新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

東京探訪・お七の恋人はどこへ? 引っ越した目黒大円寺はその後江戸三大大火の火元になった。

2018-04-30 | 東京探訪・お七火事

 JR、地下鉄、東急線の集まる目黒駅から、左手の坂を下る。ここは行人坂。かつて修行者たちが住んでいたところから名付けられた名称だ。

 歌川広重が「目黒行人坂」を描いている。

 芸能プロダクション大手のホリプロビルを右手に見ながら坂を下ると、まもなく小さな祠が見つかる。

 勢至菩薩像。これはかつての八百屋お七の恋人・吉三郎が出家して西運となった姿だ。

 その祠の隣りが大円寺だ。
 1772年(明和9年)にこの寺から出火した火事が、神田、千住方面にまで燃え広がった「明和の大火」となった場所。明暦の大火(1657年)、車町火事(1806年)と並んで江戸三大大火の一つに数えられる。
 お七火事の関係者が移ってきた場所が、お七を吉三郎とめぐり合わせた最初の火事の火元と同じ大円寺という名前で、実はそこが後に別の大火の火元になったというのも何かの因縁かも・・・。

 なお、余談だが出火した年が「明和9」=迷惑 ということで縁起が悪いとして、直ちに元号が明和から安永に替えられたという後日談もある。


 目黒の大円寺に入ってみる。左側にびっしりと仏像が立ち並ぶ。五百羅漢像。明和の大火で犠牲になった人たちを供養するために、職人たちによって50年もかかって造られた仏像群だ。

 釈迦三尊像や十大弟子像なども含めて、

 個性豊かな表情が見られる。

 おっと、本題に戻ろう。お七と西運に関連するものは右サイドにあった。阿弥陀堂。この中にお七地蔵が祀られている。

 堂の前には、吉三郎が出家した西運の碑があった。

 吉三郎は、お七火事の後最初は大円寺と隣接した明王院に身を寄せた。お七の菩提を弔うとともに、念仏堂の建立のために、目黒不動と浅草観音に一万日日参の悲願を立ててそれを実行した。

 27年後明王院に念仏堂が完成したが、同院は明治になって廃寺となった。このため、隣の大円寺住職がそれを引き取ったという。そんな経緯が、この堂には秘められている。

 大円寺には境内に各所にいろいろな像が点在していた。ちょっと紹介しよう。

 超ハンサムな地蔵様

 見ざる聞かざる言わざる の3猿。

 ずらりと勢ぞろいの六地蔵。

 仲良し二人組

 七福神もいた。

 本筋からは離れているけれども、好みの仏様を探すという息抜きの楽しみもありかな、と思ったひと時だった。

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東京探訪・お七火事の現場へ  八百屋お七はどうして歴史に名を残したのか?

2018-04-27 | 東京探訪・お七火事

 「火事と喧嘩は江戸の華」 ボヤを含めれば毎日のように火事が発生していたとされる江戸の町だが、その中でも最も異色のストーリーが八百屋お七の「お七火事」だ。その事件を、現場をたどりながらどうして後世に伝えられるような物語になったのかを探ってみた。

 まず、発端となったのが、東京・駒込の大円寺から出火した火事。大円寺は旧白山通り、都営三田線の白山駅近くにある。1683年暮れも押し詰まった12月28日に起きた火災は、本郷地区一帯を焼き死者3500人ともいわれる大惨事となった。

 この火災により、本郷追分で八百屋を営んでいた八兵衛一家も焼け出されてしまった。今でいえば東大農学部前の白山通り付近だ。

    (歌川国貞作のお七)
 八兵衛は一人娘、16歳のお七を伴って、菩提寺である吉祥寺に身を寄せた。そこで出会ったのが寺小姓の小野川吉三郎。2人はたちまち恋に落ちた。

 やがて本郷追分の家が再建されると、お七は実家に戻ることになる。だが、吉三郎恋しの、お七の思いは日増しに募る。

 「火事が2人をつないでくれた。もう1度火事が起きれば吉祥寺に行くことが出来る!」

 恋心は恐ろしい。短絡的な考えがお七を行動に突き動かした。

   (歌川国芳作のお七)
 1684年3月2日、風の強い日。お七は我が家に火をつけてしまった。だが、この火事はすぐに消し止められた。放火の大罪を犯したお七は捉えられ、火あぶりの刑に処せられるという悲劇の物語だ。


 発端の大火の火元である大円寺には、「ほうろく地蔵」という地蔵がある。これは火あぶりになったお七を供養するためにたてられたもの。

 ほうろくとは素焼きの浅い土鍋のことで、地蔵さまは熱したほうろくを頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けている。

 この物語が一躍世に広まったのには、理由がある。その大きな原因は井原西鶴にあった。当代一流の戯作者である西鶴がこの事件を取り上げた。著書「好色五人女」は大きな評判をとり、江戸中に広まった。
 さらに、お七火事は歌舞伎でも上演されて大当たりの出し物になる。

 また、こんなエピソードも、お七の悲劇性と江戸っ子の同情を買うことになった。

 放火に対する罪は厳しいといっても、お七の場合はボヤで済んでいる。また、当時でも15歳以下の子供に対しては、情状酌量も認められていた。
 それで、南町奉行甲斐庄正親は「お前は15であろう」と誘導したが、放心状態にあったお七は「いいえ、16です」と答えてしまい、罪の軽減を受けることはできなかった。

 様々な取り上げ方をされたおかげで、どこまでが事実なのかが不明になっている部分も多い。
 まず、お七の恋人とされる人物。
 ①吉祥寺の小姓吉三郎説。
対して②実はお七が身を寄せたのは円乗寺という寺でその寺の小姓、山田佐兵衛と恋仲になった。吉祥寺の吉三郎は2人の仲を取り持った人間だったーーという説。

 吉祥寺には、「お七吉三郎比翼塚」という大きな碑が建っている。紀行文学愛好会が建てたものだ。

 対して円乗寺はどうか。ほど近い円乗寺に行ってみた。

 こちらには「お七の墓」として墓石が3つおかれていた。

 中央の丸い石がお七の墓。頭部が欠けているが、芸妓や茶屋の娘たちがおまじないのために墓石を削って持ち帰る風習があったためという。

 右には供養塔。

 これは歌舞伎「八百屋お七」のお七役で大当たりをとった岩井半四郎が1793年に寄進したものだ。

 また、左側には1950年に町内の有志が270回忌の供養に立てたという赤い幟がはためいていた。

 一方人形浄瑠璃の世界でもこの物語が取り上げられた。雪の夜火の見櫓に上って半鐘を打ち鳴らすお七の姿が評判を取り、繰り返し上演されたという。

 月岡芳年の描いた浮世絵でもその劇的な姿が残されている。

 ただ、前述したようにお七が起こした火事はボヤ。あのような半鐘を鳴らしたことはなかったわけで、お七はさまざまなメディアに脚色されるうちに全く別人のヒロインとして仕立て上げられてしまったというのが実情のようだ。

 さて、お七は16歳の短い生涯を終えたが、恋人とされた吉三郎はどうしたのか。意外な後半生を追って目黒に向かった。

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会津への旅 下 鶴ヶ城の桜 高校3年時授業の場所だった思い出の城内で幻想的な夜桜に出会った

2018-04-24 | 会津への旅

 飯盛山から鶴ヶ城へ移動した。

 この城は1593年蒲生氏郷が築城したもの。7層の天守閣があり戊辰戦争では1か月にわたる官軍の激しい攻撃にも耐え抜いた歴史を持つ。
 ただ、老朽化が激しくなり明治になって取り壊され、再建されたのは1965年のことだった。

 今回の訪問の目的は城と桜。前日に激しい風雨が吹き荒れたが、桜はしっかりと耐えて満開の美を誇っていた。
 城内には約1000本の桜があり、それが見事に咲きそろって壮観だ。

 この城には深い思い出がある。


 実は高校2年生の11月、ちょうど中間試験の前夜に私たちの高校から出火、一部を除いて校舎は焼け落ちてしまった。
 そのため私たちの学年が2年生の3学期から3年の卒業まで移転を余儀なくされた。その仮校舎に充てられたのがこの鶴ヶ城の敷地だった。

 従って丸々1年間お城の中で学び、過ごすという、他学校はもちろん他の学年の生徒たちも誰も経験できないまれな高校生活を送ったわけだ。

 そんなことを思い出しながら、天主閣を中心にゆっくりと場内を巡る。


 東南の一角に「荒城の月」の碑があった。

 詩人土井晩翠がこの地を訪れ、構想を練ったという場所だ。

 三の丸への出口付近にある廊下橋は、朱塗りの映える橋。豊臣秀吉も会津を訪れた時はこの橋を渡って天守閣に進んだとされる。

 堀にも満開の桜がずらりと並ぶ。

 水面には散り始めた花びらが浮かんでいる。

 荒城の月の碑上方にある土手の高台からは天守閣と桜のコラボレーションがピッタリするアングルが認められた。

 三の丸付近で出会った新島八重の像。まさに「八重の桜」。

 いったん休憩して、ライトアップされるという日没時に再び城に。午後6時を過ぎて夕暮れと共に照明が光り始めた。

 天主閣のライトアップは、中、下層がピンクに染めれらていた。そして桜の花びらの形も認められる。

 ようやく空が暗くなってきた。それと同時に照明も輝きだす。

 白い桜と白い城、そしてピンクの壁。極限まで咲き開いた桜に囲まれて、ブルーの空を背景に浮かび上がる天守閣はまさに幻想的。

 可憐な美がそこにあった。

 廊下橋の朱と桜の妖艶な城にも目を奪われる。

 帰り際、堀沿いの桜が水面にその姿を映していた。

 訪れる時期と桜満開とが偶然にもピッタリと合ってくれて、稀有ともいえる光景に出会うことが出来た。


 翌朝帰りの電車で、湯野上駅付近で地元の子供たちが手を振って見送りをしていてくれた。田舎ならではの得難く可愛らしい光景だった。

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会津への旅 中  白虎隊の墓へ、二重らせん階段のさざえ堂。ポンペイの柱もあった!

2018-04-22 | 会津への旅

 街歩きから、ハイカラさんと名付けられた市内周遊バスで飯盛山へ。山頂までは183段の階段があるが、有料のスロープで一気に山頂へ上った。

 ここは白虎隊の聖地。会津藩は戊辰戦争で敗北するが、敗色濃厚となった1868年3月、年少の男たちも兵として組織された。その中の1つに白虎隊もあった。

 白虎隊は官軍の攻撃に遭い敗走、戸ノ口堰洞穴をくぐり抜けて飯盛山にたどり着いた。

 この高台からは、はるかに鶴ヶ城が見渡せる。

 眺めると、城は火の手が上がっており、兵士たちは「城が落城した」と覚悟を決め、この山にたどり着いた20人が切腹、あるいは互いに友を刺して最期を遂げた。白虎隊の悲劇だ。

 実際は、敵が城に近づけないように城の周りの家に火を放ったのだが、山からはそれはわからなかった。

 こうして白虎隊は壊滅した。ただ、20人のうちただ1人生き残った飯沼貞吉が、後に隊の最後の様子を語り、その模様が後世に伝わることになった。

 19兵士の墓は当初明治政府によって埋葬が禁止されていたが、明治17年になってようやく慰霊祭が行われ、墓が造られた。

 墓の近くに変わった塔があった。これは白虎隊のエピソードに感銘を受けたイタリアから贈られたもの。円柱はヴェスビオ火山の爆発で埋没したポンペイにあったローマ神殿の柱だという。

 墓から少し下った所に、「世にも奇妙な」と形容される堂がある。さざえ堂。1796年に建てられた六角三層の仏堂だ。
 高さは16.5m。当時ここにあった正宗寺の住職、僧郁堂が考案したとされる。

 内部の通路は二重らせん構造になっており、上りと下りとは全く交わらずに通行できるようになっている。 二重らせんといえばまさにDNA。こうした二重らせんの階段はフランスのシャンポール城にもあり、レオナルド・ダ・ヴィンチが考案したとされているが、これと同じ構造の構築物が会津にもあるという不思議は、なかなかミステリアスだ。  このさざえ堂は国の重要文化財に指定されている。

 天井には各種の札が隙間なく張り巡らされていた。

 かつては階段に沿って西国三十三観音像が安置されていて、ここをお参りするだけで三十三か所の巡礼に相当するご利益が得られるとされた。今は像はわずかに残っているだけだった。




 
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会津への旅 上  建築巡り 野口英世が手術を受けた病院は今喫茶店に。

2018-04-18 | 会津への旅

 先日久しぶりに会津若松に行き、満開の桜を見てきました。

 会津は生まれ育った故郷。でも大学から上京してしまったため、実際には郷里の歴史などほとんど学ばないままに今日まで来てしまった。

 それで、少しだけ学習を兼ねての街歩きを実践してみた。

 まずは七日町通りの建築散歩。ここは高校時代親友の家があったため、しょっちゅう遊びに行き来したところだが、当時とは大きく様変わりしてしまっていた。でも、昔からの老舗の建物は健在だ。

 駅を出てすぐにあるのが渋川問屋。明治初年創業の老舗料理店。

 少し歩くと鶴乃江酒造。1794年創業という造り酒屋だ。建物は大正初期のものがそのまま残っている。この酒屋は母娘の杜氏が女性らしい繊細な銘酒「ゆり」を発売したことでも評判をとった。

 造り酒屋といえば七日町通りから大和町通りに曲がった所にある末広酒造も、江戸時代1850年創業という老舗だ。今の建物は明治期。黒板壁と白漆喰壁のコントラストが美しい。

 造り酒屋独特の杉玉が下がっていた。この杉玉は、吊るされたばかりはまだ青いが、次第に枯れて茶色がかってくる。その変化が新酒の熟成具合を伝えることになるのだという。

 もう1つ東側の桂林寺通りには、味噌田楽が売りの満田屋などの店が並ぶ。

 七日町通りに戻って、白木屋の洋館が見えてきた。創業300年という大老舗の漆器店だ。会津塗は会津藩の主要産業だった。

 となりの滝谷建設工業ビルは円柱が堂々とそそり立つ。

 大町四つ角に到着。この四つ角は、交差する道が微妙にずれて造られている。江戸時代、敵軍が攻め込んできたとき、馬などが一旦スピードを緩めなければならないようにわざとずらして造ったものだ。

 その四つ角を南に曲がると、ここは野口英世青春通りと名付けられた道になっている。昔はこんな名称は全くなかった。

 南に進むと、ほどなく左手に黒い蔵造りの洋館が見えてくる。

 会津一番館。ここは明治期には会陽病院という病院だった。そこに左手にやけどを負った野口英世少年が運ばれ、手術を受けた。やがて英世少年はここに書生として勤めることになった場所でもある。

 そこが今2階が野口英世青春館としてゆかりの品が陳列される記念館になっている。

 1階は自家焙煎のコーヒーが飲める喫茶店。ここで一休みしよう。

 そこからほどなく英世青春広場。英世の銅像が春の陽を浴びていた。

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