した大隊は全滅して、水木は後方へ移動になった。
水木が新たに配置された部隊は上官のイジメが酷く、水木は特にイジメられたらしい。
 ある日、その上官がマラリアで倒れた。
水木が見舞いに行き「何か欲しい物はありませんか?」と尋ねると上官は「パパイヤが食べたい」と答えた。
 比較的暇で安全な後方部隊勤務だった為、水木は空いた時間を使ってはジャングルに分け入ってパパイヤを探し、ついに立派なパパイヤの実を見つけた。
しかし、あまりに立派なパパイヤだった為、持って帰る途中で我慢できなくなり水木本人が食べてしまった。
 その後なかなかパパイヤは見つからず、ついに上官は死んでしまった。
上官は死ぬ間際大きな声で「パパイヤー!」と叫んだそうだ。



















陸軍特攻基地九州知覧にて





 昭和20年6月6日、特攻隊員に愛された富屋食堂の横を流れる小川に無数のホタルが飛んでいた。
それを見た宮川三郎軍曹が、店主で特攻隊員の母と言われた鳥浜トメさんに、

「 母さん、お世話になりました。
明日出撃します。
私が国の為に散っても泣かないで下さい。
ホタルになって必ず帰ってきますから。
今頃、夜の9時頃に帰るので戸を少しあけておいて。」

 そして翌日沖縄方面で特攻戦死。
その夜の事、いつもの様に特攻隊員でいっぱいの富屋食堂で時計が9時を告げた時、ちょっと開いていた戸の隙間から、大きなホタルが一匹すーっと入ってきて店の中を飛び回り出したのです。
 店の娘たちが、

「 あ、宮川さんだ!お母さん、宮川さんが帰ってきた!」

と叫んだ。
台所から飛び出してきたトミさんはそれを見て、普段は余り涙を見せないのに号泣した。食堂にいた隊員たちも息を呑んでホタルを見つめていた。




















資料館






 高校卒業後、すぐに自衛隊に入隊した俺だったんだが、7月の後期教育のある日、駐屯地にある小さい資料館の掃除ってのがあったんだ。
班長の説明では、この駐屯地は元々海軍航空隊の基地で、旧日本軍の遺物みたいなのが置いてあり、駐屯地祭で一般開放されるから、それに控えた掃除をやるのが教育隊の恒例行事なんだとか。
軍オタの同期は凄い喜んでたが、俺は興味無いのでどうでもよかった。
むしろ、戦闘訓練や射撃訓練、行軍訓練やるよりラクでいいやー程度に思ってた。

 んで、掃除が始まると、俺はラクそうなショーケースの中の掃除をやっていたんだが、ラップみたいなのに包まれた古い手紙みたいなのを、手にとって台から外そうとした時、シミが入って字も薄くなって読みにくいんだけど、何コレーっと読もうとしたら、何故か物凄い悲しくなり、凄い勢いで涙がボロボロと流れたんだ、字も読めないのに。
 俺は日本軍信仰とか全くないので、自分でも何で泣いてるのか良く分らなかった。
というか、涙が流れ始めてから、自分が自分じゃないような変な感覚に陥ってて、その後、マッチョ同期と班付に抱えられて医務室へ運ばれたらしいのだが、その事は全然覚えていない。
ただ、同期や班付の話だと、物凄い自虐モードで、ずっと何かに謝ってたらしい。

 その日の課業外、すっかり復活した俺は、キレ気味の別の班の班長に呼び出されて、色々聞かれるハメになった。
キレかかってて怖いので全てを正直に話すと、どうもその班長は心霊事例でノイローゼになるケースもあるので、調べておきたかったそうな。
班長の話だと、演習場の中にある旧日本軍時代には弾薬庫や滑走路だった場所には、日常的にいるそうで、そういった類のモノが悪さしていないか、という質問だったが、生まれてこの方幽霊なんぞ見た事ないし、そういった体験なんぞ全くないので、班長の期待にはそぐわなかったようだ。
 結局、同期に下手な不安を与えると色々マズイので、俺は表面上、旧日本軍信者で、毎年終戦記念日には靖国神社に参拝してるような右翼君、という事にされた。

 俺は元々大学進学の資金確保の為に入隊したので、2任期4年で退官。
昨日開かれた同期会の飲み会では、東日本大震災に派遣されてた現役組の、心霊、非心霊含めた色々シャレにならない話でどんよりしていた頃、丁度あの手紙みたいなモノを思い出して班長に聞いてみると、あの手紙は志願した特攻隊員が家族に宛てた最期の手紙で、その遺族から提供して頂いた大変貴重な資料だった。
そして、その特攻隊員の戦果は、戦果不明(班長曰く、特攻失敗)だったそうだ。

 その後、班長に色々と話を聞かせてもらったのだが、旧日本軍兵士の幽霊というのは、風貌からとても怖いイメージがあるが、基本的にこちらからちょっかいをかけなければ、害のない幽霊が殆どだそうだ。
逆に、ちょっかいをかける相手に対しては、とことん容赦が無いとのこと。
 そして、俺がこの体験をしたとき、班長は俺が手紙に何かイタズラをしたと思っていたようで、俺を呼び出した時は、泣いたり笑ったり出来ないぐらいシバいてやる予定だったと笑顔で言われた。
あの時嘘を言ってたら、と思うと今でも背筋がゾっとする。















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2月19日(月)のつぶやき

2018-02-20 03:03:38 | _HOMEページ_
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日々の出来事 2月19日 浅間山荘

2018-02-19 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月19日 浅間山荘






 今日は、浅間山荘事件が起こった日です。(1972年2月19日)
浅間山荘事件は、連合赤軍が長野県軽井沢町にある河合楽器の保養所”浅間山荘”に、管理人の妻を人質にして10日間立て籠った事件です。
 連合赤軍は栃木県真岡市の銃砲店を襲い、銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていました。
1972年2月19日、連合赤軍の5人は軽井沢にある無人のさつき荘に侵入、台所にあった食料を食べて休息していたところへ、捜索中の長野県警機動隊が近付き、これに対して発砲しました。
その後、連合赤軍は近くにあった浅間山荘に逃げ込み、人質をとって立て籠もります。
 警察は、浅間山荘への送電の停止、騒音や放水、ガス弾で圧力を掛けるとともに、親族による説得をしましたが、連合赤軍はこれに発砲する始末でした。
最終的には立て籠もって10日後の2月28日に、クレーン車に吊り下げた鉄球で浅間山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が決行され、犯人は全員検挙、人質は無事救出されました。
 そして、鉄球が浅間山荘を破壊する映像や機動隊が突入するところはテレビ中継され、人質が救出された瞬間は視聴率90%弱を記録しました。
また、突入当日の10時間余りの生中継の平均視聴率は50.8%を記録しています。
これは今も報道特別番組の視聴率の最高記録となっています。




オマケ
 ついでに言うと、機動隊員に配られた弁当は非常に寒い現地では凍ってしまい、代わりに日清のカップヌードルが配られていました。
この高い視聴率のもと、テレビ中継でカップヌードルを美味そうに食べる機動隊員達の姿がテレビに大きく映し出され、それまであまり売れていなかったカップヌードルの売り上げが驚異的に伸びました。
カップヌードルが世間に認められた瞬間です。






















☆今日の壺々話












学校にスゴイヤツいる?









俺の学校では、中学の時、水筒にお湯入れてカップヌードル食って、永谷園のお吸い物吸ってる人がいてびびった。

俺は水筒にめんつゆ入れて、ざるとソバ持ってきて水道ですすいで食ってたよ。

垂直跳び測定で骨折したヤツ。

生徒会副会長兼体育祭実行委員長兼図書委員長兼剣道部のヤツならいた。

小学生の頃、虫の交尾ビデオみせながら「大体オスが上ですね」と解説していた先生に向かって、「人間は?」と聞いた女の子がいました。あれは素だった。

学校から自宅までの片道28キロを、雨の日も雪の日も、チャリで通ってるヤツがいた。
しかも三年間、皆勤賞だったらしく卒業式で表彰されていた。

雨が降ってもいないのに、毎日、長靴で登校して来る先輩。

野球の練習中、バットが頭に直撃して、血を噴き出しながらも、笑顔で「大丈夫っすよ」って言った直後、意識不明になったY君(三日後に無事生還)。

修学旅行でシンガポールに行った時に、インドネシア系の現地人から、何やら親しげに話かけられて、連れさられそうになったT君。

制服着てんのに、先生だと間違われるヤツ。

眉毛を剃って注意されたヤツがマッキーの極太で、眉を書いて一日中すごしてたヤツ。

勉強全然できないのに百人一首はほとんど暗記してるヤツ。




















浅間山荘







 炎が、暖炉の中で灰色の煙を吐き出しながら燃え続けていた。
赤い光が漏れて、辺りを照らし出している。
 そこは小さな山荘だった。
もう、何年も放置されていたのだろう。
窓ガラスはひび割れ、もはや役目を果していない。
大気には埃と黴が満ちて、壁や朽ち果てた家具には蜘蛛の巣があちこちに絡み付いている。
 何処かから漏れた隙間風が、人のすすり泣くような声を立てながら、寒気を部屋に吹き込んでいた。
暖炉の前には、一組の男女がいた。
その片割れ、ブレザーに身を包んだ少女は中腰で座り込み、炎を見つめていた。
銀色のフレームとレンズが赤い光を受けて煌いている。
彼女は手馴れた手つきで薪を放り込み、火ばさみで奥へと押し込んだ。

「 先輩、案山子の語源って知ってますか?」

 少女は燃え盛る炎を見つめながら、どこか慰めるような声で背後に立つ少年に呟く。
先輩と呼ばれた彼、学生服の上から一枚コートを羽織った少年は呆然とその場に立ち尽くしているようだった。
 彼の虚ろ気な視線は生気が無いように淀んでいる。
だが、彼の視線もまた、炎の中に向けられていた。

「 知らんよ。意味なんてあったのか。」

押し堪えたような、怒りを含んだ声。
それを聞くと、少女は小さく苦笑しながら答えた。

「 嗅がし……臭いを嗅がせるって意味。
私達の知る案山子は人形を作って、鳥獣の視覚を騙して作物を防御していますが、本来、案山子は獣肉を焼き焦がして串に刺し、肉の臭いで鳥獣を遠ざけるためのものだったらしく、その名残が今でも残っているそうなんです。」

彼女は、少し得意げな声で言葉を続ける。

「 勿論、実質的な効果はあったんでしょう。
でも私は最初からそれを目的としてやったとは思えないんです。
作物を荒らした鳥獣への恨み、それがあったからこそ獣を捕まえて串刺しにして焼き殺すという残酷な手段を選んだと思うんですよ。」
「 生贄、とも考えられるんじゃないか?」

言葉を縫って発せられた少年の問いに、彼女は頷いた。

「 勿論ですよ。
豊穣神には生贄がつきものですからね。
当時は肥料を与えれば作物が育つ、なんて合理的に考えてたわけじゃないでしょうから、命を奪い、その血の力を神に捧げる事で、作物を守ろうと思っていたのかもしれませんね。」
「 そうか。」

 少年は答えると、おもむろコートに手をかけ、ゆっくりと脱いだ。紺色のブレザーには所々、黒々とした染みがこびり付いて、固まっている。

「 ところで、俺たちの案山子は誰から、何を守るんだ?」
「 警察から、私達を。それ以外何があるんですか?」

 少女は再び薪をつかみ、炎の中に投げ入れた。
暖炉の中では、薪と共に黒く焼き爛れた肉の塊が転がっている。
そこから溶け出した皮脂は黄色い火花を放って爆ぜ、更に赤く部屋を染め上げていった。

「 まぁ、所詮は案山子、気休めですけどね。」

自嘲するような暗い笑いを浮かべて、彼女は次の薪に手を伸ばした。




















トンネル








 1週間前に長野と群馬の県境にある山に登山に行ったんだ。
頂上で朝日が見たかったから、2時前には山の麓まできていた。
もうその山は4度目の登山だったから、ナビも設定しないで山道に入った。

 荒れた一本道の山道で5kmほどいくと山荘と登山道があるので、いつもその駐車場に止めるんだ。
夜で暗かったけど、見慣れた看板もあったし、まったく心配せず進んでたんだけどいっこうに目的地に着かなかった。
一本道だから迷う事ないけど、新しく山道できて迷ったのかと思って携帯のマップみたんだ。

その時計を見たら0時30過ぎだった。

“ あれ?俺さっき麓では2時だったように見えたんだけど、寝ぼけてたかな?”

と思いながらGPSと登山用の地図で場所を確認して、間違ってないように見えたから一本道を進んだんだ。
でも、正直このときもっと自分を疑っていればって今でもちょっと後悔してる。
で、その後も車でゆっくり道を進んでいったんだ。

30分くらいかな?なにか建物が見えてきたんだよ。

“ おぉ、山荘ついたかな?”


とおもったんだけど、なぜか車止めのフェンスがあって通れなかったから、そこに車止めて徒歩で行く事にしたんだ。
でも、そこで俺が見た建物は見慣れた山荘なんかじゃなかったんだよ。

 そこにあったのは駅。
しかも電気が1カ所だけついてて、どこから伸びてるか暗くて見えないけど、まだ使われてそうなさびてない線路が横を走ってた。
 どうやら俺は線路沿いを車で走ってたみたいなんだ。
もちろん電車なんか今まで見た事ないし、こんな所電車が通ってるはずも無いと思った。
その時は貨物車の非常待機線かなにかかと思った。
 それでまぁ、気になったし駅に近づいてみたんだよ。
駅は単線の駅でコンクリートで出来ていて、そこまでボロくはなかった。
灯りは1つだけ、でもこれが今にも消えそうな電灯で写真は取ったけど、うまく映らなかった。
 駅には看板があった。
ひらがなで何か書いてあったけど、擦れていて錆もあり良く読めなかった。
とにかくひらがなの駅名だった。
ホームの端っこから先は山になっていて、トンネルが通っていた。

 それで、そのトンネルを覗いていたんだ。
やっぱり興味あるからね。
そしたら、トンネルの奥の方から太鼓の音みたいなのが聞こえたんだ。
持ってたライトで照らしてみたものの真っ暗で何も見えないし、太鼓の音は段々近くなってきたんだよ。

 人がいるなら道も聞けるし待ってみようと思って、 「すみませーん」とトンネルに向かって声をかけたんだ。
するとピタッと太鼓の音が止まって辺が静かになったんだ。
 次の瞬間良い歳こいて小便ちびりそうなくらいびびった。
何となく振り向いたら後ろに人が立ってたんだよ。

「 どうされました?」って聞かれたから、ちょっと怖かったけど、
「 道に迷ってしまって・・・」と今までの経緯を話してみたんだよ。

 でも、よく見るとその人の装備が変なんだよ。
まず、ライトを持ってなかった。
こんな夜中に登山するのにライト持ってないのはおかしい。
というか素人でも持ってくる。
 つぎに服装。
10月も中旬になるとフリースやダウンきるもんなんだけど、その人は見た所10年以上前のレトロなまるでスキーウェアのような格好だった。
そんな厳寒期用の装備で登る人は珍しい、と思いながらも地図を見ながら説明してくれたんだ。

 その人が言うには、このトンネルを徒歩で抜けると村が有るから今日はそこで泊まって、日が明けてから登り始めればいい、という事だった。
まぁそうしようかと思って、トンネルに入っていこうとした時、携帯に現地で待ち合わせをしてた大学の同期から電話がかかってきた。

“ こんな山奥でも携帯繋がる時代で良かった。”

と思いながら、今の状況を話すと、

「 そんなのあり得ない!
絶対トンネルなんか入ったらダメだ!!!
とにかく車に戻れ!」

とスゴイ強く言われた。

「 迎えにいくから、GPSの位置情報送って。」

と言われたので送ったら、友達は言いにくそうに

「 これ、ホントに合ってる?」

と聞いてきたから、読み上げてもらって確かめたんだ。
そしたら、

「 え、お前の場所、今ココだよ?」

 俺も訳が分からなくなってその時は混乱したけど、要するに友達のいる位置情報とおれのいる位置情報がほとんど隣接した点にいるという事。
GPSの誤差はかなり小さいので車のクラクションで位置がわかるって言うから、そのスキーウェアの人に断って車に戻ったんだ。
 で、クラクションを鳴らした。

「 え、聞こえないけど?」

と友達。

「 いやいや、冗談辞めてくれよ。
俺一人でちょっと怖いんだから。」
「 マジだって!」

と少し喧嘩気味なやり取りをしてたんだ。
すると、さっきのスキーウェアの人が車の所まできて、

「 もう時間だから行かないと。
あなたも僕ときた方が良いですよ。」

となんか強引に車から降ろそうとしたんだよ。
 なんか変だなと思って、

「 いや、友人が近くにいるみたいなんで、車で待機しておきます。」

って言ったんだ。
ここでついて行かなくてホントに良かった。

 それで、携帯で電話をかけながら待ってたんだ。
電池が切れるみたいな下手なネタとは違って、登山の時は4回フル充電できる外部バッテリーもってきてたからよかった。
その間にスキーウェアの男の人はちょっと連絡手段ないか、村に確認しに行くってトンネルの中に消えていったんだ。

 それから30分くらいかな?
結局また2時過ぎになるまで動かないで待ってたんだけど、友人から、

「 結局近くにいるはずなのに見当たらない。
ほんとに線路なんてあるの?」
「 この辺電車なんか通ってないはずだぞ?
寝ぼけてるんじゃない?」

と疑われながらも、こっちとしてはなにもできない。

 ちょっと小便と思って、外に出たらトンネルの脇にまだ山道が続いてるんがわかったんだ。
もう何もできないしGPSも携帯も地図もあるから行ってみるかと思って、荷物をまとめて進んでみることにした。

 登山するくらいだから夜中の森の中を一人で進むのには全く抵抗なかったし、カシミールの地図と高度計もあるので確実に山道を上っているのはわかってたんだ。
山ならいつかはほかの山道に合流するだろうと思いとにかく上を目指した。
 歩くこと25分、進んだ距離は1.3km、高度は確実に50mほど上がった。
でも、なぜか俺の車がそこに見えたんだよ。
白い車だからライトあてるとすぐにわかる。

“ え、おかしいな?”

と思って高度計確認すると元通り、カシミールのログだけは残ってたけど、確実に地図は進んでる。

 でも、時間はなぜか2時過ぎ。
つまり時間が完全に進んでない。
アナログ時計も携帯の時計も一切進んでない。
さすがにこうなると、わけがわからず混乱していた。

 山っていうのは迷った時は基本的に戻ってはいけないんだ。
というのは登れば何かしらの頂上にはつくけど、下るとどこに行けるかわからない。
山と森がつながっている場合は遭難する確率が非常に高いから。

“ でも、もうとりあえず来た道を戻ろう!それしかない!”

と思って車に乗ってどうにか旋回しようとしてたんだ。
もちろん山道みたいな狭い道だから旋回は至難の業。

 で、バックビューモニターみたらスキーウェアのあいつがいたんだよ。
急いでたからギアバックにいれっぱなしで、フェンス壊した。
アクセルに入れなおして急いで山道を降りた。
でも、ここまでで記憶がない
 どうやら俺失神したみたいで、次に気づいたら山荘まで運び込まれてた。
警察とか救急車もきてた。
しかも、なぜか手足が重度の凍傷にかかってたみたいで即入院。
いまも足の痛みで車イス生活してる。
 治るには治るみたいだけど、後日警察から届いた私物の中に「厳寒期用のスキーグローブ」が混じってたんだ。
さすがに恐ろしくなった。

 たぶんスキーウェアの人のモノなんだよ。
なぜか車にあったらしい。
処分したいのはもちろんなんだけど、今特に問題も起きてないしどうすればいいか困ってる。
でも家族のこと考えるとどーにかしたいんだ。
だから足が治ったら、11月にもう一度同じ場所に行ってくる。
なんだか行かなきゃイケない気がするんだ。



















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2月18日(日)のつぶやき

2018-02-19 03:07:27 | _HOMEページ_
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日々の出来事 2月18日 冥王星

2018-02-18 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月18日 冥王星






 今日は、クライド・トンボーが冥王星を発見した日です。(1930年2月18日)
1930年2月18日、アメリカのローウェル天文台のクライド・トンボーが、1月23日と1月29日に撮影した写真との比較研究から、太陽系第9惑星である冥王星を発見しました。
この冥王星は、15等星の非常に暗い星で、その暗さから、ギリシア神話の冥府の神にちなみ”プルート(pluto)”と名付けられました。
 冥王星は、アメリカが発見した唯一の惑星で、発見当初からアメリカ人の誇りと言われて来ました。
それは、冥王星が発見された年に誕生したディズニーのキャラクターの”プルート”が、名前を冥王星(プルート)から取っていることからも分かります。
 冥王星は惑星としては小さ過ぎることが致命的で、2006年に惑星から準惑星に変更されることが決まりました。
従って、特に冥王星に誇りを持っていたアメリカ人の失望や落胆は大きく、不満の声が強く聞かれました。
 昔から、太陽から順に惑星を”水金地火木土天海冥”と覚える方法がありました。
でも、冥王星は楕円軌道を描いていますので、海王星と順が入れ替わる時があります。
1979年から1999年までの20年間は”水金地火木土天冥海”でした。
冥王星の公転周期は約248年なので、2226年頃までは”水金地火木土天海冥”となります。


















☆今日の壺々話














屋上








「 またここへ来てしまった。」

田中はそうつぶやくと、錆付いたパイプ椅子に腰を下ろした。
 ここはとあるビルディングの屋上。
さほど高層でもない、どこにでもありそうな場所だ。
彼は悩み事があるとこの場所に来る。
いや厳密に言うと来てしまうのだ。
 ここが、どこの何ていうビルディングなのかはまったく覚えていないし、また覚えていたとしても、きっと自分の意思ではたどり着けない所なんだと何となく感じていた。
いづれにしても、ここがどこであろうとどうでも良かった。

 田中は平凡なサラリーマン、上司からは叱られ部下からは突き上げられ、御多聞にもれない中間管理職であった。
悩み事と言っても、大それたものではなく些細なことが多い。
自分の成果を上司に横取りされたり、データ収集や難交渉など人がやりたがらない仕事を押し付けられたり。
 だが、田中は仕事にそれ程不満があるわけではなかった。
彼にとって常にそれが自分の役回りであると思っていたからだ。

 いつものように、小一時間ここでぼんやりと夜空と夜景を眺め、ため息をひとつつくと、そろそろ帰ろうかと腰を上げた。
その時、カチャリ、とドアのノブが回る音がした。

“ 誰か来る!”

勝手に入り込んだ後ろめたさもあり、田中は物陰に身を潜めた。
 ここには明かりがなく、どんな風体なのか良く見えない。
警備員なのか住人なのか…。
すると、

「 誰かいますか?いますよね・・・・。」

“ しまった!見られてた!”

いきなり声を掛けられ、田中は体が硬直し声も出ない。
不法侵入という言葉が頭をよぎる。

「 いることは判っています。
何もしませんから、そのまま私の話を聞いてください。」

“ ?”

「 これからもあなたは何度もここに来ることになるでしょう。
でも、決して会社を辞めようなどとは思わないでください。」

誰とも判らぬ人影は、勝手に話を続ける。

「 今あなたがやっている仕事は、将来きっとあなたの出世の足がかりになります。
どうか、この調子で仕事を続けてください。」

“ 何なんだこの人は、何で私の事を知っている?もしかして!
もしかしたら、未来の自分がタイムマシンで自分を励ましにやって来たのか?”

「 では、これで失礼します。
決してあきらめないでくださいね!」

最後にそう言い残すと誰とも判らぬ人影は去っていった。
 田中はしばらく放心状態になっていたが、やがて正気を取り戻した。

「 いったい何だったんだ?」

そう言いつつ、なんだか笑いが込み上げてきた。
おかしな事に、いつもより元気が出てきたような気がする。
 自分の努力を認めてくれる人がいるのはうれしいものだ。
あの人影がどこの誰であれ、とても感謝したい気持ちになった。

 それから何日かして、田中は思いきってある行動に出た。
会社からの帰り道、適当なビルディングの屋上にのぼり、こう話しかけるのだ。

「 誰かいますか?いますよね・・・。」




















スペースファンタジー小説”プルートな人々”








「 俺達、馬鹿にされたぞ!」
「 どうしたんだよ?」
「 冥王星が惑星から追い出されちゃったんだよ。」
「 それは、イジメだ!」
「 これからは、我々は冥王星人じゃなくて、小惑星134,340人だって・・・。」
「 えっ、小惑星134,430人?」
「 違うよ、小惑星134,340人だよ。」
「 えっ、小惑星133,340人?」
「 違うって、小惑星134,3・・、イテッ!
舌噛んじゃったじゃないか!
いて~なァ~、クソッ、これもあれも、みんな地球人が悪いんだ!」
「 じゃ、痛い目に遭わせてやれば!」
「 そうだな、仲間に連絡しよう。
 仲間の水星人、金星人、火星人、木星人、土星人、天王星人、海王星人は、
 みんな俺達の味方だしな。」
「 エリス人だって”10番目の惑星だ”って言って、怒っていたぞ!」
「 地球人って、時々調査に行くけど、戦争ばっかりしてバカばっかりなんだ
 から。」
「 じゃ、みんなで地球を破壊しようか?」
「 でも、地球人の中で、冥王星が惑星だって言ってたヤツは助けてやろうよ。」
「 そうだな・・・、アメリカだな・・。」
「 他に居ないか?」
「 占星術会も、平静を装っているけど、ハラワタ煮えくり返ってると思うよ。」
「 あ、俺も思い出した!」
「 誰?」
「 冥王せつなちゃん だ!」
「 それ、誰だよ?」
「 美少女戦士セーラームーンで、必殺技が効かなかった敵はセーラー戦士
 の中で一番少ない”セーラープルート”だよ。」
「 へぇ~、それで。」
「 とっても可愛いんだぜ!」
「 そうか、可愛いのか・・・・。
 じゃ、OK、OK!」
「 じゃ、冥王星の味方は、みんな月に移住すると言うことで行くか・・・。」
「 そうしよう。」

“ 冥王星に代わってお仕置きよっ!”
“ チッ、チッ、チッ、チッ、ボカン!!”

「 水、金、月、火、木、土、天、海、冥、エリス。
 これで、いいよな。」
「 月は、冥王せつなが”かぐや姫”って名前を変えて統治している平和な
 惑星になったし良かったな。」
「 これで、太陽系は安泰だ。」
「 良かった、良かった。」

そして、月の周りには、破壊された地球の破片が土星の輪のようにグルグル回っていました。




















冥王星クン







金星「あのさ、グランドクロス?お前ら参加する?」
木星「うぃ。」
火星「参加。」
地球「一応いまんとこ。」
海王星「あー・・あれなぁ・・・俺公転周期合わねぇんだよなぁ・・。」
水星「まじ?」
天王星「周期長ぇと大変なんだよなぁ・・・。」
土星「だよな。そっちはどーよ?」
冥王星「え?いや、俺・・・無理なんだ・・。」
海王星「なんで?周期大丈夫っしょ?」
冥王星「そうじゃなくて・・・。」
水星「なになになに、まさか自転がらみ?あらあらあらきてんじゃねーこれ、うはw。」
冥王星「はは・・そうじゃなくて俺やめるんだ。」
木星「うん?」
冥王星「・・・惑星・・やめるんだ・・・。」
一同「・・・・。」




















冥王星ちゃん






冥王星「あたいみたいなのが惑星なわけないよね……、はは……。」

海王星「冥王星…。」

冥王星「あたい…、皆に覚えてもらえてうれしかった…。」

冥王星「でも…、もう忘れられちゃうかな…。」

冥王星「あたい…、もう教科書に載せられないね……。」

冥王星「でも…、うれしかった。」

冥王星「こんなに小さくて遠くにいるあたいを惑星と呼んでくれた。」

冥王星「それだけで…、うれしかったよ。」

冥王星「惑星じゃなくなっても…、教科書に載らなくなっても…、あたいはあたいだから……。」

海王星「冥王星は…、それでいいの?」

冥王星「これが…、正しかったのよ…、仕方ないよ…。」

海王星「本当に?」

冥王星「…。」

冥王星「あたいだって…、本当は淋しいよ……っ…。」

冥王星「じゃあ…、さよなら…。」

八惑星「………。」

海王星「また…、会えるよね…。」

冥王星「もうお別れだね…、二度と昔には戻れないのかな…。」

木星「何馬鹿な事言ってるんだよ!何時だって戻って来いよ!ほら皆だってさ。」

冥王星「ほら、あたしって…さ、皆と違うじゃない?軌道も歪んでるしさ…。」

冥王星「大きさだって、ほら、だいぶ違うじゃない?」

木星「冥王星…。」

冥王星「それでも最後まで皆と一緒にいたかったな。」

冥王星「いつかは太陽が燃え尽きて終わっちゃうって分かってても、一緒にいたかったよ…。」

海王星「ううっ、私も…、惑星から外してください。」

冥王星「! ちょっ…海王星!?」

海王星「そうやって…、あなたはいつも一人で抱え込んでいたわね…。」

冥王星「それで…、いいのよ。」

冥王星「歪んだ軌道を描く私のまわりには常に誰もいたくなかった。」

海王星「でも…、今は私たちがいる。」

冥王星「はん!あたいはしょせん惑星にすらなれないハンパもんなのさ!」

海王星「そんなヤケになっちゃだめ!」

冥王星「なによっ!あんたたちに、あたいの気持ちがわかるのっ!」

海王星「・・・。」

月「よーよー、なにシケたツラしてんだ?俺らと一緒に来いよ。惑星なんかとツルんでても、のけ者にされるだけだぜ。」

ブォ~ン ブオ~~ン パラリラパラリラ・・・。

冥王星「もう・・・、あたいなんか・・、このままどうなってもいいんだ・・・、うえ~~ん。」

海王星「冥王星!いっちゃだめだ!ここに残れよ。」

冥王星「みんなが惑星惑星って言うから・・・あたし・・・勘違いしちゃったのよ・・・。」

海王星「冥王星!そんなことないよ・・・。仲間だって!」

冥王星「そう言ってくれるの、スゴク嬉しい。」

海王星「いつかまた、学者さんが認めてくれるって!」

冥王星 「う~~ん・・・・・・。

私ね………、足が遅いんだ……。

太陽の周りを回るのに250年もかかっちゃうんだ………。

自分で言うのもなんだけど、これでも頑張っているんだよ。

私の事なんて誰も見てくれないけど、

必ずゴール出来る日が来るんだって。

見付けてくれた学者さんのためにも、

一生懸命回り続けているんだ………(^-^)。

私ね………、今の学者さんを恨んでいないよ。

全然恨んでいないよ。

だって私、太陽系の一番外側だし小さい氷の塊だから………。

むしろ感謝してるよ。

短い間だったけど『惑星』って呼んでくれたし。

八人の仲間に入れてくれたし。

昔、みんなが楽しそうに太陽の周りを回ってるの見て、いいなぁって思ってた。

ここはとても寒くて、でも私はこんなだし、でも…さびしくて。

いつのまにか、こっそり私も回ってた。

みんなみたいにうまくいかなかったけど。

見つかっちゃった時は少し恥ずかしかった。

でも、うれしかった…。

みんなが私に気づいてくれた。

ここは寒いけど…もう寒くなかった。

私はもう、一人じゃないんだって。

そう思えた。

でも…、やっぱりいけない事だった。

みんな今まで騙してゴメンね。

やっぱり私には資格がなかったんだ。

今まで私を仲間にしてくれて、ありがとう。

みんなにたくさんのあったかい思い出をもらったから、私はそれで十分です。

どうか、私が勝手に回ることをゆるしてください。

うまく回れるように、今も頑張っています。

そうしたら、もしかしたら、また…。

それは絶対にない、頭ではわかってる。

でも、そうせずにはいられない私を、どうかゆるしてください。

ホント、今まで付き合ってくれてありがとう

今度生まれ変わるならもう少し大きい星になって、

またみんなの仲間に入りたいよ。

私は、みんなと一緒にいた時が一番幸せでした(^-^)。」



 。・゚・(ノД`)・゚・。





冥王星


発見年:1930年。

公転周期:248年 197日 5.5時間。

発見されてからまだ軌道を 1/3 も回っていないんだな。

一周くらいさせてやれよ!





















くらげ








 私が子供だった頃、友人の家に初めて遊びに行った時のことだ。
当時私は小学六年生で、友人はその年に私と同じクラスに転校してきた。
最初の印象は、『暗くて面白みのないヤツ』 で、あまり話もしなかった。
とある出来事をきっかけに仲良くなるのだが、それはまた別の話だ。

 季節は秋口。
学校が終わった後、一旦家に鞄を置いてから、私は待ち合わせ場所である街の中心に掛かる橋へと自転車を漕いだ。
 地蔵橋と呼ばれるその橋では、先に着いていた友人が私を待っていた。
欄干に手をかけて川の流れをぼーっと見ている。
私のことに気付いていないようなので、そっと自転車を止め足音を殺して近づいた。

「 わっ!」

後ろからその肩を掴んで揺する。
 しかし期待していた反応はなかった。
声を上げたり、びくりと震えもしない。
彼はゆっくりと振り返って、私を見やった。

「 びっくりした。」
「 してねぇだろ。」

 彼はくらげ。
もちろんあだ名である。
何でも幼少の頃、自宅の風呂にくらげが浮いているのを見た時から、常人では見えないものが見えるようになったのだとか。
 私は、今日の訪問のついでに、それを確かめてみようと思っていた。
すなわち、彼の家の風呂にくらげは居るのか居ないのか。
私には見えるのか見えないのか、だ。

橋を渡って南へと、並んで自転車を漕いだ。
私たちが住んでいた街には、街全体を丁度半分、南北に分ける形で川が流れており、私は北地区、くらげは南地区の住人だった。

 住宅街から少し離れた山の中腹に彼の家はあった。
大きな家だった。
家の周りを白い塀がぐるりと取り囲んでいて、木の門をくぐると、砂利が敷き詰められた広い庭が現れた。
その先のくらげの家は、お屋敷と呼んでも何ら差し支えない縦より横に伸びた日本家屋だった。

 木造の外観は、長い年月の果てにそうなったのだろう。
木の色と言うよりは、黒ずんで墨の様に見えた。
異様と言えば、異様に黒い家だった。
私が一瞬だけ、中に入ることに躊躇いを覚えたのはその外観のせいだったのだろうか。

「 入らないの?」

見ると、くらげが玄関の戸を開いたまま、私の方を見ていた。
私は彼に促されて、家の中に入った。
中は綺麗に掃除されていて、外観から感じた不気味さは影をひそめていた。

 くらげが言うには、現在この広い家に住んでいるのはたったの四人だという。
祖母と、父親、くらげの兄にあたる次男。
そして、くらげ。
くらげは三兄弟の末っ子。
母親が居ないことは知っていた。
くらげを生んだ直後に亡くなったのだそうだが、詳しい話は聞いていない。

 長男は県外の大学生。
次男は高校で、父親は仕事。
家には祖母が居るはずだとのことだったが、その姿はどこにも見えなかった。
気配もない。
どこにいるのかと尋ねると、この家のどこかにはいるよと返ってきた。
 玄関から見て左側が家族の皆が食事をする大広間で、右に行くと各個人の部屋に加えて風呂やトイレがある、と説明される。
二階へ続く階段を上ってすぐが彼にあてがわれた部屋だった。

 くらげの部屋は、私の部屋の二倍は軽くあった。
西の壁が丸々本棚になっていて、部屋の隅に子供が使うには少し大きな勉強机がひとつ置かれている。

「 元々は、おじいちゃんの書斎だったそうだけど。」

とくらげは言った。
 確かに、子供部屋には見えない。
本棚を覗くと、地域の歴史に触れた書物や、和歌集などが並んでいた。
医学書らしきものもあった。
マンガ本の類は見当たらない。

「 くらげさ。ここでいっつも何してんの?」
「 本を読んでるか、寝てる。」

シンプルな答えだ。
確かにくらげの部屋にいても、面白いことはあまり無さそうだ。
そう思った私は彼に家の中を案内してもらうことにした。

 二階は総じて子供部屋らしい。
階段を上って三つある部屋の内の一番奥が長男、真ん中が次男、手前がくらげ。
兄貴たちの部屋を見せてくれと頼んだら、「僕はただでさえ嫌われているから駄目だよ」 と言われた。

「 そう言えばさ、その二人の兄貴も、怪しいものが見えるの?」

くらげは首を横に振った。

「 この家では、僕とおばあちゃんだけだよ。」

 一階に下りて、二人で各部屋を見て回る。
掛け軸や置物ばかりの部屋があったり、雑巾がけが大変そうな長い廊下があったり、意外にもトイレが洋式だったり。
くらげはどことなくつまらなそうだったが、私にとっては、古くて広い屋敷内の探検は、何だか心ときめくものがあった。

「 ここがお風呂。」

そうこうしている内に、今日のメインイベントがやって来た。
 脱衣場から浴室を覗くと、大人二人は入れそうなステンレス製の浴槽があった。
トイレの時と同じように、五右衛門風呂なんかを想像していた私は、その点では若干拍子抜けだった。
 中にくらげが浮いているかと思えば、そんなこともない。
そもそも水が入っていなかった。
まだ午後五時くらいだったので、それも当然なのだが。

「 何しゆうかね。」

しわがれた声に、私はその場で軽く飛び上がった。
驚いて振り向くと、廊下に、ざるを抱えた腰の曲がった白髪の老婆が居た。
「 おばあちゃん。」 とくらげが言う。
どうやら、この人がくらげの祖母らしい。

「 何処行ってたの?」
「 そこらで、いつもの人と話をしよったんよ。」

老婆はそう言って、視線を私の方に向けた。

「 ああ。言ったでしょ。今日は友達連れて来るって。この人が、その友達。」

「 どうも。」 と頭を下げると、老婆は曲がった腰の先にある顔を私の顔の傍まで近づけてきた。
目を細めると、周りにある無数のしわと区別がつかなくなってしまう。
 その内、顔中のしわが一気に歪んだ。
笑ったのだった。
そうは見えなかったが、「うふ、うふ。」 と嬉しそうな笑い声が聞こえた。

「 風呂の中には、何かおったかえ?」

いきなり問われて、私は返答に詰まった。
何も答えられないでいると、老婆はまた、「うふ、うふ。」 と笑った。

「 夕飯はここで食べていきんさい。さっき山でフキを採ってきたけぇ。」

「 いや、あの・・・。」 遠慮しますと言いかけると、老婆は天井を指差して、「 夕雨が降ろうが。止むまで、ここにおりんさい。」 と言った。

夕雨。
夕立のことだろうか。
朝に天気予報は見たが、今日は一日中晴れだったはずだ。

「 さっきからくらげ共が沸いて出てきゆうけぇ。じき、雨が降る。」

思わず、私はくらげの方を見た。
無言で、『本当か?』 と問いかけると、くらげは無表情のまま首を横に傾げた。
『分からない。』 と言いたかったのだろう。

 数分後。
私はくらげの部屋から窓越しに空を見上げていた。
雨が降っている。
くらげの祖母の言った通りだった。
 長くは降らないということだったが、土砂降りと言っても良い程、雨脚は強かった。
家に電話をして、止むまでくらげの家にいることを伝えると、『そう。迷惑にならんようにね。』 とだけ返って来た。
私の親は放任主義なので、子供が何をしていようが、あまり気にしない。

「 雨の日になると、街中がくらげで溢れるそうだよ。
プカプカ浮いて、空に向かって上って行くんだって。
まるで鯉が滝を登るみたいに。」

イスに座って本を読んでいたくらげが、そう呟くように言った。

「 マジで。そんなの見えてるのか?」

すると、くらげは首を横に振った。

「 僕には見えないよ。僕に見えるのは、お風呂に水がある時だけだから。」

私は、窓の向こうの雨を見つめながら、前から気になっていたことを訊いてみた。

「 なあ、そもそもさ。お前が風呂で見るくらげって、どんな形をしてんだ?」
「 普通のくらげだよ。白くて、丸くて、尾っぽがあって。
あ、でも少し光ってるかも。」

 私は目を瞑り想像してみた。
無数のくらげが雨に逆らい空に登ってゆく様を。
その一つ一つが、淡く発光している。
それは、幻想的な光景だった。
再び目を開くと、そこには暗くなった家の庭に雨が降っている、当たり前の景色があるだけだった

 その内、くらげの父親が仕事から帰ってきた。
大学で研究をしているというその人は、くらげとは似つかない厳つい顔つきをしていた。くらげが私のことを話すと、こちらをじろりと一瞥し、一言、「分かった。」 とだけ言った。口数が少ないところは似ているかもしれない。

 次男はまだ帰って来ていない。
但しそれはいつものことらしく、彼抜きで夕食を取ることになった。
大広間に集まり、一つのテーブルを囲むように座る。
大勢での食事会にも使えそうな部屋で、四人だけというのはいかにもさびしかった。

フキの煮つけと、白ご飯。味噌汁。
ポテトサラダ。
肉と野菜の炒め物。

 いつも祖母が作るという夕食はそんな感じだった。
最後にその祖母がテーブルにつき、まず父親が「いただきます。」 と言って食べ始めた。
私も習って、家では滅多にしない両手を合わせてのいただきますを言う。

 テーブルには酒も置いてあった。
一升瓶で、銘柄は読めないが、焼酎の様だ。
但し、父親はその酒に手をつけようとしない。
その内にふと気がついた。

 テーブルには五人分の料理が置かれていた。
私は当初、それは帰って来ていない次男の分だと思っていたが、そうでは無かった。

祖母が一升瓶を持って、一つ空のコップに注いだ。
その席には誰も座っていない。

「 なあ聞いてぇな、おじいさん。
今日はこの子が、友達を連れてきよったんよ。」

祖母は、誰もいないはずの空間に向かって話しかけていた。
まるでそこに誰かいるかのように。
おじいさんとは、後ろの壁に掛かっている白黒写真の内の誰かだろうか。
 見えない誰かと楽しそうに喋る。
たまに相槌を打ったり、笑ったり、まるでパントマイムを見ているかのようだった。
 呆気に取られていると、私の向かいに座っていた父親が、呟く様に言った。

「 すまない。気にしなくていい。
あれは、狂ってるんだ。」

「うふ、うふ。」 と老婆が笑っている。
隣のくらげは、黙々と箸と口を動かしていた。
私は、何を言うことも出来ず、白飯をわざと音を立ててかきこんだ。

 夕食を食べ終わったのが、七時半ごろだった。
その頃には、土砂降りだった雨は嘘のように止んでいた。
外に出ると、ひやりとした風が吹いた。
車で送って行くという父親の申し出を断って、私は一人自転車で家路につく。

「 お爺ちゃんも、雨の日に浮かぶくらげも、おばあちゃんがよくお喋りするいつもの人も、僕には見えない。
だから僕は、『おばあちゃんは狂ってないよ』 って言えないんだ。」

それは、私を見送るために一人門のところまで来ていたくらげの、別れ際の言葉だった。

「 もしかしたら、本当に狂ってるのかもしれないから。」

くらげは、そう言った。

――でも、お前も同じくらげが見えるんだろ――。

のどまで出かかった言葉を、私は辛うじて呑みこんだ。
『僕は病気だから』 と以前彼自身が言っていたことを思い出す。

“ あの時、「あれは、狂ってるんだ」 と父親が言った時、一体くらげはどう思ったのだろう。”

家に向かって自転車を漕ぎながら、私はそんなことばかりを考えていた。
地蔵橋を通り過ぎ、北地区に入った時、私は思わず自転車を止めて振り返った。

一瞬、何か見えた気がしたのだ。

振り向いた時にはもう消えていた。
私はしばらくその場に立ちつくしていた。
それは光っていた。
白く。
淡く。
尻尾のようなひも状の何かがついていたような。

 あれは、空に帰り損ねた、くらげだろうか。
もしもそうだったとしたら、私も、少し狂ってきているのかもしれない。

 しかし、それは思う程嫌な考えでは無かった。
くらげは良い奴だし、雰囲気は最悪だったがおばあちゃんの夕飯自体はとても美味しかった。

 私は再び自転車を漕ぎだす。
空を見上げると雲の切れ間から星が顔をのぞかせていた。

空に上ったくらげ達は、それからどうするのだろうか。
私は想像してみる。
星になるんだったらいいな。
くらげ星。
くらげ座とか、くらげ星雲とか。
その内の一つが本当にあると知ったのは、私がもう少し成長してからのことだった。
















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2月17日(土)のつぶやき

2018-02-18 03:10:17 | _HOMEページ_
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日々の出来事 2月17日 ジェロニモ

2018-02-17 09:00:00 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 2月17日 ジェロニモ





 今日は、インディアンのジェロニモが亡くなった日です。(1909年2月17日)
ジェロニモは、1829年6月16日、アリゾナ州南部のヒラ川の近くで生まれます。
名前は、”ゴヤスレー”(あくびをする者)と言われていますが、他人が実名を呼ぶことを避ける習慣があったため、ホントのところは分かりません。
 ジェロニモが30才当時、アリゾナ州はメキシコ領で、ジェロニモは家族全員をメキシコ軍に殺され、大勢の仲間とともに復讐に立ち上がりました。
そして、メキシコ人は、町を襲う猛り狂ったジェロニモの姿に恐れ慄きました。
このとき、メキシコ人が聖ジェロームの加護を求めて”ジェローム”と叫んだのが、ジェロニモの名前の始まりと言われています。
 その後、この土地はアメリカ領土となり、インディアンの居留地への強制移住が始まります。
各地のインディアンの抵抗が鎮圧される中、ジェロニモは最後まで抵抗を続けます。
そして、ジェロニモは、居留地から自由を求めて脱走し、シェラマドレ山脈を根城にゲリラ活動を続け、開拓者たちから、食料、毛布、馬、武器などを略奪しました。
 この抵抗に、アメリカは軍の4分の1に相当する5,000人の兵士を動員し、ジェロニモを半年間追い続けた末、圧倒的な兵士数で圧力を掛け、なんとか”居留地に収容する”を条件に降伏させることが出来ました。
このジェロニモが捕まった1886年9月4日が、アメリカとインディアンの戦争が終結した日と言って良いと思います。
このとき、ジェロニモは、もう60才になっていました。
 アメリカの新聞は”残忍で血に飢えたインディアン、ジェロニモがアメリカ軍に降伏”と大きく報じました。
このとき、シカゴ博物館から”どう猛な侵略者ジェロニモの肖像”を描くために派遣された画家は、”非常に気持ちのやさしいジェロニモ”に驚いています。
アメリカが、インディアンへの略奪と弾圧を隠し、マスコミを操作し、自らの正義を演出するために作った”獰猛な侵略者であるインディアン”の虚像がバレた瞬間です。
 その後、居留地に戻ったジェロニモは、冗談を言ってまわりを和ませる気の良いオッチャンで、インディアンからも白人からも人気がありました。
 1909年2月17日、ジェロニモは病死しました。
そして、ジェロニモが”いいヤツ”だったことは、ジェロニモの墓がアメリカ兵士たちの募金によって作られ、その墓はオクラホマ州フォート・シルにあるどの酋長の墓よりも立派で大きなものであることが物語っています。


ナバホの言葉

「 インディアン嘘吐かない、白人嘘吐く!!」





















☆今日の壺々話












インディアンの教え







批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします
敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦います
ひやかしを受けて育った子は、はにかみやになります
ねたみを受けて育った子は、いつも悪いことをしているような気を持ちます

心が寛大な中で育った子は、がまん強くなります
励ましを受けて育った子は、自信を持ちます
ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります
公明正大な中で育った子は、正義感を持ちます
思いやりのある中で育った子は、信頼を持ちます
人にほめられる中で育った子は、自分を大切にします
仲間の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます















すごく厳しい冬になるぞよ







 アメリカ先住民居住区近くの山林に住む白人男性が2人、晩秋の一週間、冬に備えて薪割りをした。
終わると、酒場でウイスキーを一杯やりたくなり、町へ向かった。
途中先住民の老婆に出会ったところ、ひっきりなしにとつぶやいている。

「 すごく厳しい寒い冬になるぞよ。」

そこで2人は、念のためにもう一週間薪割りをする事に決めた。

 一週間たって町に入ると、また例の老婆に出会った。
また老婆はつぶやきどおしである。

「 すごく厳しい長い冬になるぞよ、さぞ凍えることじゃろう。」

2人は心配になり、なおもう一週間、冬に備えて薪割することにした。

 さらに一週間たって町に入ると、またまた例の老婆が立ち、しきりに嘆いている。

「 すごく厳しい、酷い冬になるぞよ。」
そこで2人のうち片方が歩み寄って尋ねた。

「 賢そうなおばあさん、どこにそういう兆しが見えるんでしょうか?」

老婆は答えた。

「 むこうの山林に白人が二人住んどるが、もうここ三週間ぶっとおし、夢中で木を伐っているからじゃ!」




















インディアンの天気予報








 撮影隊が砂漠の奥深くで作業をしていた。
ある日、インディアンの老人がやって来て監督にこう言った。

「 明日は雨だ。」

翌日、雨が降った。
一週間後、あの老人がまた監督のところに来ると、

「 明日は嵐だ。」

と言った。
翌日、嵐となった。
 監督は感心した。

「 あのインディアンはすごいな。」

そこで秘書にあの老人を雇って天気を予測させるよう命じた。
しかしながら、何度か予報を的中させると、老インディアンは、二週間姿を現さなかった。
とうとう監督は、インディアンの家に使いを出した。

「 明日は大事な場面を撮影することになっている。
君をあてにしているんだ。
明日の天気はどうだろう?」

インディアンは肩を竦めた。

「 分からない、ラジオが壊れた。」



















疑問







インディアンのある部族の中の最強の勇者である男が、ある日、日頃から悩み続けてきた疑問を解消しようと父親のところへ行き、

「 部族のみんなの名前は、どのようにして決められたのか?」

と尋ねた。
しかし父親は、

「 産まれた子の名前を決めるのは、酋長の役目なんだ。」

としか答えてくれなかった。
 そこで、今度は酋長のテントに行った。
中に入ることを許され、勇者は酋長を前に同じ質問をした。
酋長は答えてくれた。

「 赤ん坊が産まれそうになると、わしは自分のテントに入る。
そして、赤ん坊が産まれるとテントから出る。
その時、最初に見えたものをその子の名前に決めるんじゃ。
“サンライズ”とか、”イエロー ムーン”とかな。
でも、一体どうしてそんなことを聞くんだ、ツー ドッグ ファック?」

















天使









 儚く神秘的な、天使っぽい少女に憧れていた。
すれ違った瞬間、羽がフワッと舞って、「あの子、まさか天、使…?」みたいな展開にwktkしながら、羽布団を解体し、羽毛を髪に散らしていました。
 すっかり天使になりきった私は、”友達に頭にたくさんゴミついてるよ…。”と何度も注意されたが、下界の者の忠告なんて、と無視し続けた。
 羽毛布団が使いものにならなくなったと、親にめちゃくちゃ怒られた天使は、鶏小屋の掃除を名乗りでて、羽を無心で集めた。
 羽毛布団の中身より大きい羽にテンションがあがり、一枚拾うごとに、

「 あぁ、大天使ミカエル様、あなたも下界にきていただなんて・・・。」

と呟き、すっかり頭が天国だった。
 ミカエルの羽は大きめだったので頭に散らしてもすぐ落ちてきてしまうので、100均で買ってきたヘアバンドにさして装着した。
あだ名がインディアンになったころ、自分は天使じゃないんだと気づいた。


















オィア






 インディアン居留地で政治家が選挙演説をしていた。

「 皆さんに実入りのいい仕事とよい暮らしをお約束します。」
「 オィア!」インディアンたちが一斉に応じた。

聴衆の興奮に励まされ、政治家は声を高めた。

「 それに、最高の医療保障と大学教育をお約束します!」
「 オィア!」インディアンたちが叫び返した。

インディアンたちの反応に政治家はますます元気付き、続けて言った。

「 また、皆さんの老後もよく面倒が見られるようにするとお約束します!」

政治家が壇を下りる間もインディアンたちは「オィア! オィア!」と叫び続けた。

 部族の長老が居留地を見て回らないか、と誘った。
政治家はそうすることにして、あちこち案内された。
最後に納屋でインディアンの飼っている牡牛を見ることになった。
賞を受けたことのある立派な牝牛である。

長老は政治家に向って言った。

「 オィアを踏まないように気をつけなされ。ここはオィアだらけじゃからの。」

















知り合いの体験談







 アメリカでインディアンの居留地にステイしていた時、腹痛に襲われたという。
とんでもない激痛で、身体を動かすことも適わなくなり、危篤状態にまでなったのだが、
現地の呪医が処方してくれた薬が劇的に効き、無事一命を取り留めたそうだ。

 薬が効いている間は体中の感覚がなくなり、同時に痛みも感じなくなったという。
しかし奇妙な事に、寝ている自分を真上から見下ろしたり、建物の屋根をすり抜けてから
空を飛んだりした記憶がある。いやにくっきり、はっきりと。

 呪医が言うには、この薬は体と心を切り離してから、患部を強烈に治す働きがあるのだと。
要するに、副作用として幽体離脱してしまう薬だったらしい。

 回復後に、お礼の日本酒を持参して呪医を訪ね、薬の話をもっと詳しく聞いてみた。
それによると、とある森に棲まう、角の生えた大蛇から採取した薬だという。
「夢の蛇」と呼ばれるこの蛇は、呪医自身が魔法の歌を唄って森から呼ぶというのだが、 大層音楽の好みにうるさいようで、歌が気に入らないと姿を現さないのそうだ。
因みに上手く呼べる確率は、これまでの経験では十回に一回程度らしい。

 歌が気に入ると森の中から出てきて、角を大人しく削らせてくれるのだと。
しかし歌が途切れると、蛇はこちらに興味をなくしたような様子になり、すぐさま姿を隠してしまうので、削る間は必死で歌い続けなければならないそうだ。

「お前に処方した薬は、その角の粉末を使っているのだ」と言われた。
「今はもう滅多に入手できないから、ありがたく蛇と私に感謝しなさい」とも。

彼も負けずに、「この酒も滅多に入手できない、高価なものなんですよ」と言い包め、皆で仲良く酒盛りを楽しんだのだという。



















アメリカで聞いた話1






留学先の大学で仲良くなった男子学生が、こんな話をしてくれた。

「 俺の故郷の、インディアン達に伝わっている話なんだけどさ。
大昔そこの部族じゃ、よくよく異形の赤ん坊が産まれていたらしいんだ。
鱗と尻尾が生えていて、手足にゃ水掻きが付いていたんだと。」

「 そんな時は、部族の伝説に伝わる英雄に祈ったんだって。
ヤナールハって名前の、シャーマンヒーローらしいんだけどな。
“英雄の墳墓”と呼ばれる丘が山の中腹にあって、そこの石室に問題のある赤ん坊を一晩入れておく。
すると翌朝、その赤ん坊は普通の人間の姿となっているんだとさ。
まぁ姿は普通になっても、衰弱して死んでたこともあったみたいだけど。」

「 俺は散々、親爺からこう言われて育ったんだ。
『お前には産まれた時に尻尾があったんで、ありがたくも伝説の勇者様に助けてもらったんだぞ』ってね。
これをニヤニヤ笑いながら言うんだぜ、我が父君はまったく質が悪い。」

「 だから俺も、自分に子が産まれたら、『お前には~』ってやってやるんだ。」


すごく良い笑顔で、彼はそう宣った。














アメリカで聞いた話2






 彼はインディアン保留地で医師をしている。
暖炉用の薪を拾うため、よく山に入っているのだが、それを知った住民から一風変わった 注意をされたのだという。

「 常緑樹の森の中で、一ヶ所だけ木が枯れている場所があったら、そこは避けるように。
そこには『枯れ木の巨人』が居るのだから。
その枯れ木は巨人の住処だから、周りを彷徨いていると、木の幹で殴られてしまう。
近よらなければ、手は出してこないから。」

そこで医師は神妙な顔になって、こう述べた。

「 おとぎ話みたいなものだと思っていたんだけどね。
前に一度だけ、そんな枯れ木の側で、何かにぶつかったことがあるんだ。
怪我とかは大したことなかったけど、これが何にぶつかったのか、全然姿が見えなくて。
まさに見えない大木の幹にでも衝突したような、そんな感じだったんだ。」

巨人を信じる訳ではないが、あれ以来、そのような枯れ木には近よらないのだという。
















アメリカで聞いた話3





 彼はインディアンの血を引いており、自部族が住む地区の自然保護官を勤めている。
かつて山奥の湖沼で、奇妙な皮を見つけたことがあるという。
その皮は全面がびっしりと、長くて黒い毛に覆われていた。
毛は非常に硬くて、針と呼んでも差し支えないような形状をしていた。
そして何とも気持ちの悪いことに、人型を思わせる四肢を備えていたそうだ。
尻尾はない。

 彼曰く、まるで、毛がみっしりと生えた人が、毛ごとその皮を脱ぎ捨てたかのような、そんな不気味な印象を抱いたという。
何れかの哺乳類の皮を細工した代物かとも考えたのだが、何処にも加工したような痕跡は見受けられなかった。
皮の厚みはペラペラと言っていいほど薄く、蛇が脱皮したそれを連想させる。
一体何という動物の皮なのか、全く想像がつかなかった。

 部族の長老に聞いたところ、それは「針の男」が脱ぎ捨てた皮だろうと言われた。
「針の男」とは、人型をした毛深い怪物で、皺だらけの顔と長く尖った耳を持つ。
頭が非常に良くて、人語を解し、これを操るという。
しかし、他の生き物に強い悪意を持っていて、常に周囲を呪っている存在なのだと。
山で他の動物に出会すと、それが人でなければ、襲いかかって食い殺してしまう。

 人と出会った場合は特別で、殺すことはないが抱きついてきて、全身に生えた剛毛を針のように使って刺してくる。
これに刺されると、大抵の者が気絶してしまうそうだ。
 その後、気絶から醒めた人間は、「針の男」と同じ精神を持つようになってしまい、
ありとあらゆる生き物に憎悪を抱くようになる。
そして目にした動物を、片っ端から食い殺すようになるそうだ。
 やがて、刺された人は新しい「針の男」に変化し、沼に潜むようになるのだという。
かなり昔のことになるが、「針の男」が大勢出現したために、山から生きた動物の
姿が消えてしまったことすらあったらしい。

 「針の男」は年月を重ねると、脱皮して光の精霊になると言われている。
そうなると他の生き物に興味を持たなくなり、世界にとって無害な存在になる。
だから、脱皮後に見つけたのは運が良かったと言われた。
ただ、残された皮や針に魔力が残っていて、人々に害を為すかもしれないから、
これは燃やした方が良いと長老に諭された。

 自然保護官の彼は高等教育を受けており、理知的に物事を考える人物であったが、同時にそういう言い伝えも大切にする人物でもあった。
だから悪い精霊の物だと知るや否や、長老の忠告通り、これを火にくべて灰にしてしまったという。

「 勿体ない、何か未発見の動物だったかもしれないのに。」

人からそう言われると、

「 昔から伝わっていることというのは、必ず何か意味があってのことだから。」

と冷静に返しているのだそうだ。


















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2月16日(金)のつぶやき

2018-02-17 03:04:09 | _HOMEページ_



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日々の出来事 2月16日 植村直己

2018-02-16 09:00:00 | A,日々の出来事_

 


 
  日々の出来事 2月16日 植村直己




 
 今日は、植村直己が最後に目撃された日です。(1984年2月16日)
植村直己は、1984年2月12日、43才の誕生日に世界初のマッキンリー厳冬期単独登頂を果たしました。
 でも、交信は2月13日を最後に、それ以降連絡がとれなくなり、植村直己は消息不明になります。
小型飛行機がマッキンリーを捜索に行ったところ、2月16日に植村直己と思われる人物が手を振っているのが確認されますが、悪天候で救出することが出来ずに見失ってしまいました。
 その後、明治大学山岳部が2度捜索を行いましたが、装備の一部を見付けただけで植村直己を発見することは出来ませんでした。
そして、現在も行方不明のままとなっています。
 植村直己の冒険スタイルは、機材や物資を多量に持ち込んで自然を征服する流儀を良しとせず、現地に実際に生活するなかで心身を慣らし、その地方の流儀で冒険を敢行したところです。
 例えば、グリーンランド犬ゾリ単独行では、決行する5ヶ月前にエスキモーの家に泊まり込み、衣食住や狩・釣り・犬ぞりの技術に至るまで、現地で生活するなかで現地の気候風土に体を慣らしました。
特に、強烈な異臭がするキビヤック(アザラシの漬物)が大好物になったと言うのは驚異であると言われています。
植村直己の著書はいろいろありますが、”青春を山に賭けて”は、結構、面白い読み物です。
 
 
 植村直己の主な記録
 
登頂
1965年4月23日・・・・ゴジュンバ・カン登頂
1966年7月25日・・・・モンブラン単独登頂
1966年10月24日・・・・キリマンジャロ単独登頂
1968年2月5日・・・・・アコンカグア単独登頂
1970年5月11日・・・・エベレスト登頂
1970年8月30日・・・・マッキンリー登頂(世界初五大陸最高峰登頂成功)
1984年2月12日・・・・マッキンリー厳冬期単独登頂(世界初)
 
犬ゾリ
1973年2月4日~4月30日・・・・・・グリーンランド3,000km犬ゾリ単独行
1974年12月29日~1976年5月8日・・北極圏12,000km犬ゾリ単独行
1978年4月29日・・・・・・・・・・・犬ゾリ単独行で北極点到達(単独到達世界初)
 

1968年4月20日~6月20日・・・アマゾン河6,000km単独で筏下り
 
徒歩
1971年8月30日~10月20日・・・日本列島3,000km徒歩で縦断
 
 
 植村直己の言葉
 
あきらめないこと。
どんな事態に直面してもあきらめないこと。
結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない。
 
 
 
 
 
 





 
 





 
 
 
☆今日の壺々話
 
 
 
 






 
 
 
冒険
 
 
 

 
 
 俺のクラスに新しく転入生の男子が来たが、彼はいつも机に突っ伏して塞ぎ込んでいて、未だに友人は一人もできていないようだった。
きっとクラスに馴染めずに大変なんだと考えた俺は、意を決して彼に話しかけた。
 
「いつも浮かない顔をしているね。何か嫌なことでもあったの?」
 
俺の突然の問いかけに彼は動揺したようだったが、やがて重い口を開いて話しだした。
 
 彼の話では、彼が塞ぎ込んでいる原因は、転入してくる以前の、一月ほど前の出来事にあると言う。
彼は当時、住んでいた家の自分の部屋でゲームなどをして過ごしていたが、ふと気付くと、彼の部屋の天井板が少しずれているのを見つけたと言う。
彼は椅子を使って天井の上にのぼると、懐中電灯で辺りを照らして原因を探したそうだ。
 天井の上は意外にも広々とした空間になっていて、何処までも先が続いていた。
彼は天井が外れた原因探しよりも冒険心から、天井裏をどんどんと先に進んで行ったという。
すると電池が切れたのか、突如として電灯の明かりが消え、辺りは一面の闇となった。
 彼は怖くなって部屋に戻ろうとしたが、あまりにも進みすぎて、元いた部屋の明かりは既に見えなくなっていて、彼は天井裏で完全に迷子になってしまった。
途方に暮れた彼は、元の部屋を探して歩き回ったが、闇の中で方向感覚を失い、しだいに自分が何処に向かっているのかも分からなくなった。
 あても無く歩き回るうち、彼はだいぶ先に、何か光りを放っているものを見つけた。
それを自分の部屋の明かりと考えた彼は、夢中になって、その明かりに向かって歩き続けた。
 しかし、段々と近づくうちに、明かりの正体は自分の部屋の明かりではないことが分かった。
それは何と、見たことも無い街の明かりであったと言う。
不思議なことに、天井裏に一つの大きな街があり、その明かりが遠くから見えていたのだ。
彼はあても無いので、その街の中に勇気を出して入って行ったのだと言う。
 
 そこまで話をすると、彼はため息をついて、しだいにボロボロと涙を落とした。
俺は突然の彼の涙に戸惑いつつも、とりあえず彼を慰めようと、彼に言葉をかけた。
 
「 大変だったね。でも結局は部屋に戻れたんだろ、泣くことは無いよ。」
 
すると彼はゆっくりと首を振って、こう答えた。
 
「 まだ、その街から出られていないんだ。」
 
 
 
 






 
 
 
 
 
 
イケナイ冒険
 
 
 
 
 
ちょっと前、あるネットゲームで出会った外人との会話。
 
外人 『 Japanese! Japanese!』
俺 『 うっせえよ毛唐、英語が世界の共通語とかナチュラルに思ってんじゃねえよ。』
外人 『 hmm….』
 
俺 『 Fack you.』
外人 『 oh.』
 
外人 『 miss spell.』
 
外人 『 Fuck you.』
 
俺 『 Fuck you.』
 
外人 『 good!』
 
その後、彼と一緒に冒険に出かけ、新しい世界を知ってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 





 
 
 
こんな冒険RPGの主人公は嫌だ! 
 
 
 
 
 


戦闘が始まるとすぐ逃げようとする。
 
「たたかう」コマンドがそもそもない。
 
うつ病をもつ主人公。
 
「にげる」がコマンド覧の一番上にある。
 
攻撃方法が全部目潰し関係。
 
カネに汚い。
 
旅の目的を良く理解できていない。
 
一番最初にメガンテを覚える。
 
敵が死んでもまったく攻撃をやめない。
 
使える技が「くさい息」だけだ。
 
タンを吐く。
 
何を言っているのかわからない。
 
モンスターと会話する。
 
「どうして空は青いの?」とか言い出す。
 
村人に話しかける勇気がない。
 
とりあえず土下座さえすれば全て許されると思っている。
 
股間ばかり狙う。 
 
 
 
 
 
 
 









 
 
冒険ゲーム
 
 
 
 
 
 
 
 高校時代のことだ。
友人がRPGツクールで作ったゲームをやってみろ、と言うのでプレイしてみた。
タイトルは『ステテコを探せ』。
 タイトルは変だが、ストーリーは王道のファンタジーで、恐怖の魔王が君臨する世界で魔王打倒のために冒険するものだった。
なかなか作りこまれていて、20時間ほどでラストまでいった。
魔王を倒し、”やったー!”と思ったが、ゲームは普通に続いていた。
 
“ アレ? おかしいな・・・・??”
 
 後日、友人に「バグじゃないか?」と尋ねると、「お前タイトルをよく見ろよ。」と言われた。
 
“ え?タイトル? “
 
じゃあ、ステテコなるものを探せばよいのかな、というわけで再スタート。
 スタートの主人公の家のタンスを、おもむろに調べてみた。
 
メッセージ:なんとステテコを見つけた!
 
その後、スタッフロールが流れ始めた。
 
 
 
 
 










 
 
 
 
彼女
 
 
 
 
 
 ヲタな俺にも最近彼女(微ヲタ)が出来たんだけどさ?
その彼女の元彼がしつこいから、俺に話つけて欲しいって持ち掛けられた訳よ。
で、元彼をどんな風に説得をするか俺なりに考えて、ファミレスで三者面談。
 
以下三人の会話のやり取り。
 
俺『 キミはRPGを知ってるかい?キミは勇者だ。
今キミは銅の剣を装備している。そしてキミは冒険を続けるうちにはがねの剣を手に入れた。
キミならどうする?
今装備している銅の剣を売り、はがねの剣に装備し直すだろう?
つまりはそういう事さ。
まぁ中には銅の剣で冒険を止めてしまう勇者もいるだろうけどね。
でも彼女は違ったんだ。
冒険の途中、俺というはがねの剣を手に入れてしまった。
キミは銅の剣だった、って訳さ。
もしまだキミが彼女とまたやり直したいのなら、キミがはがねの剣以上の、もっと強い武器に成長して、また彼女の前に現れればイイ。
もっとも、その時に彼女がまだ冒険を止めていなければ、の話だけどね。』
 
俺超得意顔、だって一晩考えたんだもん。
 
元彼『 俺ゲームなんてしねーし、訳解んねーんだよ、このメガネデブ!』
 
俺、半泣きを堪えて、
 
『 こんな事言ってるよ?仕方無いヤツだね(笑)。』
 
って、余裕の作り笑顔で彼女を見ると、
 
彼女『 解るけどキモい。』
 
銅の剣は元の鞘に戻った。
 
 
 













 
 

 



 
 昔、俺が大学生で、晴海から釧路にフェリーが出てた頃。
TV見てたら急に北海道に行きたくなって、バイト代全額と全日本の道路地図だけ持って、いきなりバイクで釧路行きのフェリーにのった。
行けば何とかなるだろう。
ただそれだけ。
 
 寒いとは思っていたけど、想像以上に寒くて、まず着るものを買った。
勢いで根室まで走ってみた。
国道とはいえ車通りも少なく、森の中を走る気分は最高だった。
バイクですれ違うと、向こうがピースサインを出してくる。
驚いた。
気がついたら俺もピースサインを出していた。
手をぶんぶん振りながら。
 
 根室に着いたあたりで暗くなってきたから寝る所を探そうと思い、駅前をうろついてたら、駅にライダーハウスというのがあった。
1泊500円。
貧乏旅行には魅力的な値段だった。
 
 そこには、俺と同じような奴が一杯いた。
みんなテンションが高く、いきなり打ち解けて酒盛り。
 
 初対面なのに、いろいろ話して仲良くなった奴と、次の日納沙布に朝日を見に行こうということになった。
納沙布は霧が出ていて、朝日は拝めなかったけど、日本の東端に来たという満足感で一杯だった。
 
帰り、海沿いに羅臼を目指そうとしていた俺は、声をかけてみた。
 
「 俺、次で右曲がるけどどうするー?」
「 あー。俺まっすぐ行きたいー。お別れだー。」
「 OK。気をつけてねー。」
「 そっちもー。」
「 ばいよー。」
「 ばいよー。」
 
メットの前で軽く二本指を振って会釈をして、あっけなく別れた。
 
曲がってみて気がついた。
 
「 俺、あいつの名前聞いてねえ・・・。」
 
急に笑いがこみ上げてきてゲラゲラと声を上げて笑った。
その瞬間に一人旅のとりこになったような気がする。
 
 いまでは俺は、おっさんで、嫁も子供もいるけど、いまだにフラフラと一人旅をすることがある。
あの北海道ほどの感動はないけど、やっぱり一人旅からは離れられない。
 
 
 












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2月15日(木)のつぶやき

2018-02-16 03:02:27 | _HOMEページ_









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