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世界の名画を一堂に集めた、フランスが誇るルーブル美術館は、パリ1区セーヌ川のほとりに建っている。
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川を挟んで対岸には、多数の芸術家を輩出し続ける国立美術学校(エコール・デ・ボザール)。
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それと向かい合うように、しっかりした門構えの奥に一軒のビルがたたずむ。プティ・オーギュスタン街5番地。
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ここで、後に近代絵画の歴史を一変させる偉大な画家が生を受けた。名はエドワール・マネ。1832年1月23日のことだった。
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父・オーギュスト・マネは司法省の高級官僚であり、母方のフールニエ家は外交官の家柄だった。
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現在はボナパルト街となった通りは、ずらりと背の高いビルが並ぶ高級住宅街。
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マネの家も門の中に庭を持つ豊かな暮らしを連想させる建物だ。
ここからすぐのルーブル美術館は1793年に開館し、3年後にはいったん閉鎖したが、ナポレオン1世が各国から収奪した美術品を加えて、1801年に再オープンしている。
向かいの国立美術学校も含めて、モネは周囲に芸術的環境に恵まれた中で子供時代を送っていた。
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両親は息子が法律家になることを望んでいたが、マネは芸術に傾倒し、学問を嫌った。海軍兵学校の受験に2回失敗すると、父親はようやく息子の希望を受け入れるようになった。
絵の勉強を始め、詩人のボードレールやファンタン・ラトゥールなど、パリの若い知識人との交流の中で、彼は戸外での作品制作を始めるようになる。
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今はなくなってしまったクリシー大通りの店「カフェ・ゲルボワ」の常連たちをモデルに何枚もの作品を描いた。
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その一枚がこれ。「カフェ・ゲルボワにて」だ。ここは印象派の集合場所の1つだった。まずマネが通い始め、次にドガ、モネ、ルノワール、バジールなどが集まり、芸術論議に花を咲かせた。
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そして1861年、「スペインの歌手」がサロンに初入選(佳作)。マネは画家としての順調な第一歩を歩みだした。
コメントありがとうございます。
私は印象派とその先駆者であるマネが大好きで、この時のパリ旅行もマネの足跡をたどることを目的に出かけました。
勿論旅行前後に資料をかき集めてブログにしたので、付け刃の感もありますが、現地で見たマネの足跡はやはり行っただけの強い思い出にもなりました。