新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

南仏・コートダジュールへ⑬ シャガール下 彼の住んだ街の小学校には、シャガールらしい絵本のような壁画が飾られていた

2021-12-31 | 南仏・コートダジュール

 サンポール・ド・ヴァンスの町を歩いていると、道沿いにシャガールの絵が標識となって立てられていた。絵の左側部分に描かれていたのは、まさにサンポールの街並み。

 塔の角度も一緒で、シャガールは実際にこの場所で描いたんだろうな、と実感できる標識だった。

 そんな風景を見ていると、視野の隅に何やら壁画のようなものが映った。

 近づいて行くと、少し下った場所に学校がある。「サンポール小学校」

 校舎脇に大きなモザイク画が掲げられていた。

先生に聴いてみると、この壁画はシャガールの死後、彼のデッサンを基に学校敷地内に造られたものだという。

この地区と、ここに住み、育つ子供たちは、今でもシャガールの大きな愛に包まれて息づいているのだなあ、という気分になってきた。

 翌日、バスでシャガール美術館を訪ねた。1973年シャガールがサンポールに移住してから7年後、彼の生存中に開館した美術館で、フランスの国立美術館第1号だ。

 美術館前のバス停看板はディオールの広告付きのしゃれたもの。さすがフランス!。

 中庭にモザイク画が掲げてあった。「預言者エリヤ」。火の車に乗って天に昇るエリヤの周りを1つの星座が囲んでいる。これも旧約聖書に題材をとった、愛を伝える作品だ。

 開館式の際、シャガールは「人生に必ず終焉があるなら、我々も人生が続く限り愛と希望の色でそれを彩らなければならない」と語ったという。

 この美術館には「聖書のメッセージ」の連作が展示されている。ただ、館内は撮影禁止になっていてカメラに収めることが出来なかった。

 中庭は広々としていて、日差しを浴びながらゆったりとくつろげる空間になっていた。

 

今回が2021年最後の投稿です。

この1年間、温かいコメントも含めいろいろお世話になりました。

また来年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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南仏・コートダジュールへ⑫ シャガール中 晩年を過ごしたサンポール・ド・ヴァンスで墓参り

2021-12-28 | 南仏・コートダジュール

 ヴァンスの次に隣町のサンポール・ド・ヴァンスに向かった。来る時と同じ路線のバスで15分ほど引き返すだけで到着する。

 この町も14世紀に造られた城壁に囲まれた山岳都市だ。朝一で出かけてきたので、少し腹もすいてきた。

 外壁からはどこからでも見晴らしの良い風景が広がる。それで、周辺の景色を眺められる高台に腰掛けて少し早い昼食。

 といってもブリオッシュ、バナナ、ジュースといった軽食だけど・・・。気分が良くなってここから日本の自宅へ遠距離電話をしてしまった。

 この町にはモディリアニ、ボナールなどの芸術家も訪れたし、シャガールも1966年にこの地にアトリエ兼住宅を構えている。

 サンポール・ド・ヴァンスの町は山岳の頂点に教会があり、傾斜と共に住宅群が連なる。その周囲を緑が囲み、柔らかい陽光が街全体に降り注いでいる。

 シャガールはこの光を「最も美しい光」と称賛している。

 当時、2番目の妻ヴァレンティナ(通称ヴァヴァ)との生活を始めており、1985年3月に97歳で息を引き取るまでこの地で創作活動を続け、亡くなった後もこの地で眠り続けている。

 共同墓地は城壁の外にあった。南側の外れで、墓地には門があったがカギが開いておりすんなり入ることが出来た。

 墓石には一番上にシャガールの名前、その下にヴァヴァ、一番下には彼女の弟の名前が記されていた。

 ヴァヴァとは、最初の妻ベラが亡命先のアメリカ滞在中に急死、失意の中でフランスに戻った際に知り合った。晩年のシャガールを献身的に支えた女性だ。

 墓石のうえには小石が載せてあった。これはユダヤ人の習慣なのだという。

 ここも高台にあり、墓からコートダジュールのはるかな風景を見渡すことが出来るロケーションになっていた。

 

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南仏・コートダジュールへ⑪ 南仏のシャガール上 ヴァンスの町で大聖堂のモザイク画を発見

2021-12-25 | 南仏・コートダジュール

 温暖な気候と美しい風景に恵まれたこの地には多数の芸術家が訪れ、またこの地に住まいを定めて作品を生み出した。マティス、シャガール、デュフィ、ロレンス・・・。

 そんな地域を、芸術家の足跡を軸にして歩いてみた。まずはマルク・シャガール。

 シャガールは故郷のロシアからパリに出て才能を発揮、制作活動を続けていたが、第二次世界大戦の際ユダヤ人であることから迫害を受けてアメリカに亡命した。

 終戦後フランスに戻った後はコートダジュールに移って第2の人生を歩んだ。1949年にヴァンスに住居を構え、1966年にはサンポール・ド・ヴァンスに移転した。その間聖書のメッセージを作品化し、ステンドグラスの製作を開始するなど新境地の秀作を世に送り出し、1985年、この地で人生を終えることになる。

 そんな後半生を過ごしたコートダジュールで、シャガールの足跡をたどった。

 まずはヴァンスへ。山岳に連なる家々の町へはバスで。ニースのバスターミナルから400番の路線に乗り込んだ。

 車内からは雪をかぶった山々が間近に見える。

 旧市街入り口で下車した。グランシャルダン広場が街の玄関口だ。城門をくぐると13世紀から続く古い町並みが見えて来る。

 石畳の通りに入る。ちょっと趣のある風景だ。

 人通りは少ないが、所々で立ち話をする町の人達にも出会った。

 町の中心、大聖堂の入口に着いた。入口のタンパンには金色の女神像が立っている。

 中に、シャガールのモザイク画「モーゼの発見」が掲げてあった。貴重な作品だが、特に見学者もなくひっそりと置かれてあった。まずはシャガールの作品発見第1号だ。

 同時にキリスト磔刑像も。シャガールはこの地で11年間を過ごした。この後マチスの礼拝堂に向かい1つのアクシデントに見舞われたのだが、この件はマチスの項でアップすることにする。

 町の端からは微かにもやの掛かる山並みが見渡せる。高い丘に孤立した集落が点在するこの周辺が「鷲の巣村」と呼ばれる地区だ。

 

 

 

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南仏・コートダジュールへ⑩ モナコ下 モンテカルロ地区でカジノ周辺のクリスマスデコレーション見学

2021-12-21 | 南仏・コートダジュール

 旧市街から、カジノのあるモンテカルロ地区に移動した。「カジノ・ド・モンテカルロ」は派手派手しい装飾に包まれたビルだ。中にあるオペラ座はパリのオペラ座を手掛けたシャルル・ガルニエの設計だという。

 このカジノは1865年に開業して大当たり。ヨーロッパでも最も有名なカジノの1つになっている。

 手持ちの資金もなく、ジーンズ姿では近付くのも恐れ多いくらいの場所なので、玄関前や周辺をちょろちょろと見て回っただけだが、早くも高級車で乗り付けるタキシードの男性の姿も見かけた。

 玄関には派手な装飾がたっぷりとデコレーションされていた。

 隣にはオテル・ド・パリなどの五つ星ホテルが並んでいる。

 広場にもクリスマスムードを盛り上げる演出があちこちに。

 巨大な銀の玉がハート型にしつらえられて客の来訪を待っている。

 街の通りにもいろいろな飾り物が並んでいた。

 ここはツーリストオフィス。こちらもキラキラ状態だった。

 雨が激しくなってきた。ぼちぼちニースに帰ることにしよう。

 

 

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南仏・コートダジュールへ⑨ モナコ中 グレースケリー大公妃は今、結婚式を挙げた大聖堂で永遠の眠りについていた

2021-12-18 | 南仏・コートダジュール

 海抜60mのモナコ旧市街の高台に上った。ここからはモナコ港の全景が一望だ。

 まず目指すのは大公宮殿。1215年にジェノヴァが築いた要塞跡に建てられたルネサンス様式のすっきりした建物だ。

 ここは、あのハリウッド女優グレースケリーが大公妃となって移住し、約40年間住んでいた館でもある。

 街歩きを始めてすぐに気が付いた。あちこちにグレースの写真がパネルになって掲示されている。

 若かりし頃のレーニエ大公との2ショット。

 こちらは彼女が末娘のステファニー王女と一緒に散歩している風景が収められた写真だ。まさに写真と同じ通りに掲示されていた。

 モナコ大聖堂も大公宮殿と同じモナコ・ヴィル地区にあった。ローマヴィザンチン様式の華やかなファザードが美しい。

 正面入口前でも写真パネルを見つけた。1956年4月19日に行われた結婚式の模様だ。全ヨーロッパに生中継されたほどの大イベントだった。華やかな結婚式の写真は、大聖堂を埋め尽くす大観衆に祝福される幸せそうな2人の姿が映されている。

 レーニエ3世とはカンヌの映画祭で知り合った。グレースはハリウッドのトップ女優という看板をすべて打ち捨ててモナコの妃となり、結婚後は1度も映画に出演することはなかった。

 結婚式から26年後の53歳時、自動車事故で不慮の死を遂げたグレースは、ここ大聖堂で葬儀が行われ、この場所で永遠の眠りについている。

 墓碑には本名の 「gratia patricia」と記されている。絶えることのない花がそこに添えられていた。

 司教座や祭壇にはカッラ-ラ(イタリア)産の白大理石が使われている。

 主祭壇の上方には大きな祭壇画が黄金に輝く。

 清らかな聖母像もあった。

大聖堂を振り返りながら、次へと移動した。

 

 

 

 

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