新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川㉗ 隅田川唯一の歩道橋・桜橋には二羽のツルが飛んでいる 

2018-03-31 | 東京探訪・隅田川の橋

 川岸に戻って、上流に進む。前方に見えてくるのが桜橋だ。 隅田川に架かる橋の中で唯一の歩行者専用橋となっている。
 ここも1985年完成と、比較的新しい橋。

 橋の両端が2つに分かれ、中央部で交わるX型をしていることでも特徴的だ。

 端から見ると、2つの橋が中央でドッキングしているかのように見える。

 第二次世界大戦末期、1945年3月10日の東京大空襲の際、この辺りで逃げ遅れた多くの人達が溺れ死んだという悲しい過去があり、そんな思いも含んで架けられた橋ともいわれる。

 その中央部分には、三角錐のモニュメントが置かれていた。
 回り込んでみると2羽のツルが飛ぶ姿が彫り込まれている。

 我が国の代表的な日本画家・平山郁夫の作品だという。

 橋の東詰に浮世絵のレリーフがはめ込まれていた。堤防沿いに咲く桜の風景。今年も盛大に桜祭りがこの地域で行われている。

こちらは花火の絵。今や東京の風物詩となった隅田川花火大会は駒形橋とここ桜橋下流との2か所で打ち上げられる。

 安藤広重の名所江戸百景の中にも花火の風景が収められている。


 
 
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隅田川㉖ 花々が咲きほころぶ滝廉太郎の「花」碑、池波正太郎の生誕地

2018-03-27 | 東京探訪・隅田川の橋

 言問橋の西岸を川岸に沿って歩く。

 ちょっとした公園になっていていろいろな花々が咲いていた。

 本当にほっこりとした気持ちにさせる優しい散歩道だ。

 ほどなく、一つの碑が見つかった。「花」の碑。タイトルだけだとピンとこなかったが、歌詞を見るとすぐにメロディが浮かんできた。

 
「春のうららの隅田川 上り下りの舟人が・・・」

 そう滝廉太郎作曲のあの歌。早逝の歌人だったが、1900年彼が21歳の時の作品だ。

 歌碑の字は作詞者武島羽衣の自筆だという。まさにこの季節の隅田川を歌ったもの。

 うららかな陽の差す午後のひと時、心まで温かい気分になった。

 そこから1つ道を横切ると、待乳山聖天という神社がある。

 この神社では巾着と大根があちこちで見つかった。

 巾着は商売繁盛、大根は夫婦和合のシンボルとされる。

 また、なかなかハンサムなお稲荷様もいらっしゃった。

 神社の西端に「池波正太郎生誕の地」の碑が立っていた。

 ご存知鬼平犯科帳や剣客商売などの作家として著名な方だ。

 生家は、旧東京市浅草区聖天町61番地(現浅草7丁目3番地付近)で、この神社の南隣あたり。
 エッセイでは「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心の故郷のようなものだ」と書いている。

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隅田川㉕ 言問団子に続いて長命寺桜餅をほおばる

2018-03-23 | 東京探訪・隅田川の橋

 言問団子の店から墨堤通りの道を横断すると、

 これも有名な長命寺桜餅の店がある。長命寺に仕えた山本新六が墨堤の桜の葉を塩漬けにし、餅をくるんで売り出したところ評判を呼び、名物になったという。

 餅は3枚の葉に包まれており、葉の香りがプーンと香って評判通りの味に満足。わざわざ3枚で包むのは香りづけと乾燥防止との二重の意味があるのだという。

 田山花袋は「東京近郊一日の行楽」で「長命寺の桜餅は今でも盛んで、寺門の中にたすきをかけた女の、客に接しているさまなども捨て難い」と、その賑わいぶりを描写している。

 なお、この建物の2階には一時正岡子規が住んでいたとの説明版があった。

 そうそう、ここ長命寺は桜餅が本命ではなく、お寺が本来の目的。

 境内に入るとすぐに成島柳北の碑がある。

 成島は幕府の重臣から朝野新聞社長になり墨堤の桜保持に努めた人。

 成島の碑を見ると、下の部分に彼の顔が彫り込んである。だが、鼻の部分が欠け落ちてしまっている。田山花袋がここを訪れたころにもすでにこうなっていたらしく、
 「成島柳北の碑の中の像の鼻の欠けたのは、なんだか一種皮肉のような心持がしていておかしい」と記している。

 その先には芭蕉の句「いざさらば 雪見にころぶ ところまで」の句碑がある。
 ここは雪景色の名所だったという。

 なお、長命寺の命名の由来はこうだ。
 三代将軍家光が鷹狩り中に腹痛を起こした。だが、この寺の水を飲んだところ痛みが治まり、喜んだ家光は井戸水を長命水、寺号を長命寺と命名したという。


 墨堤通り沿いに三囲神社がある。中世の創建と伝えられる歴史を刻んだ神社だが、この日は境内への入口が閉まっていて入れなかった。

 吾妻橋と言問橋との間に、隅田川に注ぎ込む掘割がある。これが北十間川。江戸幕府の1659年の開発で掘削され、物資輸送、農業用水として使われた。

 その川が今は東京スカイツリーの撮影スポットとなっている。ちょうどスカイツリーが川の水面に映る角度になるためだ。
 この写真はまだ建設途中の時に撮影したスカイツリーの姿。

 今は青空を背景にすっきり、高々とそびえている。

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隅田川㉔ 「いざ言問わん・・・」在原業平が詠んだのは、この言問橋付近ではなかった!

2018-03-20 | 東京探訪・隅田川の橋

 「隅田川の新しい六大橋のうちで、清州橋が曲線の美しさだとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。

  清州は女だ、言問は男だ」。

 川端康成は「浅草紅団」の中で言問橋をこう定義している。

 明るいグリーンが青空に映える、すっきりとした橋姿。川端の時代から変わらぬ雄姿を誇っている。

 この橋の名前からすぐに連想されるのが、在原業平の和歌だ。


 「なにしおはば いざ言問わむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」


 業平は京から旅立って江戸まで来た。隅田川の渡しで見かけたのが都鳥。
 はるか京都から飛来した鳥ならば、京に残してきた人あのはどうしているのだろうか。彼女の消息を教えてほしい。 そんな心を詠んだ歌だ。

 業平が本当に東国に来たのかどうかは疑問視されているが、歌の持つ深い心情と味わいは今も変わることはない。


 ところで、業平が都鳥を見かけた「隅田川の渡し」は、実はもっと上流にある白髭橋付近にあった「橋場の渡し」だったとされる。
 まあ、詮索はいったん棚上げにして、言問団子でも食べて一休みしよう。

 ここで、言問橋から千住大橋までの隅田川上流の橋の地図を掲載しておこう。

 言問団子の店は、隅田川上流の桜橋を渡ったすぐ東側にある。

 ちょうど午後1時を過ぎて店が暇になった時間帯だったせいか、和風の座席にゆったりと腰掛けて三色の団子を味わうことが出来た。小豆あん、白あん、味噌あんの3つの団子が特製の皿に盛られて、緑茶と共に供される。
 甘すぎずふくよかな香りが、心地よいひと時を提供してくれた。

 そもそも江戸末期に外山佐吉が団子屋を開業、隅田川にゆかりのある在原業平の歌にちなんで命名したのが始まりという。

 歌に登場する「都鳥」はゆりかもめのこと。団子を載せた絵皿には、その都鳥が描かれていた。

 団子の店のとなりに隅田公園野球場というグラウンドがあった。

 入口の門に王選手の打撃フォームそのもののレリーフがあったのでよく見ると、

 「王貞治さんも少年時代この野球場で練習した」との説明が書かれていた。




 
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隅田川㉓ 萩本欽一、美空ひばり、植木等。浅草公会堂前には歴代芸能スターたちの手形がズラリ

2018-03-17 | 東京探訪・隅田川の橋
 オレンジ通りの浅草公会堂前には、沢山のスターの手形が掲示されていた。

 浅草は大衆芸能の人気者を輩出した場所。ということでその振興に貢献した人たちを讃えて毎年数人ずつの手形を新たに加えているという。

 第1号は美空ひばり

 続いて大スターたちがずらりと並ぶ。鶴田浩二。

 萩本欽一

 森光子

 浅丘ルリ子

 渥美清

 植木等

 黒柳徹子

 八千草薫

 とにかく歴代スターたちが総登場という具合で、見飽きないまま時間が過ぎてしまった。


 近くの屋根に、鼠小僧治郎吉がいるのを発見した。


 そんな浅草散歩もそろそろ終了。ソバ屋に立ち寄って一杯。飲みながら、また林芙美子の「放浪記」の一節を思い出した。



 「浅草はいつ来てもよいところだ。

 テンポの早い灯の中をグルリグルリ、私は放浪のカチュウシャです。

 長いことクリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くなって
 
 安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。

 ああ一人の酔いどれ女でございます」


 店を出てほろ酔い気分で観光物産館の7階に上った。

 ここからだと、浅草寺と五重塔を一度に見渡すことが出来る。

 東方向を向くと、こちらはスカイツリー。この日のスカイツリーは珍しくはっきりとした黄赤色に光っていた。
 そんなことで浅草散歩はひとまず終了。次は上流の橋を目指そう。


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