新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

玉川高島屋が「ピンクのデパート」になった!・・・東京探訪

2016-07-30 | 東京探訪

 昨日二子玉川に出かけた時、駅周辺で変わったライトアップをやっていたので、ちょっと紹介しましょう。

 駅の改札口を出て左に曲がると突然ピンクの建物が飛び込んできました。よく見ると、それは高島屋デパート。いつもは白い外観なのに、今日はピンクに照らされています。

 改札口右側の二子玉川ライズ方面の通路は、全体が明るく、ちょうど背景となった空が真っ青な色彩に替わっています。

 その先には、人工の花火のような工作物。


 先端部分をアップしてみると、本物の花火のように見えます。

 さらに進むと、今度は光の階段。ここを上る人たちはみんなシャドー人間になってしまいます。


 ライズの壁面にはクジラが描かれています。今まで何度もここには来ていますが、このクジラには気づかなかった。ライティングのおかげかも。


 高島屋方面に戻ります。デパート手前の駅通路も全体がピンク状態。


 デパート側からライズの建物を正面に。明かりがモザイク様になって面白い。

 このイベントは「tokyo art flow」というタイトルで明後日31日まで行われるようです。


 駅に戻ろうとしてライズのビル内を歩いていたら、途中に「ムーミン通路」がありました。
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大陸と島をつなぐ鉄道橋からおっぱい橋まで・・・ヴェネツィアの橋③

2016-07-26 | ヴェネツィアの橋

 ◎リベルタ橋(鉄道橋)
 トンマーゾ・メドゥーナの設計で、1841年から45年にかけて建設された。開通は1846年1月。この橋の建設はヴェネツィアに大きな変化をもたらした。表玄関の主役交代だ。船が交易の中心だった時代は、あくまでも表玄関はサンマルコ小広場だった。アドリア海に向けて開かれた港は、常に1000年のヴェネツィア繁栄の歴史を背負い続けてきた。しかし、鉄道の開通によってヴェネツィアを訪れる人の大半が鉄道駅に降り立つようになってゆく。海とではなく、陸地と向き合わざるを得なくなる時代の到来となったわけだ。

 あの名作映画「旅情」(1955年)でキャサリン・ヘップバーンがヴェネツィアに入ってくるのもやはり鉄道だった。私も電車で橋を渡ってのヴェネツィア入りと、空港から船でサンマルコ広場に入るルート、空港からバスでローマ広場に行って、ヴァポレットで中心部へ、という3つのルートを試してみたが、やはりサンマルコ広場へ直接船で入るのが、最も気持ちを高ぶらせるルートだった。
 島の輪郭が見え、次第にドゥカーレ宮殿と鐘楼のある広場が大きく広がっていく様を体験するのは、まさに王道のルートだ。
 しかし、鉄道橋を渡ってくるのも悪くはない。橋を通過する10分ほどの時間が、陸地と別れてさあ別世界へ飛び込もうという心の備えをする、ほどよい準備時間を提供してくれるからだ。

 ◎高潮時の仮橋
 例年秋から翌春にかけて、サンマルコ広場や海に面した場所に渡される臨時の橋だ。アクア・アルタと呼ばれる高潮対策で、特に最近は高潮の頻度が増加してきている。
 アクア・アルタは南からの強風「シロッコ」が新月か満月の時期に吹き付けると、満潮を1~2mにも盛り上げる。これによって低地の部分に海水が押し寄せて水浸しになってしまう現象だ。
 対岸のマルゲーラ地区など工業地帯での地下水使用による地盤沈下などは対策が講じられたが、世界的な温暖化も一因とされる。

 数年前に訪れた時は大規模なアクア・アルタに遭遇し、サンマルコ広場全体が全面海と化した。

 時計塔前もすっかり水に覆われて、その姿が水面にくっきりと浮かび上がっていた。

 ◎おっぱい橋(テッテ橋)
 サンポーロ地区、ドゥエトッリ運河に架かるごく普通の橋だ。しかし名前は見かけと違って非常に刺激的。なぜそのような名前が付いたのだろうか。
 16世紀のヴェネツィアでは男性の同性愛が流行っていた。このままでは子供の数がどんどん減って、やがては国が衰えてしまうと危惧した政府が、娼婦たちにその豊満な胸を紳士諸君に見せつければ、男たちは女性の元に戻っていくだろうと、おっぱいを出して男性を挑発することを奨励したという。
 そうした娼婦たちの宿がこの橋のたもとにあったため、こうした名前が付けられた。

 橋を渡った正面の建物の壁に「ポンテ・デッレ・テッテ」と書かれているので、ようやく見つけることが出来た。ちなみに「テッテ」がイタリア語で「おっぱい」。
 16世紀初頭のヴェネツィアの人口は11万5千人。この中に1万1千人もの娼婦がいたという。中には高い教養を備えた高級娼婦「コルティジャーナ」もいた。
 ここに行った日の朝、友人のニコラに場所を調べてもらった。帰ったらニコラが尋ねてきた。「どうだい、橋は見つかったかい?」「ああ、どうにかね」「それで、おっぱいはあったかい?」「残念ながら・・・」。

 

 ◎グリエの橋
 鉄道駅からリアルト方面に向かって歩いてゆくと、この橋に差し掛かる。グリエとは、先端がとがった角柱のこと。下三分の一は普通の柱のような立方体なのだが、上三分の二は角錐で、上に行くほど細くなって行き、てっぺんには丸い球と槍のようなとんがりがついている。橋の両端に2本ずつ。何のために付いているのかは不明だが、小型オベリスクのようで目立つ。

 特徴的なのは、橋げたの両側に飾られた仮面。獅子もおり、不気味に笑う仮面と交互に取り付けられている。
 駅に近いだけに、汗を流しながら大きな荷物を引き上げる人、乳母車を押す若い母親、買い物袋をぶら下げて友人と世間話に興じるマンマ立ち、足早に通り過ぎる紳士と、様々な人生模様がこの橋周辺で毎日展開される。

 ◎トレアルキ橋
 グリエの橋から運河を遡って行くと、3段の半円で構成された橋が見える。「トレアルキ」とは3つのアーチという意味なので、まさにその形を名前にしたものだ。

 ここにも橋げたにいろいろな表情の仮面(?)が飾られており、重要な橋だったことがうかがわれる。

 ◎ゲットー橋
 ユダヤ人の居住地域であるゲットーへは3つの入り口があるが、そのうちの1つオルメミーニ通りから入るには、このヴェネツィアでは珍しい鉄製の橋を渡ることになる。

 この地区にはシナゴーグもあり、ブロンズ製のホロコースト慰霊碑も建っている。また、限定された土地のため、ここだけは高い建物が見られる。
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ため息橋と祭りの日だけ出現する仮橋…ヴェネツィアの橋②

2016-07-23 | ヴェネツィアの橋

 ◎ため息橋
 ドゥカーレ宮殿と小運河を挟んで隣の建物とを結ぶ橋。隣には牢獄があり、囚人たちが宮殿から牢獄に移されるとき、橋の小さな窓から外の景色を眺めながら絶望のため息をついた、というエピソードからつけられた名前だ。

 原語も「ポンテ・デイ・ソスピーリ」で、ため息の橋となっている。1602年の建設当時は違う名前だったのが19世紀になって替えられたらしい。

 優雅な浮彫彫刻や1595年に総督に選出されたマリーノ・グリマーニ家の紋章を施した外観を見て、最初はその美しさにため息をついたものだと勝手に理解していた。由来を聞いて、外観とは全く正反対のいきさつにびっくりしたのを覚えている。

 ただ、橋が出来た時代以降は宮殿内の牢獄は軽犯罪犯が大半だったという説もあり、その名に値する状況だったかどうかを疑問視されている。
 それにしても、観光シーズンにはこの橋をバックに記念写真を撮ろうという人で大混雑になる場所だ。


 ◎レデントーレの仮橋
 1577年に大流行したペストの鎮静化を感謝して、毎年7月の第3日曜日に行われるレデントーレの祭りでは、ジュデッカ運河に本島とレデントーレ聖堂とを結ぶ舟の橋が渡される。


 ふだんは大型の船も通行する運河だが、この日だけは完全に通行禁止。お祈りのために仮橋を渡る人たちで占められる。

 その前夜には、夜中12時前後に花火が打ち上げられて、仮橋からも夜空に花開く花火が観賞できる。
 私はサンマルコ広場で花火を見上げたが、ものすごい群衆にもみくちゃになって、なかなか写真を撮影するのに苦労した思い出がある。

 ◎サルーテの仮橋
 毎年11月21日に、これもまた1630年のペスト終結を記念したサルーテ教会の祭りの際、同様に仮橋が架けられる。

 教会巡りシリーズのジーリオ教会の時にも紹介したが、こちらはカナルグランデ(大運河)を横断してかけられる。

 こちらの祭りは派手な演出はない。サルーテ教会内のミサに参加したことがあった。堂内に灯されるろうそくの明かりの中で、敬虔に祈りをささげる瞬間は、とても心を洗われる経験だった。
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カナルグランデ(大運河)に架かる4つの橋…ヴェネツィアの橋①

2016-07-19 | ヴェネツィアの橋

 百をはるかに超える島から成り立つヴェネツィアは、それらを結ぶ400もの橋が渡されている。その多くは船を通過させるために中央を頂点とする弧を描いて架けられる。まるで舞台のように。
 大きな橋になると、昇り始めた時点では橋の頂点までしか見えない。次第に向こう側が姿を現し、頂点に立った瞬間、過去と現在、未来をも含めた時空間の分岐点に立っているという幻想にとらわれる。
 新しい人生に一歩を踏み出すのか、それとも今の自分を取り巻くものに踏みとどまるのか、あるいは過去の思い出にくるまれて生きるのか・・・。
 そこは人に決断を迫る場ともなるのだ。恋人たちが橋の上で出会い、また別れるシーンが特に印象的なのは、そんな心象風景を象徴するからなのだろう。
 ヴェネツィアの橋は、様々な想いを想起させる。


 ①リアルト橋
 ヴェネツィアの大運河(カナルグランデ)のなかでも最も古く島の中心地でもあったのが、このリアルト橋だ。島々を分かつ深い水路を意味する「リヴス・アルトゥス」が語源という。1180年の最初の橋は、船を並べて両岸を行き来する浮橋だった。


 次にカルパッチョの絵に描かれたように木造の跳ね橋に替えられた。しかし、1444年の水上パレードの時、殺到した観衆の重みで橋が倒壊、その後何度か修復されたが、1588年になって石造の橋にすることになり、アントニオオ・ダ・ポンテがコンペを勝ち抜いて設計を任された。1591年、長さ48m、幅22mの、現在みられる形がここに完成した。以来、アカデミア橋が建造されるまで300年近く、リアルト橋が大運河唯一の橋だった。

 橋を中心としたこの地区は島の中でも最も高い土地で地盤も固く、高潮の危険に脅かされないという長所もあった。そこで、東地中海交易の物資運搬の基地となり、経済、商業の中心地としてヴェネツィアの繁栄を支えてきた。
 橋の両側スペースは店舗になっており、アクセサリー、ベネツィアングラス、マスクなど土産物の店が並んで観光客でにぎわっている。
 その雰囲気は、フィレンツェのヴェッキオ橋とよく似ている。

 また、手すり付近には、運河やそこを通るゴンドラの風景を見ようとする人たちであふれ、サンマルコ広場と並ぶ2大観光スポットだ。

 ②アカデミア橋
  傾いた鐘楼を持つサント・ステファノ教会の広場からアカデミア美術館に行こうとすると、木造の大きな橋に行き当たる。これがアカデミア橋だ。建設は1854年。当時は1797年にナポレオンがヴェネツィアに侵攻してフランス領となった後、オーストリア領に替わったころで、オーストリア支配下で進められた建設だった。

 最初は鉄の橋だったが、1932年の架け替えの時、設計が決まるまでの暫定措置として木造の橋が架けられた。そのまま50年ほど経過し、様々な案が出された末、結局下部を鉄で補強した木造の橋建設が決まり、現在の姿になった。

 美術館側から昇り始めると、橋の一番高い地点まで53段を上る。そこからステファノ広場側へは50段の階段しかない。両岸の高さが違うためにこのようなことになっているのだろう。もともと別の島を橋でつないでいるということを、こんな事実から再確認することになる。

 この橋からサンマルコ方面を見ると、ちょうど正面にサルーテ教会の優雅な円形のクーポラが望め、運河にはゴンドラの浮かぶ風景が展開する。
 ある冬の夜、ステファノ広場で開かれていたクリスマス市の帰りにこの橋を渡った。橋げたのカーブが、岸辺の古い館から漏れる照明に包まれてシルエットとなって目に迫ってきた。空は深い青。とても幻想的でしばし見とれてしまったことがある。


 ③スカルツィ橋
 サンタルチア鉄道駅で電車を降り、駅構内を過ぎると、広場の前方に高々とアーチを描いた橋がそびえている。ヴェネツィアでまず最初に目にする独特の印象的な風景だ。この橋もオーストリア支配下だった1858年に建設された。こちらは石の橋。



 どちらから昇っても階段は40段ずつ。アカデミア橋より高く見えるのに段数が少ないのは、一段の間隔がこちらの方が大きいことによるようだ。


 ④第4の橋
 大運河の橋は、ずっと上にあげた3本の橋だけだったが、2007年、本当の西の端ローマ広場のヴァポレット停留所近くに新しい橋が出来た。スカルツィ橋以来約150年ぶり4本目の橋だ。
 ヴェネツィアに入るには、鉄道ならサンタルチア駅に直接到着するが、飛行機の場合は陸地の空港から船で入るか、バスでローマ広場に来ることになる。車はすべてローマ広場でストップとなり、ここで別の交通手段を使わなければならない。

 この橋の建設によって最も便利になるのは、同広場から鉄道駅への通行だ。これまではヴァポレットで駅まで行くか、すごい遠回りをしてスカルツィ橋を渡るしか手段がなかったが、今はほぼ直線距離を歩いて駅に着けるようになった。スペイン人の設計ということだが、あまり優雅ではなく、実用重視といった鉄の橋。路面が滑りやすいという声も聞かれる。
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ファザードがめちゃくちゃ豪華なジーリオ教会…ヴェネツィア教会巡り⑦

2016-07-15 | 教会巡りヴェネツィア

 サンマルコ広場から西に向かって3月22日通りを歩いてゆくと、右手に小さな広場を持ったバロック調の教会が現れる。それがサンタマリア・デッレ・ジーリオ教会だ。
 1679年から81年にかけてジュゼッペ・サルディによって建設された。

 ファザードは豪華。中央付近にダマルチアやイタリアの城塞都市を描いた6枚の大理石レリーフがはめ込まれている。また、ダマルチア監督官を務めた新興貴族アントニオ・バルバオの像が据えられている。

 さらに、脇にもバルバロ家の人物が立つ。

 中に入ろう。主催祭壇にはハインリッヒ・メイリングによる彫刻「受胎告知」。右手の聖母マリアに対して左手の大天使ガブリエルが、キリストを身ごもったことを告げるシーンだ。

 その下の面に何かあると思って近づいてみると、これは「最後の晩餐」がモザイクで造られていた。ジョヴァンニ・コランの作品だ。

 天井にも絵があった。しかも3枚も。いずれもアントニオ・ザンキの作で聖母を描いた連作。誕生、戴冠式、被昇天の3場面のようだ。

 ティツィアーノやベッリーニといった大画家のものはなかったが、それだけに観光客などは皆無。じっくりと落ち着いて観賞できた。

 広々とした印象のある教会だった。

 ジーリオ広場の先の岸辺からは、11月のサルーテの祭りの際、臨時の橋が渡される。この時だけは広場周辺は年に一度の大賑わいになる。
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