画家としてのスタートは15歳の時。当時の代表的画家であったフィリッポ・リッピに入門したことからだ。
初期にはリッピの画風に似た絵を描いていたが、次第に腕を磨いてゆく。1467年、リッピがスポレートに移住したことから一時ヴェロッキオ工房に参加した後、1470年自らの工房を構えた。
そんな時に舞い込んだのが、彼の本格的画家デビューとなる仕事だった。
フィレンツェ商業評議所が「美徳」の擬人像7点をピエロ・デル・ボッライオーロに発注していたが、ピエロが制作期限になっても完成しなかったため、ボッティチェリに追加発注を行った。
そうして1470年に完成したのが「剛毅」の擬人像だ。ボッライオーロの制作した信仰。賢明などの像がどちらかろいえば平凡だったのに対して「剛毅」は表情の豊かさ、肉体表現の量感などいずれも高い完成度だった。
ボッティチェリは、この絵によってフィレンツェ画壇に鮮烈なデビューを果たすことになった。
当時のフィレンツェはロレンツォ・イル・マニフィコ(ロレンツォ豪華王)がメディチ家の当主となり、実質的にフィレンツェを支配していた。そのロレンツォから絶大な支持を受けたボッティチェリは、次々と傑作を完成させて行く。
象徴的な作品は「東方三博士の礼拝」だろう。
キリスト誕生に際して祝福に訪れた三博士、という聖書の物語をえがく際、メディチ家の人びとを登場人物に擬して描くという手法を使った。
中央にいる聖母に抱かれたキリストの足先を支えるのはメディチ家の始祖コジモ・イル・ヴェッキオ、中央の赤いマントがその長男ピエロ・イル・ゴットーソ、その右の白い服が次男ジョヴァンニ、さらに右側黒い服がピエロの次男ジュリアーノ・ディ・メディチと並ぶ。
そして、当時の当主ロレンツォ(ピエロの長男)は左端に胸を張って自信にあふれた姿を見せている。
絵全体を見ても中央の聖母を頂点としたピラミッド型の構図をしっかりと形成している。
ロレンツォはボッティチェリを評してこんな言葉を残している。
「ボッティチェリ、食いしん坊のボッティチェリ。彼はハエよりもやかましく食いしん坊。
彼のおしゃべりを聞くのは何と楽しいことか・・・」
そんな気に入られ方をしていたボッティチェリ自身はどんな姿をしていたのだろうか?
その疑問を解消してくれるものが、この絵に残されている。絵の右端でこちらを見ている茶色の服がボッティチェリその人。彼の自画像はこれ1枚しかないといわれている。
ここでこぼれ話を1つ。当時描かれた自画像はすべて観客と視線が合ってしまうようになる。なぜなのか?
それは、写真などがない時代は、自画像は自らの顔を鏡で見ながら描いていた。従って視線が常に正面を向く結果になってしまうのだそうだ。