新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川⑱ 蔵前橋は芥川自殺の直前に完成、「三途の渡し」解消のために出来た厩橋

2018-02-27 | 東京探訪・隅田川の橋

 両国橋の1つ上流にあるオレンジの橋が蔵前橋だ。

 近くに幕府の米蔵があったことにちなんで、橋の色も稲穂を連想させる黄色が使われている。

 大相撲の舞台となる国技館が、第二次世界大戦後の昭和25年から59年まで蔵前にあったため、橋には力士の絵柄のパネルや国技館をイメージした橋灯などがデザインされている。

 また江戸時代、周辺には船宿や料亭が並ぶ繁華街だったことから、屋形船のパネルが欄干に施されていたりする。

 屋形船に乗る芸者とみられる女性の姿。そのパネルを通して川の夕景を見ると、まるで女性が隅田川での思い出を振り返るように、物思いにふけっているかのようだ。

 芥川竜之介は両国で育ったが、後に本所、両国を散策するという企画で隅田川界隈を歩いていて、工事中の橋の前を通りがかったことがあった。


 僕はこの橋の名前はもちろん、この橋の出来る話も聞いたことがなかった。震災はぼくらの後ろにある『富士見の渡し』を滅してしまった。が、その代わりに僕らの前に新しい橋を造ろうとしている。
 
 「これは何という橋ですか?」麦わら帽をかぶった労働者の一人は矢張り槌を動かしたままでちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。
 「これですか?これは蔵前橋です」。


 そう、1927年(昭和2年)に完成した蔵前橋だった。

 このエッセイは同年5月に東京日日新聞に掲載されたが、実は芥川が自殺したのはそのわずか2か月後の7月24日だった。
 つまり、偶然ではあるが、蔵前橋の完成と相前後して芥川の寿命は絶たれたことになる。


 アサヒビール本社最上階から見下ろした隅田川の風景。右側に少しだけ見えるのが駒形橋.そこから下流に向かって厩橋、蔵前橋と橋が連なっている。



 厩橋のスタートは、明治になって間もなくの1874年、地元住民が費用を出し合って架橋した民間橋だった。

 この場所には江戸時代「御厩の渡し」があったが、度々その渡しが転覆事故を起こして、別名「三途の渡し」という不名誉な名前を付けられていた。その汚名返上のために民間の手で架橋が実現したという。
 ただ、次第に運営が困難になり、1887年に東京府の管轄となった。

 近くにあった幕府の米蔵「浅草御蔵」に米を運ぶ馬用の厩にちなんでつけられた名前だ。 そのため、橋のあちこちに馬のデザインが見られる。特に目立つのは親柱のステンドグラスだが、改修工事の最中でカバーが掛けられていて何も見えなかった。

 そのかわり、西詰の公衆トイレでは人の顔がデザインされた、とてもスタイリッシュな施設に出会った。
 
 厩橋あたりでちょうど夕刻に差し掛かり、陽が沈み込んでゆく。その光景を見つめるうちに、藤沢周平が隅田川周辺を舞台に書いた「橋ものがたり」(吹く風は秋)の一節を思い出した。


 「江戸の町内に広がっている夕焼けは・・・いよいよ色が鮮やかになった。

 西空のそこに日が沈んだあたりは、ほとんど金色に輝いていた。

 その夕焼けを背に凸凹を刻む町の屋根が黒く浮かび上がっている小名木川の水が空の光を映し、

 その川筋の方がはるかに明るく見える」


 そして現代は、夕焼けのオレンジと入れ替わるかのように都会の灯が次第に瞬きを強めて行く。

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隅田川⑰ 花柳界の名残を残す柳橋 赤と青のかんざしがきらめく

2018-02-24 | 東京探訪・隅田川の橋

 柳橋は、神田川が隅田川に注ぎ込む河口に架かる橋だ。江戸時代は、この界隈は花柳界として栄え、

 幾つもの料亭が軒を連ねていた。

 今では、その1つ「亀清楼」がビルとなって残っているが、他はほぼ姿を消してしまった。

 とはいえ、船宿と佃煮屋を兼ねた「小松屋」が今もあり、江戸の風情を伝える。

 橋下には屋形船が停泊していた。当時は吉原へ向かうのに、ここから船で出発するため猪牙船(ちょきぶね)と呼ばれる船が常駐しており、また隅田川の夕涼み、向島への花見船なども発着する場所だった。

 歴史学者田中優子氏は 著書に次のように記している。

 「桜の季節には、神田川に桜の花びらが流れ、船は川面に満ちあふれる花びらをかき分けながら進む。
 
  柳橋はこの辺りのどこよりも江戸時代である。隅田川の良さを知っているのが、柳橋であろう」。


 欄干の手すりに、かんざしのデザインがあった。

 しかも赤と青との2種類が配置されていた。橋の意匠とは思えぬ斬新なアイデアだ。

 今の橋は1929年完成だが、最初の架橋は1698年と古い。

 安藤広重の「浅草川大川端宮戸川」という絵がある。宮戸川とは、千住大橋から浅草あたりまでの隅田川の別称で、そこから下流は大川端と呼ばれた。
 この絵の左下に神田川の河口が描かれていて、この付近が柳橋だった。料亭の建物も見える。遠景の尖った山は筑波山。当時は茨城の山まで見通せたのだった。

 その住居表示「大川端」が、今も電柱に掲示されている。

 夕刻、次第に暮れなずむにしたがって水面が微かな陽を受け止めてきらめきを発し、闇に沈み込む屋形船の影が江戸の情緒を偲ばせていた。

 明治期に正岡子規が詠んだ句が残っている。

       春の夜や  おんな見返る  柳橋




  
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隅田川⑯ 両国新名所 江戸NOREN、北斎美術館。北斎と忠臣蔵との意外な関係とは?

2018-02-20 | 東京探訪・隅田川の橋

 両国駅横に新しい観光スポットが誕生した。「両国江戸NOREN」。中には飲食店がずらりと並ぶ広い空間があり、

 真ん中にドンと鎮座するのは土俵。実際の大きさにできており、ここで各種イベントも開催されるという。観光案内所も併設されていた。


 そこから北斎通りと名付けられた道を東に進むと、超近代的な銀色の建物が飛び込んでくる。2016年10月に完成した「すみだ北斎美術館」。

 北斎の初期から晩年までの作品が時系列に陳列されている。

 特に代表作の「神奈川沖浪裏」は、さすがにダイナミックで、人だかりが絶えなかった。

 ちょっとびっくりだったのが、狂気とさえ見えるほどの北斎の制作中の姿を再現した人形。かがみこんで描く北斎の形相と、それを見守る娘のお栄の冷徹なまなざしが印象的だ。

 美術館の前が公園スペースとなっており、子供たちが元気な声を上げていた。その一角に立てられていたのが「北斎生誕地」の説明板。
 
 美術館完成前に訪れた時には、生誕地の説明板は向かいのあられ店脇にあった。かなり古びてしまっていたが、今はこちらに移されたようだ。よく見ると、新しい説明板では「亀沢付近」と少しあいまいな表現になっている。

 ところで、北斎と忠臣蔵との意外な関係を示すものがある。

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りして主君の仇を討ったことは評判となったが、その討ち入りの際赤穂浪士たちに立ち向かった吉良藩士の1人に小林平八郎という武士がいた。
 その彼の娘が鏡師中島伊勢に嫁ぎ、この夫婦の娘が産んだ子供が北斎だという。

 本所松坂町公園の向かいに「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板があり、そこには「伊勢は1763年に時太郎(北斎の幼名)を養子にした」と記されている。

 このエピソードは北斎美術館にも説明がなされていて、北斎自身がそう語っていたとしている。

 
 美術館のさらに東側には野見宿禰神社がある。相撲の神様とされる野見宿禰が祭られた神社。

 従って境内には初代明石志賀之介からの歴代横綱の名前を刻んだ石碑が立っている。

 ただ、47代の柏戸以降はスペースの関係で新しい石碑に移されていて、最新の「稀勢の里」の文字はまだ新しい。

 
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隅田川⑮ 両国橋の岸辺で、葛飾北斎と勝海舟は何を語らったのか!?

2018-02-17 | 東京探訪・隅田川の橋

 両国橋を渡って回向院のある京葉道路(国道14号線)を東に進むと、芥川龍之介生育の碑が立っている。
 築地編で見た通り龍之介は生後間もなく実母が亡くなり、築地から両国にある芥川家に養子となり、大人になるまで現両国3丁目のこの地で育った。

 通った両国小学校には作品「杜子春」の一節を記した文学碑があった。

 龍之介はこの生育の地とそこを流れる隅田川(当時は大川と呼んだ)に限りない愛情を抱いていた。


「東京のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのに何の躊躇もないであろう。

 独、においのみではない。大川の水の色、大川の水の響きは、わが愛する東京の色であり、声でなければならない。
 
 自分は大川あるが故に東京を愛し、東京あるが故に生活を愛するのである」(大川の水)


 名所はそれだけではない。両国小の東隣りにある両国公園には「勝海舟誕生の碑」が立っている。
 海舟は1823年父小吉の実家である本所亀沢町(地図㉚)で生まれた。

 成長した後、1860年咸臨丸の艦長として太平洋を横断、アメリカに渡り、また1864年には軍艦奉行となった。

 さらに、1868年には西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城を実現して、江戸東京の後輩を未然に防いだ明治維新の立役者だ。

 ところで、海舟は誕生後7歳で本所入江町(現墨田区緑町4丁目、地図の㉟)に転居、23歳までここで暮らした。 
 地図を見ると、海舟の2つの住所のちょうど中間に、葛飾北斎の誕生地(本所亀沢町、地図15のすみだ北斎美術館)がある。
 北斎は1760年生まれだが長生きし、1849年、90歳で死去した。その間93回も引っ越しをしたが、ほぼすべてがこの本所界隈だけの転居だった。
 とすると。生まれてから23歳までの海舟と、63歳から86歳までの北斎が、ほぼ同じ町内に住んでいたことになる。


 北斎の代表作「富嶽三十六景」の発表は、北斎71歳時でちょうどこの時期に当たり、もう江戸のみならずわが国最大の人気浮世絵作家になっていた。
 老いてますます制作意欲をたぎらせていた北斎に対して、20歳でオランダ語を習い始め、21歳で直心影流免許皆伝を受けるなど人一倍進取の機運に富んでいた若き海舟が、身近に存在していた大画家に無関心だったはずはないだろう。
 必ずや本所の町の一角、隅田川のたもとあたりで二人は出会い、何かを語り合っていたのではないだろうか。
 

 想像するだけで、胸がわくわくしてくる。そんなことを思わせる両国界隈だ。


 両国公園には、海舟がアメリカに渡った咸臨丸をデザインした意匠が門に掲げられていた。

 もう少し散策を続けよう。

 公園から西に戻ると、なまこ壁に囲まれた吉良邸跡が、本所松坂町公園として修復保存されている。ここは、あの赤穂浪士が討ち入りして、吉良上野介の首をとった忠臣蔵の現場だ。

 吉良家の屋敷は元々江戸城近くの鍜治橋にあったが、松の廊下での刃傷事件後、赤穂浪士が討ち入りに入るという噂が流れて、周囲の大名屋敷から苦情が出た。そのため、ここ本所に移住していた。

 これによって江戸城から遠く離れることになり、討ち入りは格段に容易になったともいわれる。実際移住は元禄14年、そのわずか1年後の元禄15年に討ち入りは実行された。
 
 公園には吉良上野介像や松の廊下の図、吉良公首洗いの井戸などがある。

 また、討ち入りの日には赤穂47士と吉良20士の両家の供養が行われるという。




 

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隅田川⑭ 両国を歩く。明暦大火の死者供養のために建てられた回向院、国技館の今昔

2018-02-13 | 東京探訪・隅田川の橋
 両国橋を渡って少し歩いてみよう。


 橋のたもと近くに大きなイノシシの看板を掲げるのは、「ももんじや」。櫻鍋の名店だ。

 その先に回向院がある。ここは1657年の明暦の大火によって犠牲となった10万人もの人々を供養するために特別に建てられた寺だ。
 金文字の額が光る。

 境内には供養塔が立てられている。「明暦大火横死者供養塔」。

 さらに、様々な災害に対する供養もこの寺が受け持つようになり、安政大地震や関東大震災碑も立っていた。つまり、明暦の大火以来江戸の町が生み出すほぼすべての無縁の死者たちが、ここの葬られるようになっていった。

 また、ここで相撲の場所が開かれていたことから、「力塚」の碑や

 呼び出しの墓といった墓もあった。

 安藤広重の描いた「回向院元柳橋」には、回向院本体の館の代わりに相撲太鼓の櫓が描かれている。

 さらに、変わり種は鼠小僧の墓。勝負事に運が付くという俗説にあやかろうということで、彼の墓を削って持ち帰る人が後を絶たなかったことから、

 特別に削り石を置いてその石を削ってもらうようにしているとのこと。

 また、猫塚を始めとする動物供養の墓もあった。

 回向院の東となりに建つ両国シティコアは、旧国技館のあった所だ。戦後両国にあった国技館がGHQに接収されたため、1950年に蔵前国技館が造られて移転、1984年に両国駅北側に今の新国技館が完成してゆかりの地に戻った。
 旧国技館のなごりとしては、シティコア1階の広場に、昔の土俵のあったことを示す円が縁どられているが、

 私が行った時は自転車に占領されていて、円の一部しか見えなかった。

 現在の国技館は両国駅のすぐ北側にある。再建されて以来、年6場所の大相撲本場所のうち1,5,9月場所の3回がここで開かれる。

 周囲には幟が立ち両国独得の風情を作り出している。

 歌川国郷の「両国相撲繁栄の図」という浮世絵が両国駅の構内に張り出してあった。

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