新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

エドゥアール・マネとその時代を歩く② 「神話」から「現実」へーパリ画壇をゆるがす大事件勃発

2017-02-28 | マネと印象派

 マネはサロン初入選の2年後、1863年にパリ画壇を揺るがす大事件を引き起こす。彼がサロンに出品したのは、当初「水浴」と題された作品。 のちに「草上の昼食」とされたその絵には、洋服を着た2人の青年の横に全裸の女性が座っている。

 女性の裸体は、ヴィーナスなどの神話のテーマとしてしか描かないという不文律が、何世紀にもわたって続いていた。それが、全くの日常風景の中に、堂々と鑑賞者に視線を向けた全裸の女性が・・・。

 サロンはこの作品を即座に落選としたが、落選作品だけを集めて開かれた「落選者展」には、初日だけで7千人もの観客が押し寄せるという大騒動となった。


 この年のサロンで絶賛を浴びたのはカバネルの「ヴィーナスの誕生」。

 こちらも官能的とさえいえる女性の裸が描かれたが、タイトルは「ヴィーナス」つまり神話という衣に包まれた‶理想化された”姿。それに対して、‟現実の世界に現れた生々しい女性像”という、当時の画壇の観念的な区分けに挑戦する、マネの大胆な試みだった。


 古い慣習(アンシャン・レジーム)への挑戦はさらに続く。
2年後の1865年、マネは「オランピア」を出品、前作以上の物議をかもした。今度はストレートな高級娼婦の登場だ。

 首に結ばれた紐飾りと腕輪

 たった今届けられた花束

 脱げかかったサンダル

 そして、興奮したネコ
すべてが娼婦を現していた。サロンに展示された時、観客による破壊から守るためにこの絵の前には特別に専門の守衛が配置された。

 スキャンダルになったが、それと同時に既成の概念を打破し、新しい時代の旗手として、マネを師と仰ぐ若手の画家たちも自由への扉をこじ開けて行く。

 ところで、この2作は「日常に登場した裸体」という衝撃が語られるが、個人的にもっと刺激的なものがあると感じる。それは女性の視線だ。



 なんの衒いもなく、強烈な熱を持って真っすぐ鑑賞者に向けられたまなざし。その視線を受け止めるとき、描かれた光景が、まさに現実の世界であることを容赦なく認識させられる。

 目と目が合ってしまえば、そこに「今」が存在するのだから。
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エドゥアール・マネとその時代を歩く① マネの生家はルーブル美術館のすぐ近くにあった

2017-02-25 | マネと印象派

 世界の名画を一堂に集めた、フランスが誇るルーブル美術館は、パリ1区セーヌ川のほとりに建っている。

 川を挟んで対岸には、多数の芸術家を輩出し続ける国立美術学校(エコール・デ・ボザール)。

 それと向かい合うように、しっかりした門構えの奥に一軒のビルがたたずむ。プティ・オーギュスタン街5番地。


 ここで、後に近代絵画の歴史を一変させる偉大な画家が生を受けた。名はエドワール・マネ。1832年1月23日のことだった。

 父・オーギュスト・マネは司法省の高級官僚であり、母方のフールニエ家は外交官の家柄だった。

 現在はボナパルト街となった通りは、ずらりと背の高いビルが並ぶ高級住宅街。

 マネの家も門の中に庭を持つ豊かな暮らしを連想させる建物だ。

 ここからすぐのルーブル美術館は1793年に開館し、3年後にはいったん閉鎖したが、ナポレオン1世が各国から収奪した美術品を加えて、1801年に再オープンしている。
 向かいの国立美術学校も含めて、モネは周囲に芸術的環境に恵まれた中で子供時代を送っていた。


 両親は息子が法律家になることを望んでいたが、マネは芸術に傾倒し、学問を嫌った。海軍兵学校の受験に2回失敗すると、父親はようやく息子の希望を受け入れるようになった。

 絵の勉強を始め、詩人のボードレールやファンタン・ラトゥールなど、パリの若い知識人との交流の中で、彼は戸外での作品制作を始めるようになる。

 今はなくなってしまったクリシー大通りの店「カフェ・ゲルボワ」の常連たちをモデルに何枚もの作品を描いた。


 その一枚がこれ。「カフェ・ゲルボワにて」だ。ここは印象派の集合場所の1つだった。まずマネが通い始め、次にドガ、モネ、ルノワール、バジールなどが集まり、芸術論議に花を咲かせた。

 
 そして1861年、「スペインの歌手」がサロンに初入選(佳作)。マネは画家としての順調な第一歩を歩みだした。
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パリ・モンマルトル紀行⑮ モネが洗礼を受けた教会 ノートルダム・ド・ロレット教会下

2017-02-21 | パリ・モンマルトル

 ロレット教会内部、左側廊に美しい木製の聖母子像を見つけた。

 近づいてその表情に見入る。   凛とした表情が素晴らしい。

 「この聖母子像に会うためだけに、この教会を訪れる人も多いんですよ」。教会の司祭が教えてくれた。      なるほど!


 左奥の部屋には、鮮烈なステンドグラスがある。聖母被昇天の場面が描かれている。


 この教会は印象派の画家たちの人生の節目といろいろなかかわりを持っている。

 まず、1832年にはエドガー・ドガの両親がここで結婚式を挙げている。

 それから8年後の1840年、モネの洗礼式もここで行われた。

 モネの生家はラフィット通り48番地のビルの6階。教会からすぐだ。

 モネ一家は1845年にル・アーヴルに移るまでここで暮らした。

 さらに1894年、カイユボットの葬儀もここで行われた。カイユボットは自らが画家であると同時に、印象派の作品を買い取り、現在のオルセー美術館の核となるコレクションを残した功績者でもある。


 それだけ、この教会周辺に後の印象派の画家たちが住み、彼らの信仰のよりどころになっていたということだろう。

 こんなこけしのような天使像もあった。

 聖母子の神殿奉献だろうか。美しい絵画も残されている。

 1800年代のパリの情景を想像しながら、パリ在住の友人の職場に向かった。

 次回からは、マネを中心とした19世紀の絵画の物語を始めてみたいと思っています。
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パリ・モンマルトル紀行⑭ 2つの教会が‟合体”する奇跡のポイントを見つけた=ノートルダム・ド・ロレット教会上

2017-02-18 | パリ・モンマルトル

 今日はある2つの教会が1つに重なり合うという奇跡的な瞬間に出会える場所に行ってみよう。

 
 まず、地下鉄ブランシェ駅前からピエール・フェンティーユ通りを南下する。途中ピガール通りと交差する地点にゴッホゆかりの家がある。フィンセント・ゴッホの弟テオ・ゴッホの家だ。ゴッホの終の棲家となったオーベル・シュル・オワーズに引っ越す時、つまり自殺する3か月前にこの家を訪れている。

 今はサロン・ド・テになっているようだ。

 広くにぎやかなロレット通りをセーヌ川方面に向かって歩く。ちょうど同名の地下鉄駅前にノートルダム・ド・ロレット教会がある。
 すぐには中へ入らずに、いったんそのままラフィット通りを下ってみる。その通りと東西に延びるオスマン通りが交差する少し手前まで歩く。
 そして、今まで来た道を振り返ってみよう。

 すると、ロレット教会の正面の上に、モンマルトルの丘にそびえ立つサクレクール教会がすっぽりと乗っかったように見えてくる。
 まるで2つの教会がこの瞬間だけ1つに合体してしまう場所なのだ。なかなか見ることの出来ない不思議な光景だ!

 それでは教会に戻って中に入ってみよう。この教会も素晴らしい輝きを持った聖堂なのだ。天井には金色の十字架があり、その輝きで教会全体が明るく感じる。


 主祭壇の上には聖母マリアの姿が。

 その上のクーポラ部分にもフレスコ画が描かれ、二重の半円形が重なっている。
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パリ・モンマルトル紀行⑬ モンマルトル墓地で出会った人たち・下 印象的な墓の数々

2017-02-14 | パリ・モンマルトル

 有名人の墓以外にも印象的な墓がいくつもあった。

 非常に美しい全身像が飾られた墓。名前を見ると jacqeline didsbury という名前が刻まれていた。

 一方、パイプを持った紳士。顔が彫られているのだが、浮彫ではなくて顔面がへこんだ形のユニークな像だ。

 こちらは何か物思いにふける男の像。生前は詩人だったのかも。

 かと思えば、沢山の写真に囲まれた男性の墓。ダンディさが売り物だったのかな。

 男性に縋りつくような女性の姿。まるでドラマの1シーンのようだ。

 日本人と思われる人の墓もあった。

 墓に刻まれた名前は usui kazuko さん。

 墓碑には「桜花 ちりても永久に 美しき」 との句が刻まれていた。

 近くには、まるで墓地の守り神のようにじっと参拝者を監視していたネコ。

 ボタン雪に似た雲が空一杯に広がったころ、墓地を後にした。
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