新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

パリ・モンマルトル紀行⑮ モネが洗礼を受けた教会 ノートルダム・ド・ロレット教会下

2017-02-21 | パリ・モンマルトル

 ロレット教会内部、左側廊に美しい木製の聖母子像を見つけた。

 近づいてその表情に見入る。   凛とした表情が素晴らしい。

 「この聖母子像に会うためだけに、この教会を訪れる人も多いんですよ」。教会の司祭が教えてくれた。      なるほど!


 左奥の部屋には、鮮烈なステンドグラスがある。聖母被昇天の場面が描かれている。


 この教会は印象派の画家たちの人生の節目といろいろなかかわりを持っている。

 まず、1832年にはエドガー・ドガの両親がここで結婚式を挙げている。

 それから8年後の1840年、モネの洗礼式もここで行われた。

 モネの生家はラフィット通り48番地のビルの6階。教会からすぐだ。

 モネ一家は1845年にル・アーヴルに移るまでここで暮らした。

 さらに1894年、カイユボットの葬儀もここで行われた。カイユボットは自らが画家であると同時に、印象派の作品を買い取り、現在のオルセー美術館の核となるコレクションを残した功績者でもある。


 それだけ、この教会周辺に後の印象派の画家たちが住み、彼らの信仰のよりどころになっていたということだろう。

 こんなこけしのような天使像もあった。

 聖母子の神殿奉献だろうか。美しい絵画も残されている。

 1800年代のパリの情景を想像しながら、パリ在住の友人の職場に向かった。

 次回からは、マネを中心とした19世紀の絵画の物語を始めてみたいと思っています。
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パリ・モンマルトル紀行⑭ 2つの教会が‟合体”する奇跡のポイントを見つけた=ノートルダム・ド・ロレット教会上

2017-02-18 | パリ・モンマルトル

 今日はある2つの教会が1つに重なり合うという奇跡的な瞬間に出会える場所に行ってみよう。

 
 まず、地下鉄ブランシェ駅前からピエール・フェンティーユ通りを南下する。途中ピガール通りと交差する地点にゴッホゆかりの家がある。フィンセント・ゴッホの弟テオ・ゴッホの家だ。ゴッホの終の棲家となったオーベル・シュル・オワーズに引っ越す時、つまり自殺する3か月前にこの家を訪れている。

 今はサロン・ド・テになっているようだ。

 広くにぎやかなロレット通りをセーヌ川方面に向かって歩く。ちょうど同名の地下鉄駅前にノートルダム・ド・ロレット教会がある。
 すぐには中へ入らずに、いったんそのままラフィット通りを下ってみる。その通りと東西に延びるオスマン通りが交差する少し手前まで歩く。
 そして、今まで来た道を振り返ってみよう。

 すると、ロレット教会の正面の上に、モンマルトルの丘にそびえ立つサクレクール教会がすっぽりと乗っかったように見えてくる。
 まるで2つの教会がこの瞬間だけ1つに合体してしまう場所なのだ。なかなか見ることの出来ない不思議な光景だ!

 それでは教会に戻って中に入ってみよう。この教会も素晴らしい輝きを持った聖堂なのだ。天井には金色の十字架があり、その輝きで教会全体が明るく感じる。


 主祭壇の上には聖母マリアの姿が。

 その上のクーポラ部分にもフレスコ画が描かれ、二重の半円形が重なっている。
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パリ・モンマルトル紀行⑬ モンマルトル墓地で出会った人たち・下 印象的な墓の数々

2017-02-14 | パリ・モンマルトル

 有名人の墓以外にも印象的な墓がいくつもあった。

 非常に美しい全身像が飾られた墓。名前を見ると jacqeline didsbury という名前が刻まれていた。

 一方、パイプを持った紳士。顔が彫られているのだが、浮彫ではなくて顔面がへこんだ形のユニークな像だ。

 こちらは何か物思いにふける男の像。生前は詩人だったのかも。

 かと思えば、沢山の写真に囲まれた男性の墓。ダンディさが売り物だったのかな。

 男性に縋りつくような女性の姿。まるでドラマの1シーンのようだ。

 日本人と思われる人の墓もあった。

 墓に刻まれた名前は usui kazuko さん。

 墓碑には「桜花 ちりても永久に 美しき」 との句が刻まれていた。

 近くには、まるで墓地の守り神のようにじっと参拝者を監視していたネコ。

 ボタン雪に似た雲が空一杯に広がったころ、墓地を後にした。
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パリ・モンマルトル紀行⑫ モンマルトル墓地で出会った人たち・中 モロー、スタンダール、ダリダ・・・

2017-02-11 | パリ・モンマルトル
 案内図によると、ニジンスキーの近くにギュスタブ・モローの墓があるはずなのだが、なかなか見つからない。
 たまたま墓参りに来ていた地元の人に尋ねて、やっと見つけることが出来た。

 墓石に名前が刻まれているだけで、何の特徴もない墓。

 象徴派の代表的な画家だけに、例えばサロメのレリーフが添えられていたりするのかと思っていたが、全く地味な墓だった。(後方に映っている人たちに墓の場所を教えてもらった。有難うございました)

 それに対して、すぐ近くにはこんなユニークな母子像があった。抽象作品だが、母子の愛情がにじみ出るような雰囲気を醸し出していた。

 スタンダールの墓。「アンリ・ベイル  ミラノ人  書いた  愛した  生きた」
 墓碑銘にはこんな文字が記されている。

 「赤と黒」「パルムの僧院」などの作者。「スタンダール」は本名ではなかったことを初めて知った。

 ダリダの墓は入り口近くまで戻って東側の石段を上った所にあった。

 ドレスを身にまとった黄金の全身像。まるで舞台に立って高らかに歌いだそうとするかのような堂々とした姿だ。

 イタリアからの移民の子としてエジプトで生まれ育ち、ミス・エジプトにもなったことがある美貌の持ち主。
 フランスで最初にディスコミュージックをはやらせ、ダイヤモンドディスクを獲得。フランス歌謡史上最も売れた歌手ともいわれる。
 モンマルトル博物館近くに住み、胸像の置かれた広場は「ダリダ広場」と名付けられている。
 それにふさわしい格調のある墓だった。
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パリ・モンマルトル紀行⑪ モンマルトル墓地で出会った人たち上 エミール・ゾラ、ハイネ、ニジンスキー・・・

2017-02-07 | パリ・モンマルトル

 晴れた日、モンマルトル墓地に出かけた。墓地はムーラン・ルージュ西側の坂道を上った所にある。広さは11ha。とにかく広いので、門を入るとすぐにある墓全体の案内図で、目的の墓の位置を確認してから行動するのがベターだ。

 入り口近く、すぐにわかるのはエミ-ル・ゾラの墓。「居酒屋」「ナナ」などの自然主義文学の旗手だった作家。左手に小高くなった土地があり、そこに胸像が飾られた規模の大きな墓だ。

 ゾラは、この墓からほんの数百メートルの所に住んでいた。斜め向かいにアトリエを持っていたバジールら印象派の画家たちと交流があった。そんな中で、当初認められなかったマネの作品を擁護する批評を書いたことでも知られている。

 墓地はネコの天国らしく、あちこちで自由に歩き回るネコたちに出会った。

 ゾラの少し北側には作曲家ベルリオーズの墓。幻想交響曲で知られるロマン派の作曲家だ。

 隣にこんな姿の像も。花を携えて、今にも語り掛けそうな女性像。

 さらにハイネの墓も。

 ドイツの詩人、作家だが、30代にパリへ移住してここに埋葬されている。白いすっきりした墓だ。大理石の顔は、デンマークに彫刻家ルイス・ハッセルリーフ作。ハプスブルク家の王妃エリザベートが制作を依頼したのだという。

 慕う人が多いようで、この日も花束が置かれていた。

 北に進む道を歩いてゆくと、足を組んで考え事をしているような格好の像がある。天才といわれたバレエダンサー、振付師のヴァーツラフ・ニジンスキー。
 驚異的な腕力で空中に静止しているかのような跳躍や演技力で観客を魅了したが、若くして精神に異常をきたし、活躍したのは8年間だけだった。

 この姿は、ペトルーシュカの舞台衣装だそうだ。
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