新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川㉒ かつて浅草にそびえた塔・凌雲閣は初物尽くし。国内初のエレベーター、初のミスコン・・・ 

2018-03-13 | 東京探訪・隅田川の橋

 浅草にそびえる塔といえば今は浅草寺の五重塔だが、以前もっと違った塔が建っていた。凌雲閣。別名「十二階」。

 その場所がどこかと聞いてみると、現在パチンコ店となっている場所にあったことを教えてくれた。

 控えめな案内板が立っていた。
 正式名称は「凌雲閣」。1890年11月、地上12階、52mという当時日本一の高さを誇る高層ビルとして建設された。イギリス人ウイリアム・バートンの設計で、8階まで国内初のエレベーターが設置されたことも評判を呼んだ。
 だが、このエレベーターはすぐに故障してしまい、1年で稼働停止に追い込まれている。

 12階まで歩いて上るのは大変で客足が遠のく。そこで主催者が頭を絞った末にひねり出したあるイベントがあった。それはわが国初のミスコンテスト。
 東京の花街から選んだ美人芸妓100人の写真を階段の壁に張り出した。「上に行くほど美人のレベルが上がる」との触れ込みで、これを聞いた男性客が押し寄せたという。

 ことほど左様に浅草は新しいものを吸収し、生み出した街でもあった。

 そんなイベントではなくとも現代のスカイツリー並みの評判だったことから、ここには有名人も多数訪れている。

 正岡子規は「雲の峰 凌雲閣に 並びけり」と句を詠み、

 石川啄木は「浅草の 凌雲閣に 駆けのぼり 息が切れしに 飛び下りかねき」と詠った。

 また、田山花袋は「浅草十二階の眺望」に、「十二階から見た山の眺めは 日本にもたんとない眺望の一つである。左は伊豆の火山群から富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細やかに指点することが出来る」と感想を綴った。

 そんな「十二階」も1923年の関東大震災によって8階から折れ下がってしまい爆破処理されたという。

 その場所の近くに芸能系の6人の神様がそろい踏みをしていた。左から唄、奏、話、戯、演、踊の各神様の像だ。


 だいぶ歩いた。ちょうど見つけた喫茶店「アンヂェラス」でダッチコーヒーを一杯。

 ここは1946年創業、川端康成、永井荷風、池波正太郎らも通ったという老舗。我が国で初めてダッチコーヒーを紹介した店としても知られる。
 水で時間をかけて抽出する水出しコーヒーで、まろやかな苦味を堪能した。

 夕食の店を探しながら、また浅草寺を通った。ちょうど夕焼け。五重塔の奥に沈んでゆく夕陽が、燃えるように空を赤く染め、

 五重塔の屋根のシルエットを芸術的に浮き上がらせていた。

 ライトアップの模様も見ようと、本殿の角に立って沈みゆく空を眺める。

 最初は黒い姿の中にパチパチと花火がはじけるように所々が明るくなって行く。

 十分に暮れた濃い青の空をバックに塔は自らが光を発しているかのように、天空に胸を張る。

 見事な光景に出会った。


 輝く本殿も夜空の青に映える。

 ライトアップされた宝蔵門と、東にそそり立つ現代の塔・スカイツリーとの組み合わせは、典型的な新旧のマッチングとなっていた。

 
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隅田川㉑ 浅草を散策する。「風の神 雷門に 居候」 雷門の正式名称は?

2018-03-09 | 東京探訪・隅田川の橋

 さあ、浅草の街を少し歩いてみよう。吾妻橋の西詰には、東武鉄道浅草駅が入る駅ビルが建つ。地上7階地下1階のアールデコ様式のこのビルは、かつての鉄道省初代建築課長、久野節が設計し、1931年に完成したもの。上階には松屋デパートが入り、東京初のターミナルデパートになった。

 歩き出すとすぐに「神谷バー」の看板。ここは日本初のバーで、明治期以来多くの文学者に愛されてきた。

 右に曲がると、もう雷門が見えてくる。言ってみればこの門は浅草のランドマークでもある。この門の正式名称は「風雷神門」なのだが、正面から見ると「雷門」の文字だけしか見えず、何時しかこの呼び名が一般的になってしまった。 そのため
          風の神 雷門に 居候
                       といった川柳のネタにもされてしまっている。

 この門は1865年の田原町火災で焼失してしまったが、約1世紀後の1960年に松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助の寄進によって復元された。提灯の大きさは高さ3.9m、直径3.3m、重さは700kgもあるという。

 提灯の底には龍の絵が描かれている。

 また、浅草は伝統芸能の一拠点であるだけに、落語の世界にもよく登場する。雷門を舞台とした話に「そこつ長屋」がある。
 長屋の住人・八五郎が雷門で行き倒れの人間を見つけて熊さんに教える。
 「おい、お前が雷門の前で死んでるぞ!」
 そう言われた熊さん、あわてて雷門に駆け付け、死体を抱き上げる。 そしてつぶやく。

 「どうもわからねえ」  「何が?」

 「抱かれているのは確かにおれなんだが、抱いているのは いってえ誰なんだろう・・・」


 仲見世はいつも大賑わい。私たちが訪れた日は妙に着物姿が目立つ。

 と、思っていたら、友人が「彼女らはみんなレンタル着物を借りた外国人だよ」と教えてくれた。 確かに。

 このところ外国人観光客の急増ぶりは本当にすごい。

 かつては作家林芙美子も、新宿カフェー勤務時代、休日に大好きな浅草を歩いた。

 「だれ一人知った人もない散歩でございます。少々は酔い心地。まことに懐かしい浅草の匂い。

  ・・・鳩が群れている、線香屋さんの匂いがする。

 ああ、どこに向いても他国のお方だ。

 埃っぽい風が吹いている。あらゆる音がジンタのように聞こえてくる」(放浪記)


 境内に入った。まずは常香炉の前で例によって煙を体にかけ、本殿の階段を上ってお参り。

 休日だったせいか、お参りにも列が出来ていて順番待ちをしなければならなかった。

 本殿の天井には二体の天女像が舞っていた。日本画家堂本印象の「天人散華の図」。力作だ。

 この後は西参道側に移動した。すぐに、評判だというビッグなメロンパンを発見。

 大衆演劇の木馬館をかすめて六区周辺を歩く。


 佐多稲子は著書「私の東京地図」で浅草六区をこう描写している。

「頭の上はあくどい色彩の幟で空も見えない。張り巡らせたその幟には大きな字で毒草と、活動写真の広告。

 看板には、誰かを祈り殺す丑の刻参り、わら人形に呪いの五寸釘を打ち込む絵・・・・」
 

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隅田川⑳ 江戸時代最後の橋・吾妻橋 今では現代東京を象徴する景観が・・・

2018-03-05 | 東京探訪・隅田川の橋

 吾妻橋。この橋の西詰から眺める「リバーピア吾妻橋」と呼ばれる風景は、一種現代の東京を代表するものといえる。

 赤で統一された橋桁の向こうに東京スカイツリー、墨田区役所、アサヒビール本社ビルと金色の炎を表すオブジェ(フィリップ・スタルク作)が見える。
 かつてこの周辺で隅田川の両岸をつなぐのは「竹橋の渡し」だけだったが、対岸の本所方面の開発が進むとともに江戸最大に繁華街となった浅草界隈の大火避難対策もあって、1774年吾妻橋の架橋となった。

 この橋が江戸時代5番目、そして同時代隅田川に架けられた最後の橋となった。
現在の橋は1931年製。1887年に隅田川初の鉄の橋が架けられたが、関東大震災で焼け落ちていた。

 欄干にはここにも花火のデザインが見られる。

 江戸時代は吾妻橋あたりから下流が「大川」と呼ばれ、特に吾妻橋から新大橋付近までを「大川端」と呼んだ。

 今の吾妻橋は夜、赤くライトアップされてその光を水面に湛えている。

 墨田区役所横には、勝海舟の像があった。2003年、生誕180年を記念して有志が建立したものだという。


 川の東に渡り、アサヒビールの本社ビル21階から下界を眺めると、林立するビル群を切り裂くように隅田川の流れが見渡せる。
 南方面しか見えないため、下流に向けての眺めだが、一番手前に少しだけ見えるのが駒形橋。その先にある厩橋はちょうど改修工事中なのか全体にカバーが掛かっている。そこから蔵前橋などが確認できる。 
 この周辺は江戸時代後期にはわが国最大の繁華街として栄えた場所だった。

 「白髭から永代まで5つあった大橋が今はその数が倍になって、ひとつの橋の上に立って川筋を見渡すと、

 きっちりと物量感を持った鉄の橋がその先から先へと、二重にも三重にも重なりあって眺められる」

  (佐多稲子『私の東京地図』)

 ここまでくれば浅草寺に寄らないわけにはいかない。まずは浅草寺についての予備知識を仕込んでおこう。

 寺の起源は628年、宮戸川(現隅田川)で漁をしていた桧前兄弟が、網に引っかかった金の観音像を見つけ、土師中知がこの像を供養したことから始まったという。

 歌川広重が描いた浅草寺の浮世絵だ。「吾妻橋金龍山遠望」。
 裕福な商人の舟遊び風景で、船の屋根の下に吾妻橋が見え、芸者の後ろ姿が半分だけ見える。その遠景として浅草寺本堂と五重塔がかすかに描写されている。


 私が浅草に来る時には地下鉄を利用する。東京メトロ銀座線の浅草駅出口は、和風にデザインされている。

 この線はわが国の地下鉄第1号だ。計画では浅草から新橋までを一挙に開通させる予定だったが、工事開始後まもなく関東大震災が発生して計画変更を余儀なくされ、1927年にまずは浅草ー上野間2・2キロで開業となった。
 わずか5分間の乗車時間だったが、初めての地下鉄というものを体験しようと、開業当初は2時間待ちの行列ができたという。その後建設が進み,現在の区間になったのは1939年のことだ。


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隅田川⑲ 関東大震災が、駒形橋建設など隅田川の橋再開発の契機となった

2018-03-02 | 東京探訪・隅田川の橋

 厩橋を過ぎると駒形橋が見えて来る。橋越しに、もう東京スカイツリーは目の前にそびえて見える。

 名前の由来は、橋の西詰のお堂からきている。

 この堂は駒形堂。浅草寺縁起によると、平安初期の942年、安房守平公雅が浅草寺観音堂を建てた時ここにちいさな堂を造り、浅草寺の本尊・聖観音像を最初に奉安したところだった。
 今の駒形堂は2004年に建て直されたので、新しい。

 歌川広重の絵「駒形堂あづま橋」では、左端に駒形堂の屋根が描かれている。その屋根越しに見えているのは駒形橋ではなくて吾妻橋だ。

 実は駒形橋が出来たのは広重の時代よりもずっと後の1927年(昭和2年)と、昭和に入ってからのことだ。

 なので、当然広重の絵には駒形橋の姿を見ることはできない。当時は「竹町の渡し」があり、船で川を渡って駒形堂に参拝し、そこからつながる参道を歩いて雷門、浅草寺へと向かうのが、スタンダードなコースだったという。

 駒形橋建設のきっかけとなったのは、1923年に発生した関東大震災。隅田川の橋の大改革はまさに関東大震災によってもたらされた。 
 震災の前年(1922年)に東京市長になった後藤新平は、アメリカから政治学者ビアードを招いて市の再開発を計画、模索していた。  そこに発生した震災。

 震災復興事業の一環として実施されたのが隅田川改造で、結果として相生,永代、清州、蔵前、駒形、言問の6つの橋が架けられることになった。これが隅田川のバラエティ豊かな橋のきっかけとなり、うち永代橋、清州橋は現在、国の重要文化財になっている。


 日中は青い落ち着いた姿の橋だが、

 ライトアップされると、アーチが浮き出るように強調されて、昼とはまた違った美しさが発揮される。

 橋の東詰には長髪の女性像が、隅田川の流れを静かに眺めている。「休日の午後」(樋口保喜作)というタイトルがついている。


 また、川岸に設けられた遊歩スペース「隅田川テラス」からは川を挟んで向こう岸にスカイツリーと足元を走る高速道とが夕闇から立ち上がり、現代の東京を象徴するような光景が展開される。

 間近で見上げる駒形橋は、野性的な骨組みに意外な逞しさをも発見することが出来た。

 帰りがけ通った夜の駒形堂は、重厚なたたずまいを見せていた。


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