新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

東京探訪・石川啄木編③ 長男の死、母の死、そして自身の死

2017-05-05 | 東京探訪・石川啄木編

 朝日新聞社での仕事は、二葉亭四迷全集の編集を任されるなど責任ある職務にも就いた。
 そんな中、うれしい出来事もあった。1910年(明治43年)10月4日男児誕生。新聞社入社の恩人である佐藤北江の本名である「真一」の名前を息子につけた。

 ただ、この子は生まれながらにして病弱だった。生後わずか27日目にして急死してしまった。
 「夜遅く 勤め先よりかヘリ来て 今死にしてふ子を抱けるかな」


 実は、処女詩集「一握の砂」は長男誕生と同時に出版が決まっており、出産費用にと作業が進められていたものだった。
 結果的にその収入は、長男の葬儀費用へと変わってしまった。

 「かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり」の歌は、「一握の砂」の末尾に収容された。

病魔は、家族全員に襲いかかった。1911年(明治44年)2月啄木は慢性腹腔炎で本郷の帝大病院に入院、妻節子も胸を病んだ。
 そんな中、一家は小石川久堅町の貸家に移ることになった。ただ、ここでの生活もあっけなく終止符を打つことになる。

 翌1912年3月に母が死去。後を追うように4月13日午後9時30分、啄木もわずか26歳にして、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、その生涯を終えた。


 死の当日、啄木の詩歌の熱心な崇拝者であった若山牧水が啄木宅を訪れた。
 だが、啄木はまもなく昏睡状態に陥った。

 「私はふと彼の長女がいないのに気づき、探しに戸外に出た。そして門口で桜の落花を拾って遊んでいた彼女を抱いて引き返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかえて、低いながら声をたてて泣いていた」

 
 啄木の終の棲家となった小石川の家は、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から徒歩7分、桜で有名な播磨坂の途中にあった。常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷があった場所だ。

 幅広い通りから1本奥に入った所にある高齢者施設の一角に歌碑と顕彰室が建てられている。

 歌碑には啄木の死後発行された「哀しき玩具」の冒頭に収められた2首の歌が、直筆を陶板にして刻まれている。



 「呼吸すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩(こがらし)よりもさびしきその音」

 「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし さびしくもまた 眼をあけるかな」

 これらは啄木の病死から約2か月前。次第に悪化して行く病状の中で徐々に心も折れそうになる心情をうかがうことが出来る。

 碑に使われた石材は、啄木の故郷姫神山の石を取り寄せて使用したという。

 また、顕彰室には年表、写真パネルなどによって啄木の生涯が開設されている。これらの施設は2015年3月に完成したばかりだ。

 こうした探訪の旅をしている途中で、こんなポスターが鉄道駅構内に貼ってあるのにお目にかかった。肺結核への注意を喚起する内容だが、ここに登場する人たちはいずれも今回の旅に関係する文人ばかり。
 樋口一葉24歳、滝廉太郎23歳、正岡子規34歳、そして石川啄木26歳。

 あまりにも短かった生涯に、改めて息をのんでポスターを見つめた数分間だった。
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東京探訪・石川啄木編② 2度目の転居。朝日新聞社勤務を始める

2017-05-02 | 東京探訪・石川啄木編

蓋平館別荘での生活が始まったが、それもほどなく解消されることになる。詩歌を創作する日々の中で、しばしば雑誌などに掲載されることもあったが、中には全く原稿料が支払われないこともあり、生活の見通しは一向につかなかった。

 そんな中啄木は、朝日新聞編集長佐藤北江が自分と同じ盛岡中学出身ということを知り、全く面識がないにもかかわらず求職の手紙を書く。
 すると、意外にも面会承諾の返事が届いた。そこで啄木は自らの作品が掲載された雑誌などを持参してPR。佐藤も、かつて啄木が自らと同様に地元の新聞社で働いていたことを知って、話が弾んだ。

 数週間後、啄木の許に採用の知らせが届いた。ただ、希望した記者ではなしに「校正係」。それでも金銭的な問題の解決には大きな朗報だった。

 「暗き十か月の後の 今夜のビールはうまかった」。

 これを機に啄木は盛岡に残してきた家族を呼び寄せることを決め、上京後2度目の引っ越しを行う。新しい住まいは本郷弓町2丁目の「喜之床」という理髪店2階だった。

 その場所を訪ねた。現在の春日通りと、一葉探訪の時に歩いた本妙寺坂との交差点付近に、今も理髪店を営む「バーバーアライ」のあるところだ。

 ここの標識によると、「喜之床」は1908年の新築以来関東大震災や東京大空襲にも耐えたが、春日通りの拡張に伴って改築されたという。

 その旧宅は今、犬山市の明治村に移築されている。

 標識には、この地で創作した歌「かにかくに 渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川」が載せられていた。

 ここでの啄木は、新聞社に勤めながら創作の日々を送っていた。

 当時の朝日新聞社は銀座6丁目にあった。啄木は電車の回数券を買い、車内ではドイツ語の勉強をしながら通ったという。この時期、朝日新聞社には夏目漱石も在籍していた。

 今は同社は築地に移転したが、跡地横に啄木の記念碑が立っていた。啄木の肖像と共に、勤務時代の社内の模様を描写した歌が刻まれている。

「京橋の 滝山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」
 新聞社は、朝刊の締め切りが夜になるので、昼よりも夜の方が活気づく。そんな社内の雰囲気を表現した歌だ。

 碑の裏側にキツツキが留まっていた。キツツキとは啄木鳥と書く。

 彼がキツツキをペンネームにした理由は、キツツキがカンカン木をたたく音を社会への警鐘と捉え、自らも社会への警鐘を鳴らす存在でありたいとの気持ちを込めて名付けたのだという。





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東京探訪・石川啄木編① 啄木北海道から上京、「もし女だったら、この人を恋しただろう・・」

2017-04-29 | 東京探訪・石川啄木編

 これまで樋口一葉の生涯について、その足跡をたどってきたが、最も中心的な場所となった本郷地区は、もう一人、忘れがたい早世の詩人・石川啄木晩年の足跡と重なる部分が多い。
 その青年の東京生活をたどってみよう。


 一葉が貧困の中で懸命に生きた菊坂町近く、菊富士ホテルそばにあった下宿屋「赤心館跡」を訪ねた。ここは一葉が早世してから12年後の春、北海道から上京した22歳の青年が、成人後初めて東京に住まい始めた下宿だ。

 名は石川啄木。文学を志し、盛岡中学時代の2年先輩金田一京助の援助を得て、この下宿・赤心館に住み始めたのは、1908年(明治41年)4月のことだった。

 啄木はこの地で処女詩集「一握の砂」に収録されることになる歌を書き始める。跡地近くのマンション一階に「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて 蟹とたはむる」の歌が掲示してあった。

 ただ、赤心館暮らしはあっという間に終わりを告げる。精力的に創作活動を始めたものの、収入はなく、下宿代不払いで部屋を追い出されてしまう。

 この時の啄木の日記。「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引っ越さないかといふ。午後5時少し過ぎて森川町新坂359蓋平館別荘という高等下宿に移った」「家の造りの立派なことは東京中の下宿で一番だといふ」。

 そんな風に、金田一は常に後輩の啄木の面倒を見ており、啄木もそれに関しては大きな敬意と共に接していた。
 「金田一君という人は世界で唯一の人である。かくも優しい、情を持った人、かくも懐かしい人、若し予が女であったならきっとこの人を恋したであらうと考えた」。

 蓋平館別荘は、直線距離にすれば赤心館から約200m。旧森川町の新坂という、言問通りから東に上る急な坂を上りきったところにあった。

 文京区によるプレートも立っていた。

 建物はその後太栄館という施設に変わった。

 ただ、私が行ったときは工事中で更地になってしまっていた。

 旧森川町には徳田秋声の家もある。竹林に囲まれた板塀の家は、いかにも文豪の住まいといったたたずまい。
 これまでに紹介した著名人たちはほとんど様々な事情で短期間に転居を繰り返していたが、徳田は金沢から上京して、1905年から73歳で亡くなるまで38年間もここに住み、第一回菊池寛賞受賞作品「仮装人物」を始め、著作のほとんどをここで完成させた。

 また、博文館に編集者として在籍していたことがあり、ちょうど同社で発行した一葉の「にごりえ」の編集を担当、一葉と顔を合わせている。

 この立派な竹林は、同じ金沢出身の室生犀星から贈られたものだという。


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