両国橋の1つ上流にあるオレンジの橋が蔵前橋だ。
近くに幕府の米蔵があったことにちなんで、橋の色も稲穂を連想させる黄色が使われている。
大相撲の舞台となる国技館が、第二次世界大戦後の昭和25年から59年まで蔵前にあったため、橋には力士の絵柄のパネルや国技館をイメージした橋灯などがデザインされている。
また江戸時代、周辺には船宿や料亭が並ぶ繁華街だったことから、屋形船のパネルが欄干に施されていたりする。
屋形船に乗る芸者とみられる女性の姿。そのパネルを通して川の夕景を見ると、まるで女性が隅田川での思い出を振り返るように、物思いにふけっているかのようだ。
芥川竜之介は両国で育ったが、後に本所、両国を散策するという企画で隅田川界隈を歩いていて、工事中の橋の前を通りがかったことがあった。
僕はこの橋の名前はもちろん、この橋の出来る話も聞いたことがなかった。震災はぼくらの後ろにある『富士見の渡し』を滅してしまった。が、その代わりに僕らの前に新しい橋を造ろうとしている。
「これは何という橋ですか?」麦わら帽をかぶった労働者の一人は矢張り槌を動かしたままでちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。
「これですか?これは蔵前橋です」。
そう、1927年(昭和2年)に完成した蔵前橋だった。
このエッセイは同年5月に東京日日新聞に掲載されたが、実は芥川が自殺したのはそのわずか2か月後の7月24日だった。
つまり、偶然ではあるが、蔵前橋の完成と相前後して芥川の寿命は絶たれたことになる。
アサヒビール本社最上階から見下ろした隅田川の風景。右側に少しだけ見えるのが駒形橋.そこから下流に向かって厩橋、蔵前橋と橋が連なっている。
厩橋のスタートは、明治になって間もなくの1874年、地元住民が費用を出し合って架橋した民間橋だった。
この場所には江戸時代「御厩の渡し」があったが、度々その渡しが転覆事故を起こして、別名「三途の渡し」という不名誉な名前を付けられていた。その汚名返上のために民間の手で架橋が実現したという。
ただ、次第に運営が困難になり、1887年に東京府の管轄となった。
近くにあった幕府の米蔵「浅草御蔵」に米を運ぶ馬用の厩にちなんでつけられた名前だ。 そのため、橋のあちこちに馬のデザインが見られる。特に目立つのは親柱のステンドグラスだが、改修工事の最中でカバーが掛けられていて何も見えなかった。
そのかわり、西詰の公衆トイレでは人の顔がデザインされた、とてもスタイリッシュな施設に出会った。
厩橋あたりでちょうど夕刻に差し掛かり、陽が沈み込んでゆく。その光景を見つめるうちに、藤沢周平が隅田川周辺を舞台に書いた「橋ものがたり」(吹く風は秋)の一節を思い出した。
「江戸の町内に広がっている夕焼けは・・・いよいよ色が鮮やかになった。
西空のそこに日が沈んだあたりは、ほとんど金色に輝いていた。
その夕焼けを背に凸凹を刻む町の屋根が黒く浮かび上がっている小名木川の水が空の光を映し、
その川筋の方がはるかに明るく見える」
そして現代は、夕焼けのオレンジと入れ替わるかのように都会の灯が次第に瞬きを強めて行く。