エゴン・シーレの短い生涯の中で重要な役割を果たした女性がいる。その筆頭はワリー・ノイツィル。シーレは彼女の肖像画も描いている。「ワリー・ノイツィルの肖像」。
実は今回の美術展でメインポスターに採用されている自画像「ほおづきの実のある自画像」とは、対となる作品だ。
私がレオポルド美術館でシーレ展を見た時には、この2枚の絵がウイーンの街中にセットとなって張り出されていた。
シーレがまだ世に知られていなかった1911年、シーレは母の故郷クルマウに住み始めたが、この時から当時17歳だったワリーと同棲を始めていた。
二人はクルマウからウイーン郊外のノイレングバッハに移住。ここで〝事件”に遭遇する。彼が少女を誘拐し、わいせつ行為をしたーなどの疑いで拘留されてしまたのだ。
結果的には3日間の禁固刑で終わったが、周囲の人々の怒りと疑惑は募るばかり。シーレは心に深い傷を負った。そんな彼を支え、励まし続けたのが、ワリーだった。
だが、1914年ウイーンに移って、アトリエの向かいに住むエーディト・ハームスと知り合う。
シーレは貧しい家の娘だったワリーではなく、良家の子女であるエーディトに心を奪われてしまう。
そして1915年、エーディトと結婚。ワリーは彼の下を離れた。
だが、シーレはワリーへの未練も持ち続けた。
「死と少女」。抱き合う男と女、まるで糸のように細い腕でしがみつく女はワリー。対して腰をかがめうつろなまなざしで見つめつ男はシーレ自身だ。ぬくもりのない愛が、荒涼とした岩山のような背景に囲まれて浮かび上がる。
ワリーは別れの後、志願して従軍看護師となり戦地に赴いて、熱病で死去。わずか23年の生涯を終えた。
一方エーディトとの結婚後、1918年には妊娠が判明する。まもなく生まれようとする新しい命の前に、一枚の絵を描き上げた。「家族」。
近い未来に実現するであろう新生活。その夢をも含んだ3人の姿。だが、暗く沈んだその絵の中に喜びや希望といった光は見いだせない。
実人生の運命もまた、悲惨だった。
エーディトはスペイン風邪にかかり、出産も叶えられずに10月に死亡、シーレもまた妻の死の3日後10月31日、同じ病で、赤子の姿を見ることもなくわずか28年の人生を終えた。
スペイン風邪はある意味今日のコロナ禍よりももっと世界を震撼させた病気だった。同時進行していた第一次世界大戦犠牲者よりももっと多い、3千万人~4千万人ともいわれる死者を出している。
こうしてシーレの生涯は終わったが、同じ年の2月、クリムトも死亡。さらにハプスブルク帝国の最終形態であったオーストリア・ハンガリー帝国もまた1918年10月27日、連合国に降伏を宣言。帝国自体が消滅した年でもあった。
これによって、ウイーンに花開いた華麗な世紀末美術も完全に終焉を迎えたのだった。
私がウイーンを訪ねたのは3月の寒い季節だった。ハプスブルクの、華やかだがどこか物寂しい雰囲気が漂う街をさ迷いながら、夜の気配の中にある種の死の影を想い浮かべたのも、数日間クリムトやシーレの作品を見すぎてしまったせいだったのかもしれない。